の中で、著者であるシカゴ大学教授のアラン・ブルームは、子供の頃に近所の年上の子供が、サンタクロースは実在しないことを教えて、その幻想を打ち砕いたことに憤りを表明している。
幻想の大切さを説いているのだ。
それは結構なことで、そのおかげで飽きもせずに生きていられるという効能がある。 しかし、この人が勘違いしているのは、先輩からそう言われたからといって、自分の信心まで捨ててしまう必要はなかったはずだという点である。
実体がないからこそ幻想というのではないか。
私など、その実在を確認したこともなく、かえって親父の仕業であると承知の上で、なおサンタクロースを信じている。
そうでなければ、子供にプレゼントを買ってやるということはしないはずだ。
世を挙げて「メリー・クリスマス」と言って浮かれたりもしないだろう。
そういう周りの人のやっていることからも、察するに、相当大勢の人が、いまだに堅くこの幻想を抱いていることが見て取れるではないか。
ハリウッドあたりのアメリカ映画は、信心ということをいささか見くびっていて、すぐにサンタクロースを実体化して描いてみせる。
だから子供だましなのである。
存在ということを即物的にしか捉えることができないのである。
しかし、トミー・リー・ジョーンズという役者は、この点さすがに物がわかっていて、タイで撮影したときに幻想について深く思いをはせたらしい。
メル・ギブソン主演の『危険な年』(Years of living dangerously)という古い映画もこのことをテーマにしてなんとか影絵の比喩を用いて人が行動するわけを探求している。
大学で教授という肩書きを与えられている人間よりは少しは深くものを考える人の存在を感じさせる例である。
とはいえ、これは少数派だろう。
確かに目に見えるものは形である。
しかし、形があるからといってすぐに納得するのは考えものである。
形と納得の間には何ら直接の関係はないからである。
サンタクロースを実体化して描いても、それはプラカードを担いで歩くアルバイトのおじさんと少しも選ぶところはない。
逆にあのような姿形をした人物が目の前にいなくても、いやいないからこそサンタクロースは信ずべき対象となりうる。
「そういうふうにできている」
「世の中はそういうものである」
などなどという結論を出す前に一体どういうわけでそうなのかを考えるところがスコンと抜けてしまっている。
考えたからといって何がわかるというわけでもない。
むしろさっぱりわけがわからないということになる。
それでも子供は、カブトムシやらなにやらを弄りながら、角の微妙な形をためつすがめつ飽きずに見つめ続ける。
無論、形に限らない。手触りも臭いも舌触りも味わいもすべて「納得できる」まで吟味し続ける。
そして未だに、私はこの幻想について納得できていない。つまり、サンタクロースを信じている。