言の葉・音の葉

名古屋バリガムラングループ
<スアラスクマ>かつのブログ

アレクセイの泉

2011年05月12日 | 音楽・本・映画など
新栄にあるライブラウンジ<bio>で、
ドキュメンタリー映画<アレクセイの泉>を観てきた。

ベラルーシ共和国の小さな農村ブジシチェ村。
ここはチェルノブイリ原発から北東に180キロ。
政府によって移住勧告が出され住人のほとんどが村を去った。
残ったのは55人の年寄りと、1人の青年アレクセイだけ。
村の中央には「泉」がある。
村人達は、この泉の水を毎日汲んで生活する。
チェルノブイリ原発事故によって村の全てが汚染されてしまった。
大地も、そこで育ったジャガイモも、きのこが採れる森も。
しかし、その泉だけは放射能が全く検出されなかった。
村人達はこの泉を「百年の泉」と呼ぶ。
百年の泉は、たんなる水汲みの場としてだけでなく、
いつの日も村人達の心のよりどころとなってきた。


未曾有の大震災が起こった日本、原発に対する意識は高まってる。
自分もその一人でこの映画を観に行った。

チェルノブイリ原発事故が背後にある映画なだけに、
陰鬱で重くるしい感じを想像していたのだが、
いい意味で期待を裏切ってくれた。
気分が重くなるような雰囲気は全くと言っていいほどない。
放射能に汚染されてはいるが、
美しい自然に囲まれた中での村人達の表情が素敵だった。


プログラムより

「姫君、美人だね」とカエルを手のひらに乗せ無邪気に戯れる、
唯一残った若者アレクセイ。


プログラムより

収穫祭の日に行われた久しぶりのパーティー。
スカーフでお洒落をしたお婆ちゃん達。
陽気にステップを踏み、肩を組んで歌い踊るその姿は
まるで少女のように可愛らしい。

そして、爺さん達男連中は、
ウォッカですっかり出来あがっちゃってる。

「運命からも、自分からも、どこにも逃げられない。
だから僕はここに残った」
原発の災害にあって、それを「運命」と受け止めることが
果たして今の自分に出来るだろうか?

常日頃「何があっても乗り越えてみせるぞ」と思い生きているが、
今迄の日常を全て失うような災害や事件が起こった時、
ここの村人のような表情が自分に出来るだろうか?


ラストのアレクセイの言葉

「僕はどこにも行かなかった。
もしかしたら、泉が僕を
村にとどまらせたかもしれない。
泉の水が僕の中に流れ、
僕を引き止めている。
泉が人々に故郷に戻るよう、
引き寄せているのだろう。

そう…そういうことだ」

グッときた。

本当に豊かな生活をするのならば、
自然の中で自給自足の生活した方がいい。
だが、それを選ばず都会の中で生きている。
それを自ら選んでいるのだが、
文明社会に矛盾を感じ、憤りながらもその恩恵を受けている。
時には自ら求める時さえある。
矛盾だらけだ。
この映画は、真の人間の在り方を考えさせてくれたが、
同時に自分の矛盾をも突きつけられた。
痛い。でも、目をそらしちゃいけない。

「人間が生きていることが一番の罪」
そんな自らの問いに対して自ら
「いや、そんなことはない!」
と胸張って言える明日を目指して!

本当に観て良かった。











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