おばぁさんの納骨(厳密には分骨)で高野山へ行った。
家からだと、バス、電車、ケーブルカーを乗り継いで約3時間の道中だ。
かなり遠いと感じる。
高野山と言えば、学校の林間学校というイメージが大きいかもしれないが、そもそも、弘法大師が開いた由緒正しき霊場である。
とは言うものの、最近は観光地化がすすんで、バスでの観光ツアー客の多い事多い事。
さて、納骨は滞り無く、厳かに執り行われ、終了した。
お寺(残念ながら金剛峰寺ではなかった。)のお坊さんが、左手首に結界を張ってくれた。
見た目はよくあるミサンガだけど、霊界の力が働いていて自分に降り掛かる災悪から守ってくれるらしい。そして、自分に課せられた苦難を乗り切る時にこれが切れるらしい。
常時装着が望ましいらしいので、そのようにする。
その後、奥の院へお参りに。
ここには、歴史上の人物のお墓が悠々と建っている。戦国時代の好きな人にはたまらないスポットなのかもしれないが、僕には価値があまり分からない。
奥の院までの道のりは片道約1Km。何十メートルもある大木の森の中を歩いていく。
その道中に『みろく石』というのがある。
お社に片手が入るだけの小窓があり、その中に少し大きめの石が置かれている。
その石を片手で持ち上げる時に感じた重さが、今自分が抱えている苦難(宿命とか運命という人もいるらしい)の重さなのだそうだ。
そして、持ち上げて、台座の上に置き、また、台座からおろす事が出来れば、願いがかなうというありがたい石。
持ち上げてみた。というか、持ち上げてみようとした。中の石はかなり大きいので、手が小さい僕にはつかむ事もなかなかかなわない。
ずっしりと重い。これが、俺の抱えている苦難の重さか…。
人によって、感じる重さが違うというのは凄く当たり前のような気もするが、聖地としての高野山では、それはありがたい事なんだろう。
僕みたいに、宗教心、信仰なんてものにほど遠い人でも、高野山という霊場はなにか心に訴えかけるものがあるような気がしました。
家からだと、バス、電車、ケーブルカーを乗り継いで約3時間の道中だ。
かなり遠いと感じる。
高野山と言えば、学校の林間学校というイメージが大きいかもしれないが、そもそも、弘法大師が開いた由緒正しき霊場である。
とは言うものの、最近は観光地化がすすんで、バスでの観光ツアー客の多い事多い事。
さて、納骨は滞り無く、厳かに執り行われ、終了した。
お寺(残念ながら金剛峰寺ではなかった。)のお坊さんが、左手首に結界を張ってくれた。
見た目はよくあるミサンガだけど、霊界の力が働いていて自分に降り掛かる災悪から守ってくれるらしい。そして、自分に課せられた苦難を乗り切る時にこれが切れるらしい。
常時装着が望ましいらしいので、そのようにする。
その後、奥の院へお参りに。
ここには、歴史上の人物のお墓が悠々と建っている。戦国時代の好きな人にはたまらないスポットなのかもしれないが、僕には価値があまり分からない。
奥の院までの道のりは片道約1Km。何十メートルもある大木の森の中を歩いていく。
その道中に『みろく石』というのがある。
お社に片手が入るだけの小窓があり、その中に少し大きめの石が置かれている。
その石を片手で持ち上げる時に感じた重さが、今自分が抱えている苦難(宿命とか運命という人もいるらしい)の重さなのだそうだ。
そして、持ち上げて、台座の上に置き、また、台座からおろす事が出来れば、願いがかなうというありがたい石。
持ち上げてみた。というか、持ち上げてみようとした。中の石はかなり大きいので、手が小さい僕にはつかむ事もなかなかかなわない。
ずっしりと重い。これが、俺の抱えている苦難の重さか…。
人によって、感じる重さが違うというのは凄く当たり前のような気もするが、聖地としての高野山では、それはありがたい事なんだろう。
僕みたいに、宗教心、信仰なんてものにほど遠い人でも、高野山という霊場はなにか心に訴えかけるものがあるような気がしました。
すたしおさんが現在、苦難を感じておられるのであれば
おばあさまが高野山に導いてくれたのかもしれませんね。
不謹慎ですが高野山、行きたいな。
お互いジジイになったら一緒に参りましょうよ。
ただ、バス観光ツアー客がかなり見苦しいというのが問題点。