不思議活性

小説 日本婦道記  『糸車』 2

   

      2

 『糸車』

    五

「ここをおまえのお部屋にと思って、襖を張りかえたり、調度を飾ったり、新らしく窓を切ったりした、着物や帯を織らせたり染めさせたりして、こんどこそ親子きょうだい揃って暮せるとたのしみにしていた、これでこそ父上もご出世の甲斐があるとよろこんでいたのですよ、それを考えてお呉れではないのかえ」
 それは哀願ともいうべき響きをもっていた。心をひき裂かれるようなおもいで、これが親の愛情だと思いつつお高は聞いた。子のためには、子を愛する情のためにはなにも押し切ろうとする、それが親というものの心であろう、かなしいほどまっすぐな愛、お高はよろよろとなり、母の温かい愛のなかへ崩れかかりそうになった。自分のために模様がえをしたというその部屋、新らしい調度や衣装、どの一つにもまことの親の温かい愛情がこもっている。その一つ一つが手をひろげて迎えているのだ。けれども、お高はけんめいに崩れかかる心を支えた、自分はその愛を受けてはならない、依田の家を出てその愛を受けることは人の道にはずれるのだ。こう自分を叱りつけながら、お高はやはり松代へ帰ると繰返した、
「みなさまのお仕合せなごようすも拝見しました、もう一生おめにかかれなくともこころ残りはございません、どうぞお高はこの世にない者だとおぼしめして、これかぎり忘れて頂きとうございます」
 梶女はしずかに立っていった。すぐに弟の保之丞が来、あとから金太夫と長兄とが来た、みんな言葉をつくしてここにとどまるようにとくどいた。お高はもうなにも答えなかった。喪心したように眼をつむり、肩つきの堅い姿勢でしんと坐っていた。それはまさしく問罪のように苦しい瞬間であった。

(お高は、四、五日の松本での滞在のうちに、どうしても松代の育った家に帰ることを胸に誓ったのです。)

    六

 明くる朝まだほの暗いうちにお高は松本を立った。来るときの老僕と下婢が供について、梶女と保之丞とが城下から一里あまりの中原という辻まで送って来た、そしてそこの掛け茶屋でいっしょに茶を啜り、暫く別れを惜しんでから袂とをわかった、二人はお高の姿が道を曲ってゆくまで見おくっていたが、お高はいちどもふり返らず、まっすぐに並木の松のかなたへ去っていった。
 道をいそいだので松代へは三日の午まえに着いた。城下町が見えだすともう胸がいっぱいになり、いくら拭いてもあとからあとから涙がこみあげてきた、ほんの僅かな留守だったが、山やまの姿も千曲川のながれもなつかしく、眼につくほどの樹立や丘や段畑、路上の石ころまで呼びかけたいような懐かしさが感じられて、郷へ帰ったという気持がした。……松之助は稽古からまだ帰らず、家には啓七郎ひとり、ちょうど薬湯を煎じているところだった、老僕のおとずれる声を聞いて玄関へ出て来たが、はいって来るお高を見るとあっという表情をした。
「ただいま戻りました」
 お高は簡単にそう挨拶をすると、すぐ裏へまわって自分のすすぎをし、供の二人にもあがってひと晩泊ってゆくようにと云った。然しかれらは玄関で西村からの口上を述べ、手みやげなどを置いてあがらずにたち去った。
「どういうわけで帰った」
 さし向いになって坐ると、啓七郎は煎じていた薬湯を湯のみにつぎながらそう云った、
「持たせてやった手紙は読まなかったのか」
「拝見いたしました」
「それなら事情はわかっているはずだ、おれも安穏な余生がおくれるし、おまえの一生も仕合せになる、そう考えてしたことなのに、眼さきの情に溺れてなにもかもうち毀してしまうつもりか」
「おゆるし下さいまし、父上さま」
 お高はひしと父を見あげ、そこへ手をついた、
「わたくしもっと働きます、お薬にもご不自由はかけません、お好きなものはどんなにしても調えます、もっとお身まわりもきれいにして、お住みごこちのよいように致します、ですからどうぞお高をこの家に置いて下さいまし」
「おまえにはおれの気持がわからないのか、おれがそんなことを不足に思っているようにみえるか、おれがおまえを西村へかえす決心をしたのは」
「わかっております、わたくしにはわかっておりますの、父上さま」
 お高は父にそのあとを続けさせまいとしてさえぎった、
「わかっておりますけれど、お高はいちどよそへ遣られた子でございます、乳ばなれをしたばかりで、母のふところからよそへ遣られたお高を、父上さまは可哀そうだと思っては下さいませんか、もし可哀そうだとお思い下さいましたら、ここでまたよそへ遣るようなことはなさらないで下さいまし」
「だが西村はおまえにとって実の親だ、西村へもどればおまえは仕合せになれるのだ」
「いいえ仕合せとは親と子がそろって、たとえ貧しくて一椀の粥を啜りあっても、親と子がそろって暮してゆく、それがなによりの仕合せだと思います、お高にはあなたが真実のたったひとりの父上です、亡くなった母上がお高にとってほんとうの母上です、この家のほかにわたくしには家はございません、どうぞお高をおそばに置いて下さいまし、よそへはお遣りにならないで下さいまし、父上さま、このとおりおねがい申します」
「父上」
 と、叫びながら松之助が走せいって来た。稽古から帰って、表で二人のはなすのを聞いていたのだろう、眼にいっぱい涙を溜めながらはいって来ると、姉とならんでそこへ坐り、なかば噎びあげながらこう云った、
「どうぞ姉上を家に置いてあげて下さい、父上、こんなに仰しゃっているのですもの、どうかよそへは遣らないで下さい、おねがいです」
 啓七郎は眼をつむり、蒼ざめた面を伏せ、両手を膝に置いてじっと黙っていた。それは大きなするどい苦痛に耐える人のような姿勢だった。そしてながいこと、お高と松之助との噎びあげるこえだけが、貧しい部屋の壁や襖へしみいるように聞えていた。
「……では家にいるがよい」
 啓七郎がやがて呻くようなこえでそう云った、
「西村どのへは父から手紙を書く、もう松本へは遣らぬから」
 松之助は姉の膝へとびつき、涙に濡れた頬をすりつけながら声をあげて泣きだすのだった。
 爽やかな朝の日光が、明り障子いっぱいにさしつけている、いかにも春らしく、心を温められるような明るさだ。お高の繰る糸車の音が、ぶんぶんと、そのうららかな朝の空気をふるわせて聞えてくる、蜂の翅音にも似たしずかな、心のおちつく柔らかい音である。啓七郎はそれを聞きながら、
「おまえ成人したら姉上をずいぶん仕合せにしてあげなければいけないぞ」
 と、松之助に云うのだった。
「大きくなればわかるだろうが、姉上はこの父やおまえのためにせっかく仕合せになれる運を捨てて呉れたのだ、自分のためではない、父とおまえのためにだ、……忘れては済まないぞ」
 松之助は父の眼を見あげて、少年らしくはっきりと頷いた。糸車の音はぶんぶんと、歌うようにしずかな呻りをつづけていた。


・小説 日本婦道記『糸車』いかがでしたか。お高の、父・啓七郎と弟・松之助への愛。お高のその純粋な婦道記・・・・。他の日本婦道記のなかのどの小説も、胸にジーンと来ました。これらは、古き良き時代の単なる物語ということではなく、いつの時代にも当てはまる人としての心あたたまる姿なのではと思うのです。


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