激動の時代 生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い
27日に薨去(こうきょ)した三笠宮さまは昭和天皇の末弟として長兄を支え、大正、昭和、平成の3つの時代を生き、歴史的な局面に数多く立ち会われてきた。
昭和7年に陸軍士官学校予科にご入学。11年の二・二六事件で反乱部隊が襲撃した東京・赤坂の高橋是清邸は三笠宮邸のすぐ向かいにあった。三笠宮さまは市谷にあった士官学校の皇族用宿舎に滞在していたが、著書で当時を回想し「市街戦が始まると機関銃の弾丸がちょうど飛んでくる方向だな、と緊張した」と記されている。
大戦中の18年には、お印の「若杉」をとって「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として中国・南京に赴かれている。
19年1月からの大本営陸軍参謀時代には、陸軍内で東条英機首相を排除しようとする動きが浮上した。若手参謀から話を聞かれた三笠宮さまが「黙認した」と誤解され、首相暗殺計画に発展。三笠宮さまは「軍人として許せない行為」として憲兵隊に通報され、未遂に終わったとされる。
終戦を3日後に控えた20年8月12日には、皇居の御文庫附属室に高松宮はじめ皇族方とともに参集し、昭和天皇からポツダム宣言受諾の決心を下した「聖断」や、理由の説明を受けられている。
同じころ、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍相が空襲で全焼した三笠宮邸を訪問した際、昭和天皇にポツダム宣言受諾の翻意を促すよう訴えると、三笠宮さまは「陸軍は満州事変以来、大御心(昭和天皇の考え)に沿わない行動ばかりしてきた」と叱責されたと伝えられる。
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