ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

ふうちゃんのお城ブログ号外

2023-01-28 14:28:21 | 日本百名城

ふうちゃんのお城ブログ「第64回 小学生と江戸城訪問」が1000リアクション(293人の方で)を達成しました。

皆様のご支援のお陰です。

本当にありがとうございます。

今まで、本ブログで思いつくまま、お城について綴ってきました。

子供たちにお城の楽しさを語ることをライフワークしていきたいわたしにとって、

そのことを内容とした回で、

今までで最も多いリアクションを頂けたことは

存外の喜びです。

これからもよろしくお願い致します。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/7cb180d8edf61d6c47d14e7107855988


第64回ふうちゃんのお城ブログ 小学生と江戸城訪問

2023-01-13 10:24:12 | 日本百名城

あけましておめでとうございます。

今年、初の投稿です。

江戸城から始めます。(昨年終わりも江戸城でしたが)

 

江戸城大手門近く

内堀・桔梗掘りからのオススメのアングルです。

左から富士見櫓、桔梗門、巽櫓です。

みな、現存の建物です。

さて、先日、こんな手紙を小学校5年生からもらいました。

「先生のおかげで江戸城の知らなかった知ることができて、とてもうれしかったです。

特におどろいたのは江戸城の天守です。

第二次世界大戦で焼けてしまったのではなく、

明暦の大火でやけおちてしまったのですね。

そして、天守を作り直さなかった理由がとてもいい理由で感動しました。」

 

昨年12月に、知人の小学校の先生の依頼を受けて

小学校5年生とその保護者を江戸城を案内したのです。

 

また、別の子どもの手紙にも

「江戸城のぼくがまったく知らなかったことや

面白いことがありました。

天守が再建されない理由は

たんじゅんにお金がなかっただけだと

思っていましたが、

やさしい理由があったことを

初めて知りました。」

天守台を見ながら

・加賀前田家がこの天守台を再建したこと

・白い石(花崗岩)は瀬戸内海から取り寄せたこと

・保科正之(将軍家光の弟)が天守を建てるより江戸市中の復興を優先させること

を主張して、その意見が通ったこと

・今、見てきた富士見櫓(後述)を代用天守として使用したこと                               

などを説明しました。

子どもの心に保科正之の話が響いたことがわかります。

お城について初心者(子ども)を案内するときは

このような感動的なエピソードが大切だと

この手紙を読んで思いました。

 

当日の主な活動について紹介しましょう。

大手門の前、大手門橋です。

ここからスタートです。

ここがお殿様の出入り口であること

高麗門と渡り櫓門があること

下馬させられた者がいること

など説明します。

そして、高麗門をくぐります。

塀と雁木(階段)と狭間(銃口)が見えます。

 

 

高麗門

 

渡櫓門

塀と二つの門、石垣に囲まれた空間、

桝形(四角い空間)

ができます。

石垣には鏡石(大きな石)がはめ込まれています。

大坂城の畳36畳分の蛸石は有名です。

鏡石を見る者(徳川以外のお殿様)に

権力を見せつけ「逆らえない」とわからせるためにあると一般的には説明されています。

今回、調べた見ますと

鏡は光を反射するところから、

悪霊を撃退すると信じられ

虎口、桝形、通路など敵の進入路に設けるという説明もありました。

 

桝形に入った者は、

櫓の窓、狭間などから攻撃を受けて

命の危機にさらされます。

このことを実感させた後、子どもたちに

「これから、この門を入ってから出口(平川門)を出るまで、

どのくらい命を失われるような場面に出会うでしょう」

と問いかけました。

このような具体的な問いかけが

子どもたちには受け入れられるように感じました。

 

先に進みます。

下乗門跡です。

その先右側には、同心番所が見えます。

尾張、紀伊、水戸の御三家のお殿様以外は

ここで、馬から下りて、本丸の御殿まで

徒歩で行かなければなりません。

お供の人はここでご主人が戻ってくるまで待っていたのです。

待っている者同士が、

いろいろなことをうわさしたり、

評判を立てたりしたことから、

下馬評という言葉ができたということです。

この門をくぐって中に入った人は

同心番所

百人番所

大番所で

厳重なチェックを受けてから中に進みます。

中之門跡です。

立派な切込接の石垣です。

この門の石垣を修理したとき交換した石が置いてあります。

石の大きさを実感できます。

こんな大きなな石をどこからどのように運んできたか

子どもたちも疑問をもったようです。

 

中之門跡に進みます。

中之門の柱の穴があります。

全部で8ヶ所あります。

これを子どもたちに見つけてもらいました。

門の下には江戸時代に作られた石畳

「塼(せん)粘土を焼いて、方形、または長方形の板あるいは練瓦形したもの」

が敷かれています。

 

ここから上り坂になります。

江戸城が平地でないことをここで実感できます。

中雀門跡につきます。

左右の石垣はボロボロになっていて驚かされます。

稲妻状の裂け目、円形の割れ目、人面に変形し、真っ黒に焼けている。

文久3年(1863)本丸御殿が焼けたときの類焼した痕と考えられ

160年経過した今に火災のすさまじさを伝えるものになっている。

 

いよいよ本丸到着。その広さを実感します。

 

富士見櫓をから外から見学します。

前述した代用天守であったこと

将軍がここから品川の海や富士山をみたこと

八方正面の櫓と言われていること(四面に窓が開かれ、いずれも正面でるかのように見える)

青海波と二引両があること

青海波(平和の願い込められた縁起のよい模様)が屋根の妻側にある。

青海波 | 株式会社DO THE SAMURAI

二引両

徳川氏は源氏を名乗り源氏棟梁である将軍になると、

足利将軍が用いていた「二引両」を幕紋とした。

二引両が施された城門をくぐって城内に入ることは

陣門をぐくって陣幕に入ることを意味する。

櫓の窓上に上下の出っ張りは、二引両を表したもので、

江戸城の壁面において統一装飾となっている二重の出っ張りを

内法長押(うちのりなげし)と呼び、

姫路城大天守の最上階、和歌山城天守、徳川大阪城、二条城の城門と櫓にも見られる。

(萩原さちこ 江戸城の全貌P165)

 

富士見多聞見学

本日唯一、江戸時代の建物の内部を見学しました。

 

寛永天守30分の1の模型の見学

天守台が近くに見えますので

この天守があそこにあったと想像することができます。

 

天主台跡見学(前述)

 

梅林坂を経由

 

平川門

ここは不浄の門と言われました。

罪を犯した人や死人を外に出すために使われました。

忠臣蔵の浅野内匠頭はここから出された一人です。

大奥に勤めている人の出入り口でもありました。

渡り櫓門と

2つの高麗門があり

山里門が不浄の門と言われていましたが、

ここからは舟で外部には出られないようです。

発見された図面「享保年間江戸絵図」によると

平川門桝形石垣に階段(雁木)ついていて大手壕を経由して

外に出られるという。

よって、平川門全体を不浄門というのではないかと

西ヶ谷恭介氏は江戸城その全容と歴史P90で述べています。

 

平川門渡櫓門

 

高麗門

 

高麗門・山里門

 

平川門桝形内には石狭間が付いています。

石垣の上端の石に狭間を彫り上部に土塀や櫓を乗せたものです。

土塀に開けた一般の狭間と同じく城内側を広くしして射程距離を広げる設計で

外側から見たときにはほとんど狭間の位置がわからないとい利点があります。

平川橋の上から目を凝らすとそれがわかります。

現存は大阪城大手門、岡山城月見櫓脇にしか見られない貴重な遺構です。

石垣狭間内部(ここから雁木に上って鉄砲を構えます)

 

石垣狭間外部(外からは狭間が大きく見えません)

 

平川橋にはすべての欄干に慶長か寛永の擬宝珠がに付いています。

和田蔵門前橋、西の丸大手門前の各橋にあった擬宝珠を移したものです。

最後にパレスサイドビルの屋上に上り

平川門の桝形全体を見通すことで

このお城巡りを終了します。

およそ、3時間の行程でした。

 

冒頭紹介した手紙の中に

「今日江戸城を見て、いろいろ聞いて、

歴史に興味をもちはじめました。

昔のものなのによく考えらていると思いました。

今のように、最新の技術とかないかわりに頭をよく使い、考えたんだろうと

思いました。

帰りに母と話し、

大河ドラマを見ることにしました。」

と書いてくれた子がいました。

大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。

江戸城を今のように作ったのは家康からです。

きっと、ドラマの中に江戸城が登場することでしょう。

岡崎城、浜松城、駿府城と家康が関わった城には

家康の銅像がありますが、

江戸城にはありません。

これは七不思議の一つと言ってもよいかもしれません。

天守を再建するという動きもあるようですが

わたしは反対です。

住民の生活を大事に考えた保科正之に思いをはせ、

今のように天守台を眺めることが、

よいと思えるからです。

(子供たちの手紙をヒントに作者が書いたものを掲載しました)

 


第63回 ふうちゃんのお城ブログ 皇居(江戸城)乾通り一般公開

2022-12-25 16:37:53 | 日本百名城

11月30日 皇居乾通り一般公開に行きました。

ふうちゃんのお目当ては

やはりこれです。

富士見櫓です。

正面から富士見櫓を見ることができます。

こちらから見ると

加藤清正がつくったといわれる

高石垣の上に乗っています。

いつも東御苑から見ている北面は

これです。

高い石垣の上に乗っているようにはみえません。

北面には破風がありません。

南面には、唐破風、千鳥破風があります。

この富士見櫓の姿を見るには、今回のような特別公開、

皇居一般参観(事前申し込み、当日受付整理券をもらう)

に参加する必要があります。

でも、今回の一般公開の本来のねらいは

秋の風景、

紅葉を愛でることにあるのでしょう。

ご心配なく

富士見櫓には紅葉がよく似合うのです。

しかし、今回、乾通りを通っているふうちゃんが気付いたのは

石垣の見事さです。

大坂城に負けていません。

城壁に二ヶ所の突出部を並べて、

その間に挟まれた凹の部分に両側から横矢を掛ける

厳重な構えの

合横矢の掛かった石垣が

目に飛び込んできました。

さらに、富士見多聞が乗っているこの石垣です。

城壁に桝形(四角の突出部)を向ける横矢桝形になっているのです。

 

南詰橋と段築の石垣に目が行きます。

 

雁行の石垣素晴らしい。

 

もちろん、乾通り一般公開の主目的

紅葉の美しさも堪能した

ふうちゃんです。

 


第41回 ふうちゃんのお城ブログ 駿府城

2022-01-25 14:43:50 | 日本百名城

昨年の12月に駿府城に行きました。

家康が見ていたと思われる富士山が、

天守台発掘現場から見えました。

駿府城は天守台の発掘を行ってします。

その規模は、先日訪れた江戸城の天守台より、

はるかに大きいそうです。

 

江戸城天守台

 

各天守台と駿府城の大きさ比較です。

駿府城の天守台の大きさができる実感できるます。

 

家康が隠居をしてから天下普請で造られた慶長期の天守台です。

 

それ以前の天正期の天守の石垣も発見されました。

 

天正期の石垣からは300枚にも及ぶ金箔瓦が発見されました。

 

本丸に立つ家康像

 

 家康は駿府城の落成祝いに駆けつけた江戸増上寺の観智国史の

「どうして駿府に城を築いたのですか」

という問いに以下のように答えています。

① 子どもの頃ここに生活していて思い出の地である。

② 冬暖かい。

③ 米がおいしい。

④ 駿河は国堅固の地である。

⑤ 諸大名が江戸に行くのに遠回りしないで済む。

④は原文では

「南西に大井、安倍の瀑流あり。北東に箱根山・富士山の剣あり。要害最も堅固なり」

となっています。

家康は大御所になって、

自分が希望すれば何処にでも城を築くことが出来たのに

駿府を選んだのは、

駿府城を大坂方に対する前衛とするところにあったように

思われます。

駿府城は巽櫓、多門櫓、櫓門、高麗門、坤櫓が復元されています。

駿府を訪ねた英国大使は「日本渡航記」で

駿府はロンドンに匹敵すると述べているそうです。

(2021.12.21訪問)

 

 


第8回(改訂版)ふうちゃんのお城ブログ  ふうちゃんを城道(しろみち)へ誘ってくれた恩人杉渕尚さんを悼む

2022-01-21 09:48:00 | 日本百名城

 ありがたいことに本ブログを読んでくださる方が増えてきました。

前回は、今現在432のリアクションをいただきました。

わたし(ふうちゃん)とお城とのお付き合いの原点を知って頂くために

加筆・修正し再掲させて頂きます。

突然の訃報

Lineは2021年(令和3年)4月3日突然舞い込みました。

早朝、杉渕尚さんが亡くなったというのです。

杉渕さんは、わたしの城仲間の一人です。

そのとき、急にフラッシュバックしたシーンがあります。

それは、2015.10.30 広島県にある福山城です。

石段が向かってV字のように掛かっている合坂(あいざか)を前にして

「どちらが上り、どちらが下り」と質問しました。

「答えは左側通行なのですが、武士は刀を左側に挿しています。

通行しやすいのは刀が外側にある方ですよね。」

 

 合坂(これは福山城ではありません)

この場面がやけに印象に残り、5年以上経った今でもよく覚えています。

それ以来、社会科教育連盟の3・4年部会後の飲み会で

杉淵さんに城ついての質問をぶつけていたように思います。

そんな中で、日本百名城がについての話があります。

杉渕さんはもうすでに一周しており、

二周目に入っているとのことでした。

わたしも、ネットから百名城の一覧表をプリントアップし、

今まで何らかの形で訪れたことのある城をチェックしたところ、

58になりました。

これから、42周れば、100になる。

そんな軽い気持ちから100名城について興味をもち始めました。

適切なアドバイス

毎年宿泊旅行をしている大学時代の友人と、

大人の休日クラブきっぷを利用し北海道に行くことになりました。

私は名簿上日本100名城NO.1の根室チャシ跡群に行く計画について、杉渕さんに相談しました。

「釧路まで汽車で行き、周りの風景に触れながら、そこから先は、レンタカーがよい」

とのアドバイスをもらいました。

おかげで、景色を見ながら宿泊した霧多布でエゾニューの花を見ることができました。

わたしが学生の頃に流行ったさとう宗幸さんの岩尾別旅情の一節に

「丘の上に咲く一輪のエゾニューの花に寄れば」という歌詞が出てきます。

しかし、花の姿形は知りませんでした。

帰京して調べて、花の名前がエゾニューだとわかったときには、

50年来の思いびとに会ったような気がしました。

杉淵さんのアドバイスのおかげです。

エゾニューの花です。

根室チャシについてはこちらも参照

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=e6eae0c808786eab90f65f655d5f6a92&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD0x

それ以来わたしの城めぐりの計画について相談に乗ってもらうようになりました。
かなり無謀な計画を立てましたが、その都度適切な指導をして頂きました。
 
わたしに合わせた日程調整
 杉渕さんは、社会科教育連盟の3.4年部会の会員を中心に、
 お城について、Lineで情報を交換したり、
 実際にお城へ出掛けたりするお城部を作りました。
 お城に出掛ける際に、会員の中で最年長のわたしは、日程やコースについて、優遇してもらったと思っています。
 杉渕さんにわたしの希望を伝えると、
 それに合わせて仲間を募り、実現してもらいました。
 とてもありがたいことです。
 こんな具合です。
 2017年当時、東京に日本100名城が2つありました。
 江戸城と八王子城です。
(現在は続日本100名城の品川台場と滝山城の2つが加わりました。)
「八王子城に行きたいんだけど、都合つきませんか」
これだけで、2017.7.9に実現しました。
杉渕さんは、お城部で仲間を募ったり、
 現地で地図の復元に取り組んでいる方に連絡をとり、
 ボランティアガイドをお願いしたりしました。
猛暑日が予想されたので、
前日からカチンカチンに凍らせたペットボトル用意するおまけもつきました。
そのとき写した八王子城の石仏です。

 訃報を頂いたとき、ご家族にお悔やみを述べるハガキに、

 この写真を使っていますが、

 まさか、杉渕さんに使うことになるなんて。

 春日山城へは、こんなわたしの願いを実現するために行ったと言ってもいいでしょう。

「越中おわらと直江兼続の史跡めぐりというツアーで、

 春日山城の石坂浩二に似ていると言われる謙信像の前まで行ったのだけれど、

 春日山の上まで登らないで戻ってきたんだよね」

「そうなんですか。上は日本海まで見えますよ。」

そんな会話の数日後、

「10.28に何とかなりませんか」とわたし。

それが何とかなったのです。

鮫ヶ尾城、高田城、春日山城、富山城、高岡城、増山城の豪華ツアーでした。

念願の春日山頂上

謙信も見た日本海直江津

 

 

 

 

 

 

 

 

 

情報の提供

杉渕さんが豊富な情報を提供してくれたおかげで、

わたしの城めぐりはどれだけ豊かになったことでしょう。

群馬県にある岩櫃(いわびつ)城です。

NHK大河ドラマ真田丸を見るまでこの城のことをわたしは知りませんでした。

真田昌幸が織田・武田連合軍に追われた武田勝頼を岩櫃城に招きます。

しかし、勝頼は小山田信茂を頼り岩殿城を目指しますが、裏切りにあい、天目山麓の田野で生涯を閉じます。

 以前に行った時には、昌幸が勝頼を住まわせるために設けた潜龍院に行けませんでした。

 ある時、杉渕さんがlineで、潜龍院の存在をお城部の会員に知らせる情報を流しました。

 そのおかげで、2回目に岩櫃城に行くとき、潜龍院に行くことができたのです。

 また、秀吉が唐入りのために設けた名護屋城ですが、

 一人で行ったときには十分に理解出来なかった城割り(破城)の様子について説明してもらったことが、

 つい昨日のことのように思いだされます。

 2019.8.のことです。

岩櫃城

潜龍院

名護屋城

算木積みを壊した石垣(効果的な城割)

最初で最後の2人だけの城めぐり2019.10.1能島城

杉渕さんから「1日の都民の日に能島城に行くのですが一緒に行きませんか」

と誘われました。

能島城は、福江城(五島)、金田城(対馬)と並んで続百名城の中では行きにくい城だと言われいます。

前2城をクリアしているわたしには、これで続百名城達成が視野に入ってきます。

もちろん即決です。

このとき、行ったおかげで、能島城の他にも、2ついいことがありました。

1  これは、わたしだけの事です。

  岡山城西の丸西手櫓が普段入れない廃校になった小学校の校庭の中からみれたことです

岡山城西の丸西手櫓

次は2人共通の話題です。

お城ではなくカブトガニです。

生きた花石と言われるカブトガニの保護に取り組んだ岡山県笠岡市の高校の先生と高校生の話が国語の教材にありました。

行ってみたくても交通の便が良くないので後回になっていたのです。

いよいよ能島城に向かいます。

やまなみハイウェイ快適にドライブし、

村上海賊ミュージアムにつきました。

この対岸が能島です。

このときは台風被害の影響で能島には、

上陸できませんでした。

周辺のクルージングを、村上海賊の子孫と思しき船長の見事な操船でしました。

瀬戸内海というと波が静かなイメージがありますが、

このような急流があるのですね。

杉渕さんから、村上龍の「海賊の娘」と城山三郎の「秀吉と武吉」の2冊を紹介されました。

いつものように帰京してから文献研究をしました。

能島城

潮の流れが急な能島城周辺

能島城への旅が、2人だけの最初で最期の旅になってしまうなんて信じられません。

杉淵尚さんの死を悼む

2017.3に玉川大学を定年退職し、2年後に東京学芸大学を退職するとき、

妻から、

「あなたこれからどうするのですか」と訪ねられました。

 わたしは即座に

「お城があるから大丈夫」と答えました。

このような答えができたのは、

杉淵尚さんの存在なくして考えられません。

あなたは、わたしの城道(しろみち)への良き伝導者でありました。

このブログを書きながら、しみじみそう思います。

百名城、続百名城すべてに行くことがができたのも、

ともに城道を歩き、

また、適切な情報を惜しげもなく提供してくれた

 杉淵尚さん

 あなたがいたからです。

 命のある限りこの道を歩いていきます。

 本当にありがとうございました。

 心から、ご冥福をお祈りします。

最後に、あなたや都小社研の仲間と全小社研岐阜大会後の巡検で行った、

郡上八幡城の写真で終わります。