シリーズ化しそうな勢いです。
再び、absinthさんの理系/文系 (2) 【文系的思考】へトラックバック。
今回の引用は、断りがない限り、この上記ページから引用されています。
まず、最初に謝辞を。
私の思考範疇を抜けた(=斬新な捕らえ方)コメントに、感謝感激です。
火のついたabsinthさんに、さらに油を注いでみます(ニヤ)。
おっしゃるとおり、まず、究極の理系モデル、究極の文系モデルをつくってみましょう。
本当に理系と文系しかないの?という議論もありますが、とりあえず、2つの究極モデルで議論を進めてみましょう。
この議論が間違っていれば、どこかで第3の究極モデルが登場するでしょう。
こういうことが生じると、「あるレベルまで考え抜いた」といえるでしょう。
最初に私が仮につくってみたモデル(美しくないのですが)は、
・理系:再現性がないと困る現象を、ターゲットにする
・文系:再現性がなくても困らない現象を、ターゲットにする
です。
absinthさん曰く、
>でも GALANT's Cafeさん。
>「困る」っていうのはいくらなんでも 「典型的理系」のGALANT's Cafeさんに
>あるまじき定義ではありませんか^^
だめぽー!!_| ̄|○
痛い、痛すぎです(泣)。
どこか美しくないモデルだと思い、ずっと考えていたのですが、「困る」というあまりにもあいまいすぎる概念を用いて、定義しようとしていたのです。
こんな単純なことすらわからないとは。
考えが浅はかというか、話にならないです。>じぶん
さらに、absinthさん曰く、
>ここでのキーワードは 「再現性」ですね。「普遍性」と言ってもいいかもしれません。
中略
>つまり「困る」かどうかは別にして 思想、思考は学問と名乗る以上 自然科学を
>対象にしたものであろうと 人間の心理や価値を対象にしたものであろうと 普遍
>性をその究極に求めるものである とはいえませんか。
うぅむ、なるほど。
私の最初のイメージでは、
・理系:
同一条件ならば、だれが何度やっても再現できる(例:木からりんごが地球の中心に
向かって落ちる)ものについて、普遍性のある議論をする。
・文系:
同一条件を再現することができないため、1回ぽっきりの現象で再現しようのない(歴
史のようなイメージ?)ものについて、普遍性のある議論をする。
というようなイメージを持って、このモデルを構築していました。
なので、議論については普遍性がないと困ると思っていたのですが...
absinthさんは、こんなこともおっしゃってます。
>じゃあ 「文系的思考」においては「一意にしか解釈できない」ということは
>必要とされないんでしょうか。
>
>いや それでは困ってしまいます。
>導き出される結果に普遍性を求めることができなくなってしまいますから。
やはりそうですか?
そうですよね!
前回の「奴は理系か?文系か?」において、私は、「理系分野では、ある1つの現象を説明するために、たった1つの究極モデルを追い求め、そのモデルについて、誰もが一意にしか解釈できない表現を必用とする。」と述べました。
これは、理系と呼ばれる分野にいた私なので、自信を持って断言できました。
文系分野はどうよ?
どうなんです?(^^;;;
断言できなかったのです(なので、触れていないですよね?(^^;)。文系分野でも同じかどうか?
どうやら議論するときには、文系・理系にかかわらず、「一意にしか解釈できない」ように注意して論ずる必要があり、その結果、普遍性を求めることができることは、共通のようです(当たり前といえば、当たり前なのですが)。
ん?
ここで、究極の理系モデル・文系モデルの議論をする前に、
【自分で考え、自分の考えを述べる人】モデル
(長いので【考える人】モデルと略す)が必要なのではないか?と思えてきました。
私は、人生には「何を見て、何を感じ、何を考え、どう生きるか?」というループが必要不可欠だ!と信じ(オーバですが)、理系男としてのダンディズムを追い求めはじめた訳です。
だとすると、先ほど述べた【考える人】モデルは、こんなのでどうかな?
『対象物を観察して、
対象物を感じ、
対象物について考え、
普遍性のある表現で自分の考えを示す。』
(無論、ここに出てくる対象物は、すべて同じもの。)
では、理系と文系で何が違うのか?を、上記【考える人】モデルに当てはめてみると、
~同じ点~
・対象物を「観察する」という行為(方法論は対象物に依存(するだろう))
・対象物を「感じる」という行為(方法論は対象物に依存(するだろう))
・「普遍性がある」表現であること
・自分の考えを「示す」という行為(方法論は違ってもよい)
~違う点~
・対象物
・思考方法
・表現方法
どう?(w)
さらに続けて考えてみます。
absinthさん曰く
>文系的思考においても 言葉の定義の厳密さ は確かに要求されます。
>でもそれは その文が置かれた文脈と相互補完的なものである そんなふうに思います。
>その文脈において「一意にしか解釈できない」 ことが求められるのではないでしょうか。
うむうむ、なるほど。なかなか良い考え方だと思いました。
文学、芸術、哲学、養育学、神学、うまくあてはまりそうですね。
あれっ?
政治学、経済学、法学にも当てはまるのでしょうか?
たとえば、
政治に関する文の解釈が、文脈によって異なるとしたら...日本の政治家のお得意芸ですね!(w)
経済に関する文の解釈が、文脈によって異なるとしたら...市場経済は混乱?(だから長い間、日本は不景気なの?(w))
法に関する文の解釈が、文脈によって異なるとしたら...裁判が公平に行えなくなってしまいます(って、実際には、解釈が異なる場合も多数ありますよね?)。
うーむ、うまく行く場合と行かない場合があるように思うのは、私だけでしょうか?
いい考え方だと思うんだけど。どこか、しっくりこない感じがするのです。
(だれか、たすけて(^^;)
それとも、文系・理系を分けるときの分類がいけないのでしょうか?
ちなみに三省堂提供「大辞林 第二版」によると、
・文系→文科:数学・自然科学系統以外の学問の分野。人文科学・社会科学の分野。
・理系→理科:学校教育で、自然界の事物・現象を学ぶ教科。自然科学の学問。
に、にげているよ...うまく。_| ̄|○
ちなみに、理系である工学系の論文(すみません、他の理系の論文では、どのように書くことを推奨されているのか、詳細を知らないんです。きっと、同じようなものだと思うのですが)では、論文において最初に言葉の定義をし(その業界において自明である場合、わざわざしませんが。複数の意味があるとか、漠然とした概念である場合、必ず書くことが望ましいとされています)、その論文の文脈において「一意にしか解釈できない」様にすることが望ましいとされています。
つまり、absinthさんが言われている
>言葉を(どこのます目に置いてもその担う意味は変わらない)碁石のようなものとして
>捉え その定義を厳密に厳密に追い求めていく いわば 「そぎ落とし」 の思考法
>言葉を (その場にあわせて色も形も変えてしまう)ウミウシみたいなものとして
>捉え その言葉が含む幾多の意味を積極的に肯定していく いわば「増幅」の思考法
は、思考方法ではなくて、表現方法ではないかなぁ?と。
確かに、理系と文系の違いを表しているように思うんですが...
どう?(悩)
で、もう一度戻って、理系・文系の違いを考えてみると、
~違う点~
・対象物
!
対象物が違う?
どう違うんだ?
理系と文系が対象とする物を、GALANT's Cafe流にモデル化してみると、
・理系:人間が存在する前に、存在する現象をターゲットとする
(現象そのものの発見は、人間が存在してからのこともある)
・文系:人間の存在によって、存在する現象をターゲットとする
(もし、この世に人間が存在しないならば、その現象も存在しないようなもの)
どう?(w)
これでは、思考の違いにたどり着きませんねー
さて、思考の違いはあるのかないのか?
まだまだ続けましょう。
再び、absinthさんの理系/文系 (2) 【文系的思考】へトラックバック。
今回の引用は、断りがない限り、この上記ページから引用されています。
まず、最初に謝辞を。
私の思考範疇を抜けた(=斬新な捕らえ方)コメントに、感謝感激です。
火のついたabsinthさんに、さらに油を注いでみます(ニヤ)。
おっしゃるとおり、まず、究極の理系モデル、究極の文系モデルをつくってみましょう。
本当に理系と文系しかないの?という議論もありますが、とりあえず、2つの究極モデルで議論を進めてみましょう。
この議論が間違っていれば、どこかで第3の究極モデルが登場するでしょう。
こういうことが生じると、「あるレベルまで考え抜いた」といえるでしょう。
最初に私が仮につくってみたモデル(美しくないのですが)は、
・理系:再現性がないと困る現象を、ターゲットにする
・文系:再現性がなくても困らない現象を、ターゲットにする
です。
absinthさん曰く、
>でも GALANT's Cafeさん。
>「困る」っていうのはいくらなんでも 「典型的理系」のGALANT's Cafeさんに
>あるまじき定義ではありませんか^^
だめぽー!!_| ̄|○
痛い、痛すぎです(泣)。
どこか美しくないモデルだと思い、ずっと考えていたのですが、「困る」というあまりにもあいまいすぎる概念を用いて、定義しようとしていたのです。
こんな単純なことすらわからないとは。
考えが浅はかというか、話にならないです。>じぶん
さらに、absinthさん曰く、
>ここでのキーワードは 「再現性」ですね。「普遍性」と言ってもいいかもしれません。
中略
>つまり「困る」かどうかは別にして 思想、思考は学問と名乗る以上 自然科学を
>対象にしたものであろうと 人間の心理や価値を対象にしたものであろうと 普遍
>性をその究極に求めるものである とはいえませんか。
うぅむ、なるほど。
私の最初のイメージでは、
・理系:
同一条件ならば、だれが何度やっても再現できる(例:木からりんごが地球の中心に
向かって落ちる)ものについて、普遍性のある議論をする。
・文系:
同一条件を再現することができないため、1回ぽっきりの現象で再現しようのない(歴
史のようなイメージ?)ものについて、普遍性のある議論をする。
というようなイメージを持って、このモデルを構築していました。
なので、議論については普遍性がないと困ると思っていたのですが...
absinthさんは、こんなこともおっしゃってます。
>じゃあ 「文系的思考」においては「一意にしか解釈できない」ということは
>必要とされないんでしょうか。
>
>いや それでは困ってしまいます。
>導き出される結果に普遍性を求めることができなくなってしまいますから。
やはりそうですか?
そうですよね!
前回の「奴は理系か?文系か?」において、私は、「理系分野では、ある1つの現象を説明するために、たった1つの究極モデルを追い求め、そのモデルについて、誰もが一意にしか解釈できない表現を必用とする。」と述べました。
これは、理系と呼ばれる分野にいた私なので、自信を持って断言できました。
文系分野はどうよ?
どうなんです?(^^;;;
断言できなかったのです(なので、触れていないですよね?(^^;)。文系分野でも同じかどうか?
どうやら議論するときには、文系・理系にかかわらず、「一意にしか解釈できない」ように注意して論ずる必要があり、その結果、普遍性を求めることができることは、共通のようです(当たり前といえば、当たり前なのですが)。
ん?
ここで、究極の理系モデル・文系モデルの議論をする前に、
【自分で考え、自分の考えを述べる人】モデル
(長いので【考える人】モデルと略す)が必要なのではないか?と思えてきました。
私は、人生には「何を見て、何を感じ、何を考え、どう生きるか?」というループが必要不可欠だ!と信じ(オーバですが)、理系男としてのダンディズムを追い求めはじめた訳です。
だとすると、先ほど述べた【考える人】モデルは、こんなのでどうかな?
『対象物を観察して、
対象物を感じ、
対象物について考え、
普遍性のある表現で自分の考えを示す。』
(無論、ここに出てくる対象物は、すべて同じもの。)
では、理系と文系で何が違うのか?を、上記【考える人】モデルに当てはめてみると、
~同じ点~
・対象物を「観察する」という行為(方法論は対象物に依存(するだろう))
・対象物を「感じる」という行為(方法論は対象物に依存(するだろう))
・「普遍性がある」表現であること
・自分の考えを「示す」という行為(方法論は違ってもよい)
~違う点~
・対象物
・思考方法
・表現方法
どう?(w)
さらに続けて考えてみます。
absinthさん曰く
>文系的思考においても 言葉の定義の厳密さ は確かに要求されます。
>でもそれは その文が置かれた文脈と相互補完的なものである そんなふうに思います。
>その文脈において「一意にしか解釈できない」 ことが求められるのではないでしょうか。
うむうむ、なるほど。なかなか良い考え方だと思いました。
文学、芸術、哲学、養育学、神学、うまくあてはまりそうですね。
あれっ?
政治学、経済学、法学にも当てはまるのでしょうか?
たとえば、
政治に関する文の解釈が、文脈によって異なるとしたら...日本の政治家のお得意芸ですね!(w)
経済に関する文の解釈が、文脈によって異なるとしたら...市場経済は混乱?(だから長い間、日本は不景気なの?(w))
法に関する文の解釈が、文脈によって異なるとしたら...裁判が公平に行えなくなってしまいます(って、実際には、解釈が異なる場合も多数ありますよね?)。
うーむ、うまく行く場合と行かない場合があるように思うのは、私だけでしょうか?
いい考え方だと思うんだけど。どこか、しっくりこない感じがするのです。
(だれか、たすけて(^^;)
それとも、文系・理系を分けるときの分類がいけないのでしょうか?
ちなみに三省堂提供「大辞林 第二版」によると、
・文系→文科:数学・自然科学系統以外の学問の分野。人文科学・社会科学の分野。
・理系→理科:学校教育で、自然界の事物・現象を学ぶ教科。自然科学の学問。
に、にげているよ...うまく。_| ̄|○
ちなみに、理系である工学系の論文(すみません、他の理系の論文では、どのように書くことを推奨されているのか、詳細を知らないんです。きっと、同じようなものだと思うのですが)では、論文において最初に言葉の定義をし(その業界において自明である場合、わざわざしませんが。複数の意味があるとか、漠然とした概念である場合、必ず書くことが望ましいとされています)、その論文の文脈において「一意にしか解釈できない」様にすることが望ましいとされています。
つまり、absinthさんが言われている
>言葉を(どこのます目に置いてもその担う意味は変わらない)碁石のようなものとして
>捉え その定義を厳密に厳密に追い求めていく いわば 「そぎ落とし」 の思考法
>言葉を (その場にあわせて色も形も変えてしまう)ウミウシみたいなものとして
>捉え その言葉が含む幾多の意味を積極的に肯定していく いわば「増幅」の思考法
は、思考方法ではなくて、表現方法ではないかなぁ?と。
確かに、理系と文系の違いを表しているように思うんですが...
どう?(悩)
で、もう一度戻って、理系・文系の違いを考えてみると、
~違う点~
・対象物
!
対象物が違う?
どう違うんだ?
理系と文系が対象とする物を、GALANT's Cafe流にモデル化してみると、
・理系:人間が存在する前に、存在する現象をターゲットとする
(現象そのものの発見は、人間が存在してからのこともある)
・文系:人間の存在によって、存在する現象をターゲットとする
(もし、この世に人間が存在しないならば、その現象も存在しないようなもの)
どう?(w)
これでは、思考の違いにたどり着きませんねー
さて、思考の違いはあるのかないのか?
まだまだ続けましょう。
ようこそお越しくださいました。
理系文系の話、参考にさせていただきますね。
ただ、このblogでは、どちらかに優劣をつけたい訳ではありません。
「生きる」というテーマについて、皆で建設的な議論をしあって、「そういう見方、考え方もあるよね!」と、自分にとって斬新な見方、考え方を感じてほしいのです。
この議論、ご一緒にいかがですか?(w)
どうも...理系が不利ぽかったのでw
う~ぅ、う~ぅ...
そうか!
あの「う~ぅ」は、思考でうなる声だったのかぁ...
私は、パズルを解くように、楽しんでみました。
うーん、解けない。(泣)
私も考えるのですが、議論すると、自分の構築した理論に、ほころびを見つけてしまうのですよね。
ゆっくり考えるから 時間をください。
あ そうそう 「文系思考法」からそのまま続けて第2第3の記事が出ますけど、それはこの記事を読む前に書いたものなのでスルーして下さって結構です。
我田引水してみたくなっただけなので・・