不思議活性

自分史4  本山博先生と私 5



     5

 今は亡き、本山博先生は私に取って遠い存在でしようか。いえ、本山博先生は、地位や人種にこだわらず、誰もが日々の生活を通して、超作と瞑想を通じて神の心を生きることを教えてくれたのだと思う私です。その身近な著作に、『現代社会と瞑想ヨーガ・21世紀こころの時代』1996年(平成7年)発行があります。私が42歳の時です。今は、まさしく21世紀・令和5年です・・・・。

 『現代社会と瞑想ヨーガ』より。はじめにとして。

「二十世紀は、科学の発達に伴い、物の豊かさを求めた時代であった。しかし、人間を物の面でのみとらえる、つまり人間を物より成り立つ身体の面でのみとらえることは、人間の心や魂を忘れた文明であり、そのような文明や政治組織のもとでは人間の心は窒息せざるを得ない。その結果、心の自由、魂の渇きを満たしてくれる文化を求めて、民衆の心に大きな反動が生じる。
 本書は、人類が400万年前に地球上に現れて以来、次第に、心の知的能力の面、社会組織形成で進化し、砂漠地帯と、雨に恵まれた地域でそれぞれ独自の文化、宗教をつくってきた過程を説明し、それとの関連において、現代社会で宗教に根差した民族紛争が絶えない理由を説明する。
 また、科学の限界を探り、宗教と科学との統合こそ必要であることを説き、そのためには、物の文明から、心、霊の進化を目指す文明に入ることが必要であることを説く。
 最後に、心、霊の進化を実現する具体的効果的方法としての経絡体操、ヨーガの座法、呼吸法、瞑想が初心の人にもよくわかるように説明されている。
 本書を読んで、二十一世紀の魂と心の時代に適応できるように、心と魂の成長進化を目指していただきたいと思います。」と、書かれています・

     * * * * * *

 思うに、この『現代社会と瞑想ヨーガ』を著したのが、ちょうど、今の私の歳の頃です。瞑想の実際については、本山博先生の多くの本に、紹介されていますので、私は、<宗教はなぜ争いの元になったか>の項を紹介いたします。

「人類の歴史をみると、神の名において行われた戦争や虐殺のいかに多いことか、中世ヨーロッパの十字軍や魔女裁判はどうだ。現代ですら、中東、アフリカ、インドなど、世界の各地で争いが続いているではないかというものです。
 それが信仰をめぐる争いの特徴の一つだと言ってもいいかも知れません。では、愛と平和を説く宗教の名のもとで、なぜこのような終わりのない争いが繰り広げられるのでしょうか。
 その原因は、ひとことで言えば宗教の物化現象にあります。宗教が生まれ、時が経って人々の間に広まって行くにつれ、これまでの宗教はほとんど例外なく物化現象を起こしました。
 宗教はある人間の宗教体験を基盤として始まっています。たとえばキリスト教ならキリストの、仏教なら釈迦の、神仏との合一の体験、そこで得られた絶対の真理が基になっています。
 この真理を人々に伝えるには、当然のことですが言葉が必要です。しかもそれは、人々にわかりやすい、一貫した論理を持たなくてはなりません。そこで、教義が成立します。自然環境、時代、生活様式や行動様式の違いによって、それぞれ違った教義が生まれることは先ほど話した通りです。
 次の段階は、共同体の形成です。一番初めの段階では、神仏との合一を果たした人物が一人で全国を歩きまわり、道端で少数の人を相手に自分が得た絶対の真理について話をする・・・・・・、そんな形が続くでしょう。キリストがエルサレムの町だけでなく近隣諸国を放浪しながら教えを伝えたことは皆さんもご存じのはずです。日本でも、日蓮宗を興した日蓮や、浄土真宗を興した親鸞などの辻説法は良く知られています。
 宗教の物化現象は、次の段階で起こります。教義に感銘し、信じる人々が増えるにしたがって、教義を中心とする共同体が出来上がっていきます。感銘の度合いが深ければ深いほど、結束の固い共同体ができることになるでしょう。
 そして、信仰を核としているといっても共同体は一つの組織ですから、その組織を維持していこうとの意思が生まれ、そのためには組織を維持するためのルールが必要になります。つまり、教義を守る共同体の形成・・・・・・、これが宗教の物化現象の基本です。

 自己の存在を他から区別し、守り、存続させていくという働き、そのためル-ルや戒律づくりは、モノの原理なのです。要するに、宗教共同体ができてそれを守るためのルールや戒律ができたとき、人間が精神的なものの支えによって生きる宗教本来の姿から、その本質においてモノへと物質化を遂げてしまったことを意味します。
 もちろん、モノの原理にしたがって動く共同体は宗教団体だけではありません。現代で言えば、国家や地方公共団体、政党、企業など、あらゆる組織が自己と他とを区別し、自己を存続させるためのルールを持って動いています。もっともこれらの組織は、物理的次元の世界でいわば現世利益を追求するためにつくられたものです。モノの原理にしたがって他と競争しながら自己の存続と拡大を図ることは、当然といえば当然かも知れません。
 しかし、宗教は違います。神、あるいは人間を超えた高い次元の存在との関わりのなかで生きていくのが基本です。それが共同体をつくり、戒律をつくってモノの原理にしたがって動き、他を排斥するようになれば、それは現代の国家や企業と同じです。他の共同体との間に競争や争いが生じることは、いわば当然と言えるでしょう。

 教義を中心に形成された共同体がモノの原理にしたがって動く限り、競争や争いが避けられないことはわかったと思います。しかしそれにしても、国家間の戦争ですら長くは続かないのに対して、宗教間の争いは何十年も、場合によっては何百年も続くのはなぜでしょうか。
 それは、共同体が生まれて時間が経つにつれ、神、あるいは人間を超えた高い次元の存在との合一の体験が、その共同体のなかから失われていくためです。」

・次回に続く・・・・。

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