ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 15  薬音寺薬師如来坐像

2011年11月21日 | みほとけ
    
 山辺郡山添村薬音寺の平安期仏像群のことは以前から聞き知っていたものの、確かな情報が得られなかったこともあって、あまり関心を持たなかった。大和高原地域のほぼ中央に位置して中世街道の要衝に近接する点に着目しつつ、何らかの重要な役割を担った寺と仏像か、と漠然と思うにとどまった。
   
 しかし、柳生から山城小田原、都祁から宇陀への定朝様遺品の分布を念頭におけば、そのほぼ中間点に位置する薬音寺の存在は俄かに無視出来なくなる。大和国における定朝様式の動向を考えるに欠かせない遺品が薬音寺の仏像群に含まれているとしたらどうか。未だに解明されない部分が大きい大和地域定朝様式の輪郭がより明確に捉えられる可能性が浮上してくる。
  
 この仮定のもと、地元関係者各位の御理解と助力を得て薬音寺仏像群に接したのであるが、かすかな期待を込めた予想は完全に外れた。定朝様式の動向を考えるに欠かせない遺品どころか、もっと古い時期の貴重な複数遺品の伝存に驚き感動させられたのである。
   
 この仏像群については、その数20躯に及びながらも調査資料は明治39年の分のみで、戦後の文化財調査が皆無であるため、地元住民も地元教育委員会も詳細を把握しておらず、その意味ではまさに「奈良県最後の隠れ仏たち」であった。
 薬音寺に隣接する九頭神社を戸隠社とも称した史実からは、先ず天台系修験系統の造仏が想定されたが、実際には天台系仏像の初期例に近く、創建以来の一具性をとどめた貴重な遺品群であった。時期的には室生寺金堂の安置仏像に次ぐもので、奈良県下にこのような初期天台彫像の古例が現存すること自体が驚きである。
 本堂内陣の20躯のうち、18躯が薬音寺本来の安置像であるが、その全てを紹介することは別の機会に譲り、ここでは初期の作品と目される数例を挙げて順に報告したい。
   
 今回は薬音寺の寺名の由来ともなっている旧本尊の薬師如来坐像を見てゆこう。信迎上の事情により安置現状を尊重し厳守しての見学および撮影となったため、内陣最奥壇上に坐する姿を他像の間に視認するにとどまり、全体の細部までを捉えるには至らなかったが、それでも造形の特徴や精神は各所に明確であった。一木彫の特徴である塊量性と重量感が感ぜられ、四肢に力をこめたようなぎこちない姿勢には緊迫した感情が充満して余りある。
 それらは造形表現の未熟さではなく、日本の木彫が古代からの変遷のなかで必ず経験した造形の「定型」とみるべきである。胴体は内圧感に溢れ、充実した宗教意識の高揚が全身に漲っているかのようである。これらの迫力が怒らせ気味の両肩と「威相」とも言える森厳な表情によって像の宗教的雰囲気を威圧的に深めてゆくあたりに、作者の意図がさりげなく見え隠れする。山岳密教の主要尊像とはこうあるべきだ、という信念に通ずる意思である。
   
 こうした傾向に加えて、見逃せないのは像の左肩から腕に流れる深く彫り込んだ衣皺の表現である。類似の作例を探せば奈良国立博物館蔵の旧若王子社薬師如来坐像が挙げられ、東大寺法華堂伝来の弥勒仏坐像が続く。いずれも九世紀後半に置かれる遺品であり、ともに個性的な彫技による表情の造りが印象的である。
 これらに対して薬音寺薬師如来坐像の表情は室生寺金堂本尊薬師如来立像(伝釈迦如来立像)に近い感覚を宿す。これらの点によって薬音寺薬師如来坐像の造立時期は遅くとも九世紀末期に推定されてくる。その時期の作品は仏像の豊富な奈良県下でも数少なく、また造形の輪郭や雰囲気が初期天台彫像のそれを濃厚に漂わせるところも見逃せない。こうした遺品は彫刻史の本流に位置せしめて考察されるべきであろう。
  
 大和高原地域の仏像史は大局的には藤原時代を中心に概観されるが、なかにはこうした古像が伝わって前代の様相を断片的に示唆する。九世紀代の彫像遺品として室生寺金堂安置仏像との「近さ」を認識した時、薬音寺の所在地である室津の地名が室生と同じく「ムロ」を冠することにも気付くが、そこまで思いを巡らすのは考え過ぎであろう。
 しかし両者が大和国における初期天台彫像であることは重要であり、東山内を「山中他界」と見なした古代大和の宗教意識が反映されていることを思わずにはいられない。 (続く)
  
(写真の撮影および掲載にあたっては、薬音寺総代様および山添村教育委員会の御許可を頂いた。)