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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

一を聞いて十を知る

2014年03月22日 | Weblog
 頭のよいことのたとえである。
 しかし、これを百や千にまで広げるとスカタンになる。
 つまり、馬鹿の一つ覚えとなる。
 ある程度の予想を立てるということは必要だが、詐欺師は、相手の予想を読んで騙す。
 読み合いである。
 騙し合いである。
 あまりほめられたことでもないがお話として読んでいるぶんにはどういうわけか楽しい。
 これは手品と同じ。
 常識の裏をかかれる、予想を裏切られる快感である。
 国のレベルでの陰謀や諜報活動はスパイものとして楽しめる。
 いずれも、人間のある種の頭のよさを逆手に取ったお話で、その教訓は、謙虚さを忘れるな

、である。
 神もまたすべてをお見通しなわけではない。
 「全て」というのは何も語らないに等しいからである。
 だから、一を聞いて二・三予想を立てるのはなぜか楽しい。
 しかし、はじめの一から疑いをさしはさむのはなかなか厄介なのである。
 そして究極の「詐欺師」は1から10までの真実をすべて偽札として巧みに操る能力を備え

ているのである。
 それゆえ、知能の高い低いにかかわらず、聞いたとたん、見たとたん、話したとたん、書い

たとたんに、自ら、この欺網の罠に陥る定めなのである。
 つまり、それと知って、つまり覚悟して生きるのでなければ、生きているということにはな

るまい。
 この意味で、一を聞けば十も分かるということになるのである。

「けっこん」という言葉を耳にすると、

2014年03月22日 | Weblog
 最初に思い浮かぶ漢字が「血痕」になってしまった。
 「結婚」と同じ音だから、もしかしたら何がしかのつながりがあるのかもしれないが、あま

り想像もしたくない。
 とにかく、CSI=Crime Scene Investigation(犯行現場捜査)「科学捜査班」である。
 新年よりパート2を放映中である。
 捜査員たちのジャケットにはFORNSICS(犯罪学、こちらが「科学捜査班」の意味だろう)

と記されている。
 犯罪を犯人の人物分析や心理分析から追及していくプロファイリング(一時、いや今でもテ

レビで喧伝されている)のではなくhard evidence(物的証拠)から追求していく。
 そこから構成される犯行の実際が最終的に再現される。
 見所、見せ場は、科学的知見や器具を活用して、素人目には「そんなことまでわかっちゃう

のか」と感心させる点にある。
 日本版は「きらきらひかる」か。
 こちらは、ずっと牧歌的であるが。
 言葉でいろいろ言わせるよりも、あるいはそれを聴取するよりも、物的証拠に「ものをいわ

せた」ほうが確からしいと感じられているのであろう。
 自白中心のやり方は、背後に「そう思っているのならそうなんだろう」という考え方がある


 証拠中心なら「どう思おうと関係ない」という考え方に基づいている。
 どちらも極端になれば不具合を生じる。
 それはともかく、どちらにも言葉の問題、言葉の扱い方の問題がでてきて、そこに私は関心

がある。
 たとえば、「冬枯れの樹」という言葉からどういうものを思い浮かべるか?
 詳細に記述していっても一枚の絵か写真を見せられるより正確には伝わらない。
 一方、あることを本人がそれ(たとえば、正しいとか間違いだとか)と思ったかどうかは、

当人の心裡、認識にかかわって、絵に描くことはできない。
 たとえば、私のように、「けっこん」という言葉を立ち聞きしても、あまり普通ではない漢

字を思い浮かべてしまう人間だっているのだ。
 それにくわえて、異種言語間の言語観の差異などといった面倒な問題も絡んでくる。
 同じ番組を見ていても、視点が違っているのである。
 プリズムの赤を見て美しいと感じているのか青を見て感動しているのか。
 「けっこん」ならば、漢字を示したり、意味を、文脈を与えれば誤解を解消できる。
 しかし、同じ「血痕」でも、殺害による血痕か鼻血の血痕か犬の血痕か・・・性質やら意味

やらの世界に踏み込まないとわからないのは、結婚も、同居離婚していたり家庭内暴力があっ

たり外からは剣呑でもうまくいっていたりとさまざまでわからないのと同じである。どの家の

クロゼットにもひとつは骸骨がかかっているのである。
 「けっこん」が血痕に聞こえるというのも、ちょっとした秘密というわけだ。

お金

2014年03月22日 | Weblog
ダフネ・デュ・モーリア『鳥-デュ・モーリア傑作集』創元推理文庫 2000年

「人は,みずから被害を受けない限り,何事にも関心を抱かないのだ」(本書「鳥」より)

 いわずと知れたヒッチコックの映画『鳥』の原作である。

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 「また、お金に羽根が生えて飛んでいってしまった・・・」

 傍らで女がそうつぶやいた。

 そのとき、これを耳にした私は、『鳥』を連想した。
 (飛んでいってくれてよかったじゃないか)

 「あちらこちらから寄り集まってきても困るんじゃないか」

 「あら、いくらあっても困らないわよ」
 (無邪気なものだ・・・。たくさん集まったら、それはそれで厄介なんだぞ)
 「羽根が生えて大挙してこちらにやってきたら大変なことになるんだ。鳥みたいにね」

 「それは来てから考えたらいいんじゃないの?」
 (こういうことへの想像力の欠如!いや、無関心さにかけては男は到底女にはかなわない)

 「来てからじゃ遅いんだ。来たら来たで大騒ぎするくせして。まったく能天気なんだからな



 「それはあなたのことでしょ。そりゃ、本当に来たら大騒ぎするでしょうね。ふふ」
 (たしかに、みんな飛んでいってしまって被害をこうむるまで無関心なのはこちらかもしれ

ないな)

 「じゃ、今年も年末ジャンボでも買うかい?」

 「そうね。大挙してうちにやってくるのは鳥は鳥でも借金鳥ばかりでしょうからね。」
 (まあね。請求書やら引き落とし通知書やら集金袋(人)だけはきっちりやってくる)

 ヒッチコック監督もダフネも『鳥』から金のことなんぞ思いもよらなかったに違いない。
 そんなことを連想する読者がいることも。

存在拘束性

2014年03月22日 | Weblog
 フランスの社会学者・デュルケムの用語である。
 どういう意味合いで使われた言葉かはもう忘れた。
 
 ともかくも、「縛られている」

 時間に縛られる。
 締め切りに縛られる。
 子供に縛られる。
 親に縛られる。
 恋人に縛られる。
 法律、規則、道徳、倫理、契約、約束に縛られる。
 仕事に縛られる。
 薬物に縛られる。
 テレビ・ビデオ・ゲーム・携帯電話に縛られる。
 重力に縛られる。
 身体(能力)・寿命に縛られる。
 病気に縛られる。
 人目(自意識)に縛られる。
 借金に縛られる。
 医者は患者に、看守は囚人に、教師は生徒に、生徒は試験に、研究者は研究対象に、政治家

は国民に縛られる。
 天気に縛られる。
 詐欺師は嘘を言わずにいられない。
 泥棒は盗まずにいられない。
 アル中は飲まずにいられない。
 痴漢もレイプも犯す者はそれをせずにはいられない。
 暴漢は暴力を振るわずにはいられない。
 欲なのか制約なのか病なのか。
 犯行も善行も。
 生きて関わるものすべてに縛られる。
 関わる心を失えば無関心→少しずつ生きることをやめる。
 縛りから逃れることは自殺につながる。
 縛られることが避けられないなら縛り具合をどうするかである。

再犯防止

2014年03月22日 | Weblog
 性犯罪は再犯率が高いためにその防止策として刑期終了後も犯罪者の所在などを公表するこ

とが取りざたされている。
 奈良の女子殺害事件が引き金となっている。
 米国の「メーガン法」が参考にされている。
 性犯罪者の中には衝動が抑制できないので自ら虚勢手術を申し出る者もいるらしい。
 しかし、学校へのお迎えに親が遅れたりすると自宅に警察から連絡がくる国の法律である。
 なんだかぞっとしないものがある。
 それに、再犯防止なら
 性犯罪に限ったことではない。
 犯罪をなくすにはそもそもそれを犯罪とすることをやめてしまうのが一番である。
 商業主義に物を言わせて、力ずくで若いスポーツ選手を手篭めにしようとするようなのは泣

き寝入りで犯罪にもならないのだったら、むしろ純粋に目的を果たそうとするのは潔いくらい

だ。
 食欲、性欲、知識欲、金銭欲、名誉欲、権力欲・・・なんにせよ、欲の扱い方のようなもの

が、個人も世間もなんだか混乱をきたして、うまく処理しきれなくなってしまったらしい。
 刑法に列挙された犯罪カタログ以前の、いま少し、緩やかでもあり厳しくもある「戒律」の

存在は、その基準が意識化も言語化もされないけれども、そっと守っていかなくてはならない

ものだったはずである。
 妖怪や幽霊や物の怪(神様でもかまわないが)を畏怖する心が、ひいては「犯罪」を抑止し

、再犯を防止してくれるのだった。