不思議活性

瞑想について  1




   『瞑想について』
      
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 若かりし頃、国際宗教・超心理学会(IARP)創立者であった本山 博先生との出会いにより、瞑想ということに初めて出会った私でした。初めて目をつむり静かに内面を見つめました。あれから、40年は過ぎました。実際、はんかふ座のシッダアーサナの形で、坐禅のように自分と向き合うということは毎日ではありませんでした。
 それがリタイアしてからは、毎日、静かな瞑想の時間を持つということが日課となりました。また、置き去りにしていた問題などにゆっくり考えられるようになったこの頃です。日常生活のすべてが瞑想ということですが、その日常生活において、悪いことをしない、良いことをするという、ヤーマ・ニヤーマということがあります。少し堅苦しいお話になるかも知れませんが、最後までお付き合いよろしくお願いいたします。

     * * * * * *

 『現代社会と瞑想ヨーガ』本山博著より。 

 古代インドの言葉でヤーマとは悪いことはしない。ニヤーマとは良いことをするというほどの意味です。では、悪いことをしない、良いことをするとはどういうことでしょうか。普通に考えれば、それは社会的な規範、法律や道徳を守るといったことになるでしょう。社会が宗教的な規範に縛られているようなところ、あるいは宗教の熱心な信者の場合は、宗教的戒律を守ることがそうかも知れません。この場合、悪いこと、良いことの基準は本人の外にあります。いってみれば、外から与えられる悪い事、良いことの基準です。しかもそれは、あくまでも社会の秩序や宗教的な秩序を守るために存在し、社会や宗教が異なれば違ったものになります。極端な場合は、同じことをしてもあるところでは悪いことであり、別のあるところでは良いことになることも稀ではありません。これに対してヨーガでは、悪いことや良いことの基準はあくまで本人の良心です。自分の良心に照らして、悪いと思うことはやめ、良いと思うことをせよと教えています。もちろんそれが社会的、あるいは宗教的規範と一致するところは多いでしょうが、ヨーガの教えの基本は、あくまでも本人の良心です。会社の同僚や上司、あるいは取引先・・・・。さらに友人や家族など、大勢の他人との関わり合いのなかで生きている人間にとって、自分の良心を基準に行動することは、場合によっては非常な勇気を必要とします。自分や家族を守るために、その関わり合いのなかで悪いことに手を染めざるを得ない場合もあるからです。上司の命令で賄賂を運ぶといったことは、典型的な例でしょう。その意味で言えば、自分の欲のために人を殺すなどはいうまでもなく、おしなべて悪いこととは、自分を守る、つまり人間がモノの原理に振り回された結果だということができます。要するにヨーガの教えるヤーマとは、心をモノの原理から引きはなせ・・。言葉を換えれば強い人間として生きよということにほかなりません。

 ヤーマの教え。それは、非暴力、正直、禁欲、不貧、不盗です。
 まず最初の非暴力は、暴力を振るわないということ。当たり前のことだと思うかも知れませんが、往々にして人間は、暴力を正当化してしまう場合が多いのです。つまり、危険にさらされた場合、自分を守るためには仕方がない。大多数の人はそう考えます。日本はもちろん先進諸国の法律でも、自分自身や他人を守るための暴力は、正当防衛、あるいは緊急避難といった理論をつくり出しています。これを否定することは非常に難しいかも知れません。襲いかかってくる暴力から、自分を守ることがなぜわるいのか。場合によっては殺されてしまうかも知れないではないか。皆さんの声が聞こえてきそうです。しかし、ヨーガでは、そのような場合の暴力も否定しています。自分を守る・・・・、それはモノの原理だからです。心の進化を実現するとは、実は自分の死を受け入れるということなのです。物理の次元からアストラルへ、アストラルからカラーナへと進化の段階を上っていくには、現在の自分の存在を完全に否定しなければなりません。それは言葉を換えれば、一つの階梯を上がるたびに死を体験するということなのです。死を恐れる・・・・、つまり物理の次元での存在を守るために暴力を振るうようでは、心の進化を果たすことなど到底できるわけがない。ヨーガではそう教えています。次に正直ということですが、これは、正直というより嘘をつかないと考えたほうがいいように思います。人が嘘をつくのはなぜかというと、やはり自分を守るため。人間は元来、小さくて本当に弱いものだから、どこかで自分をかばう、つまり不正直にならないと生きていけないところが本質的にあるように思います。ですから、自分は本来弱くて、自分を守るためには嘘をついてしまうものだということを自覚して、自分をコントロールしていかなければなりません。嘘をつけば、心のなかに不安定な状態ができてしまうからです。
 次は禁欲です。人間には、食欲や性欲、あるいは物欲など、いろんな欲があります。こうした欲は人間の身体を成り立たせ、生活を成り立たせていくために必要なもので、その意味では自然なものです。ですから、禁欲といってもこうした一切の欲を持ってはいけないというのではなく、過ぎた状態にならないようにと理解してください。つねに腹八分に止めるよう、気をつけてください。
 正直、禁欲の二つがどちらかといえば個人的な面でのヤーマ、悪いことをしないということであるのに対して、最初の非暴力とともに社会性を持つのがあとの二つ、不貧と不盗です。不貧とは、むさぼらない、不盗はもちろん盗まないということで、個人としても企業としても、不当な利益を望んではならないということです。人間が生まれて大人に成長するためには、物を食べて栄養を摂らなければならないのと同じように、企業が存続し発展するためには利益を上げることは必要です。しかし、必要な程度を越えて利益を得、しかもそのために発展途上国の人々を日本人よりはるかに低い賃金で働かせるなどということは、人間で言えば食べ過ぎ、つまりむさぼる心の表れにほかなりません。また盗む行為は、つねに他人との関わりで発生します。国家や企業といった大きなものでなくても、人間が二人以上集まればそれは一種の社会ですから、盗む行為はその社会に迷惑をかける行為です。その意味で強い社会性を持っていることになります。要するにヤーマをまとめて言えば、モノの原理、つまり自己愛的な生き方を破る日常生活なかでの訓練です。その訓練を、個人として、あるいは社会人として常に行うようにというのが、ヨーガの教えなのです。
 
・次回は、愛の原理の実践=ニヤーマについて書いてみようと思います。

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