ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第3回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ スタンプ集めにこだわった遠くのお城(北海道根室チャシ)

2022-01-17 09:40:14 | 日本百名城

 今から50年前の学生時代から冬の北海道へのあこがれをもっています。

 大学4年の2月に均一周遊券を使って北海道一周旅行の計画を立て

 ユースホステルの予約も済ませ、出発するだけになっていました。

 しかし、就職関係の連絡が来ないので、中止せざるを得なくなりました。

 今と違って携帯電話のない時代で、

 連絡手段は家の固定電話しかありませんでした。

 それ以来冬の北海道への憧れがあり、

 何回も冬の北海道に行っています。

 3年前(2019年)の1月に、大人の休日きっぷを利用して釧路へ。

 釧路から花咲線を利用して根室を向かいました。

 

 エゾシカに衝突しないように、

 警笛を鳴らしながら走っていることがとても印象的でした。

 

 さて、ここからは、日本百名城めぐりです。

 日本100名城の公式ガイドブック(日本城郭協会監修)の一番最初に紹介されているのが、

 根室半島チャシ跡群です。

 この公式ガイドブックを通してその「チャシ」なるもの存在を

 わたしは初めて知りました。

 同書には「チャシ」とは、砦や柵による囲いを意味するアイヌ語である。

 チャシは、16~18世紀につくられ、戦闘・祭事・集会など多目的に使

 われていたようである。

 とあります。

 アイヌのお城なのです。

 天守、石垣というわたしたちが普通にもっているお城の雰囲気とは違います。

 写真をご覧ください。2019.1.27のものです。

 

 冬の道東根室オンネモトチャシです。

 強い寒風にさらされ、

 立っているのがやっとの状態でした。

 毛糸の帽子が葺く飛ばされてしまいかぶっていません。

 雪も降るのですが強風に吹き飛ばされほとんと足下にありません。

 よい体験でした。 

 アイヌの人たちはこのようなところによくお城を作ったと思います。

 ところで、実は、これは、二回目の訪問なのです。

  一回目は2016.6.25です。

 百名城の存在を知りはじめた頃、

 NO1にランクされているチャシに魅力をもったのです。

 しかし、このとき、まだ、百名城のスタンプ集めをしていませでした。

 だから、スタンプを集めるために上記の二回目に行ったことになります。

 物好きと言えばそれまでになります。

 そのスタンプがこれです。根室駅の隣の観光施設にあります。

 百名城のスタンプのスタンプの中でも根室半島 群跡は、

 手に入れくいものの一つだと、

 テレビのお城番組で言っていました。

 スタンプ集めも、お城巡りの楽しみの一つだと言ってよいでしょう。

 ご朱印からヒントを得た御城印なるものが最近各城で出回っています。

 わたしは、まだ、集めていません。

 チャシの雰囲気を伝える二枚の写真を、次に載せます。

 これは、一回目、初夏のものです。


第9回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ 子どもたちと何回も行ったことのある松本城

2022-01-13 14:43:14 | 日本百名城

 江戸時代またはそれ以前に造られて、

 今存在している現存天守は

  12あります。

 弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城、姫路城、

 備中松山城、松江城、丸亀城、高知城、宇和島城、松山城です。

 この中でどれが一番好きかと問われたら

 松本城と答えます。

 それは、以下のようなことのためかもしれません。

 小学校の教員をしていたとき、

 夏休みの林間学校で、6年生の子どもたちと中房温泉(https://nakabusa.com/)に宿泊し、

 燕(つばくろ)岳(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E5%B2%B3)に登山をしていました。

 松本駅から中房温泉までの行程で、必ず松本城を見学していました。

 担任として、引率教員として、実地踏査要員として、合計10以上行ったことがあります。

  こんな多くの回数行った城は、地元の江戸城を除いてないと思います。

 これは、わたしが写した一番好きな松本城の写真です。

なぜかというと,

国宝の建物が全て写っているからです。

左から、月見櫓、辰巳附櫓、天守、渡櫓(少し見えにくい)、乾小天守となります。

 

社会科教師であっても、

特に、お城に特別な関心がなかったわたしは、

子どもたちに、

今、国宝のお城が5つ(当時は4つ)あり、

江戸時代から今まで現存するお城は12しかないこと、

など城に関する基本的な知識さえ話すことができませんでした。

何しろ本ブログ第8回で述べましたが、

わたしが城に関心をもち、城の知識をもつようになったのは、

平成27年(2015)10.30、故杉渕さんと福山城に行って以来なのですから。

第8回ふうちゃんのお城ブログ  ふうちゃんを城道(しろみち)へ誘ってくれた恩人杉渕尚さんを悼む - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

今ならどんな話ができるか、松本城を見るたびに考えます。

 これは、長野県聖火リレー最終ランナーの小平奈緒さんと松本城です。

 2021年4月2日のことです。

 わたしはこれを軽井沢にいてipadの画面を通してみていました。

 軽井沢から車で2時間近くかかる松本の映を

 リアルタイムで見ることができる。

 いや、日本中の人が小平奈緒さんと松本城の映像をリアルタイムで目にすることができる。

 待てよ、これはインターネットだ。

 世界中の人が同時に見ることができるのだ。

 日本の美しい光景を同時に見ることが出来る。

 こんな教材ウオッチングをしました。

 国際化、情報化の教材として使えそうです。

 さて、松本城そのものについてはどうでしょうか。

 わたしが、松本城に子どもたちを、連れて行って頃と違って、

強い味方があるのです。

 それが、これです。

 副読本です。

 松本市教育委員会が、

 平成29年に松本市内小学生の社会科、総合的な学習の時間の学習のために発行しました。

 わたしは、松本城内の売店で1000円で購入しました。

 実際に、松本市内の学校で、これを活用してどのような授業が展開されているのか、

まだ調べていません。

 以下の内容を目にすれば、教材ウオッチングの心がうずきます。

 目次です。

  お城の案内にとどまらず、

  地域の歴史、

  歴代城主の業績エピソード、

  松本市民と松本城との関わりについても触れています。

  

  明治になって、門、屛、櫓、堀などが次々に取り壊され、

  天守が売りに出され取り壊されそうになりました。

  そのときのことを、副読本では以下のように紹介しています。

  明治5年(1872年)下横田町の副戸長(副町長にあたる)をつとめていた市川量造は、

  なんとしても由緒ある天守を残したいと考えました。

  新聞で人々に残すことの大切さを知らせ、

  人々に新しい産業をおこす知識を広めようと、

  天守を会場にして博覧会を開くことを計画しました。

  市川量造らの努力が実って、

  明治9年(1876年)までに博覧会は5回開かれました。

  市川量造は自分でお金を出し、

  また、人々から寄付を募って松本城天守を買い戻し、

  取り壊しの危機から救いました。

 

 松本市のこの副読本作成の取組はすばらしいと思います。

 東京都でお城を教材にするのは、どのような方法があるのか、東京らしい方法で。

 故杉渕さんと話題にすることはありましたが、

 まだ、具体化に至ってはいません。

 最近、社会科見学のコースの中に江戸城本丸、

 天守台を入れている学校があることを聞いたことがあります。

 杉並区の学校がバスで青梅街道を通って江戸城に行くなら、

「今バスが走っているこの青梅街道は、

 徳川家康が江戸城を作るために必要な石灰を青梅の成木から運ぶために作った」

 という話を車中で校長が話して聞かせることはどうかな?

 なんてこれを書きながら考えています。

 江戸城天守台です。

明暦大火後、加賀藩が作りました。

しかし、天守は保科正之の市民生活の復興が第一の考えで再建されませんでした。

 

松本城の話からいろいろ広がってしまいました。

わたしの好きな松本城。

昨年、12現存天守から一枚選んでカードを作る機会がありました。

このカードです。

わたしが松本城を訪ねたのは全て夏です。

これから四季の松本城を訪ねたいと思っています。

 

 

 


第40回 ふうちゃんのお城ブログ 続々小諸城

2022-01-10 14:59:29 | 日本百名城

今年初めての城廻は軽井沢から最も近い城小諸城です。

本ブログでは、小諸城を2回取り上げています。

第6回ふうちゃんのお城ブログ 学生時代から何度も訪れた城(小諸城) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

第7回ふうちゃんのお城ブログ 続小諸城(少しつれづれなるままに) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

今回で3回目となります。

懐古園の額のあるお馴染みの三の門です。

明和2年(1742)に再建された現存の櫓門です。

2020.7の大雨で三の門の石垣と塀の一部が崩壊したので、

災害復旧工事がおこなわれています。

 

年末に行われたお城に関するイベントあるで次のことが問われました。

小諸城の現存の門は次の組合わせのどれでしょう。

1 大手門と二の門

2 大手門と三の門

3 二の門と三の門

4 一の門と二の丸西門

答えをお知らせする前にわたしがどのように考えたのかをたどっていきます。

冒頭で書いたように三の門は

明和2年(1742)に再建された現存の櫓門です。

だから、答えは2か3と言うことになります。

わたしは小諸城というより懐古園には学生の時から何回も行っています。

しかし、大手門に行ったのは第7回で行ったときが初めてでした。

でも、第7回では大手門について触れていません。

理解が浅かったのです。

この解説を読み、最後の五行目

「平成20年、江戸時代の姿に復元されました。」

の「復元」が頭に残っていた程度です。

わたしの頭は「大手門は復元だ」と理解してこの問題に臨みました。

すると、大手門は復元なのだから

現存は二の門ということになります。

しかし、小諸城の二の門は

礎石と石垣が残るだけで、現存の門なんてありません。

すると、大手門が現存でなければなりません。

今回、よく探してみると先程の解説(この解説そのまま健在です)

とは別の場所に

新しい解説がありました。

重要文化財の解説の所にこのように書かれています。

「大手門またはの名を瓦門といい、小諸城主仙石秀久が築造した正門です。

現存の門は、

慶長17年(1612)年の建立と言われています。

近世初頭の大型の城門として、

日本の城門発展の過程を知るうえの価値が高く重要な建物です。」

別の資料(こもろ観光局のインターネット)には、

「明治期には、民間に払い下げられ、

料亭や小諸義塾の仮校舎のとして

利用されていた時期もありましたが、

平成に入って小諸市に寄贈されました。

平成の大改修、復元修理を経て、

仙石秀久による創建当時の姿によみがえっています。」

現存と言うからには何か残っていなければならないと思います。

「現存」と「復元」の言葉の使い方を明確にしていく必要があります。

兎に角ここでは、大手門は現存の櫓門ということにしておきましょう。

問題の正解は

「2 大手門と三の門」ということになります。

 

さて、冬の小諸城を訪ねることによって第7回で触れた

地獄谷(酔月橋)浅間軽石流で出来た断崖をはっきり目にすることが出来ました。

冬は木が枯れているので地表が見やすいのです。

 

冬の千曲川の景観もまわえました。

そして、いつ見ても素晴らしいのは天守の石垣です。

雪が被った石垣も格別です。

(2022.1.6 訪問)

 


第13回(再掲)ふうちゃんのお城ブログ 伊達政宗公像にまつわる話(仙台城)

2022-01-05 10:22:21 | 日本百名城

わたしが愛読する内田康夫の推理小説の中で特に好きな作品の中に

「杜の都殺人事件」があります。

いわゆる浅見光彦シリーズではありません。

主人公は美人カメラマンの池野真理。

仙台城、伊達政宗公の騎馬像前で、観光客相手に、注文写真を撮って売っています。

わたしが、政宗公像の前を訪れた時、店を広げ写真を扱っている女性がいました。

写真を注文し、「小説のモデルはあなたですか」と尋ねたら、

しばらく、無言で、

写真の注文は受け付けず、

わたしのカメラで写真をとってくれたのです。

もちろん、無料です。

それが、この写真です。

 

仙台城の本丸跡に建つ、

伊達政宗公騎馬像(銅像)は観光スポットです。

この騎馬像が初代ではないことをご存じでしょうか。

 

実は銅像としては二代目なのです。

(石像の政宗像を入れると三代目、今大崎市岩出山城跡)

昭和39年に設置されました。

初代はこちらです。

今、仙台市立博物館の館庭にあります。

胸から上の胸像だけになっています。

もちろん、初めから胸像だったわけではありません。

どうして、胸像だけになってしまったのでしょうか?

 

実は、この話をわたしが初めて知ったのは、

玉川大学通信教育のスクーリングで、

学生の模擬授業を通してでした。

仙台からやってきた学生でした。

この時も、学生さんから、教材ウオッチングをさせてもらいました。

 

わたしは、受講者全員に授業者を体験させるために、

授業冒頭、導入3分の模擬授業をしていました。

この授業では、

まず、二代目の写真を提示します。

次に、初代の写真を提示です。

そして、

「なぜ、政宗公の銅像が胸像だけになってしまったのか。」という問いを引き出します。

これが、太平洋戦争の授業の導入、問題設定の場面なのです。

冒頭3分の授業は、ここまでですが、

この模擬授業がきっかけとなり、現地で写真を撮ったり、

資料を調べてみたりました。

わたしの教材ウオッチングです。

 

初代の銅像が仙台城に設置されたのは、昭和10年(1935年)のことです。

(高さ3.4m、重さ4.5t)

太平洋戦争の激化にともない、日本は金属不足に陥り、

金属類回収令により、騎馬像は、昭和19年(1944年)に撤去され

仙台城跡から姿を消したのです。台座にある四枚のレリーフ(後述)まで、

騎馬像とともに出陣となったそうです。

 

昭和20年(1945年)郷土史家が塩釜市の東北ドック敷地内の金属集積所から騎馬像を発見し、

紆余曲折を経て、

昭和36年に「仙台市立博物館」の開館に合わせて

博物館の庭に置かれることになりました。

伊達政宗公の胸像が戦争を通して生き残ったことは、それだけで感動に値します。

 

詳しく、お知りになりたい方はこちらをどうぞ。

https://gogo-miyagi.com/194#content_13662_0_2

 

城の勉強を進める過程で、四枚のレリーフに出会いました。

今までよく見ることはありませんでしたが、

じっくり、写真を撮りながら、調べてみました。

 

元服(11歳)

朝鮮出兵(26歳)

支倉常長遣欧(47歳)

権中納言(60歳)

人生の節目が綴られているように思われます。

 

宇和島城に行ったときには、城の勉強の過程で知った

貞山公御教書(宇和島城の藩主になった息子秀宗に与えた藩主として心得)を実際に見てきました。

 

本年前期に放送された朝ドラ「おかえり モネ」で

貞山公(政宗公)遺勲が登場します。

毎朝これを唱える登米森林組合の女主人がでてきます。

その映像をみていて、宇和島城の御教書のことが頭に浮かんできました。

「仁に過ぐれば弱くなる。

義に過ぐれば固くなる。

禮に過ぐれば諂(へつらい)となる。

智に過ぐれば嘘を吐く。

信に過ぐれば損をする。

氣長く心穏かにして、萬(よろず)に儉約を用いて金銭を備ふべし。

儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。

此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。

朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。

元來客の身なれば好き嫌いは申されまじ。

今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇(いとま)申すがよし」

伊達政宗

御教書と遺勲は直接関係がないようにも見えますが、

まだ、読みが浅いのかも知れません。

テレビをみていても、城で学んだことが思い浮かぶのが楽しいことなのです。

 

 


第38回ふうちゃんのお城ブログ 五稜郭ー見隠塁・刎出し

2021-12-26 09:51:20 | 日本百名城

五稜郭タワーからの五稜郭です。

2006年(平成18年)4月1日に新しい五稜郭タワーが完成したそうです。

五稜郭タワーに上ることによって城の全体像を目にすることができます。

大山古墳にもこのようなタワーがあれば全体像を見ることができるとおもってしまいます。

五稜郭は

五角形の星の形をした西洋式の城です。

長野県佐久市には、同様な龍岡城があります。

稜堡と呼ばれる星形の突角が、五角形状に突出しています。

五稜郭タワーの掲示に上のような地図がありました。

わたしが今回五稜郭でぜひ見たかったのは、

見隠塁と呼ばれる土塁です。

城郭検定の勉強の過程で知ったのですが、

虎口から城の中の様子が見えないようにする土塁を設ける。

一文字土居とか蔀(しとみ)とか呼ばれ

五稜郭では見隠塁とよばれています。

確かブラタモリでも取り上げられたことがあります。

現存では一文字土居といわれるものが高松城(桜御門内部)にあります。

高松城には行ったことがありますが、

その時、一文字土居のことを知らなかったので

わたしはまだ確認していません。

五稜郭では当初の計画では5箇所設けられるはずだったのが

5箇所になってしまったようです。

上記の地図にある半月堡も

5箇所設けられるはずのものが

1箇所になってしまいました。

わたしは、市立博物館で、

五稜郭の初めの計画図を見ましたが、

見隠塁も半月堡も確かに5つありました。

予算と期間の問題で今のようになったそうです。

写真の色で囲んだ1.2.3の部分です。

この写真に写っている五稜郭をタワーからみているときには

1.2.3の存在について確信が持てているわけではありません。

ワクワクドキドキしながら、タワーを降りて五稜郭に向かいました。

1です。

確かにこれならここから中の様子が見えません。腰巻き土塁と言っていいのでしょうか。

石垣が切込接でつんであります。江戸時代の後半に幕府の力で積んだことを感じさせます。

搦手門の橋を渡って真正面に見える土塁が見隠塁です。

3は探すのに苦労しました。

2のように橋がないからです。

橋の跡のような者を見つけました。

そして、この橋の跡を写真で言うと右にありました。

立派な土塁です。これが3です。

立派な土塁です。タワーも写っています。

実に満足です。

前回確認した刎ねだし石垣を載せておきます。

人吉城、品川台場にも見られる刎ねだしの石垣です。

今回解説ではっきり確認できたことがあります。

跳ねだしているのは上から2段目の石ということです。

跳ねだしている石が目立ちますのです、

1段目と思いがちです。

このように下の方から見ると1段目のように見えます。

石垣の上に上ってみましょう。

どうです。

2段目なのです。

手前に一段目があることがわかります。

今回は見隠塁と刎ねだしに絞って五稜郭をみてみました。

(2021.11.28訪問)