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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

『アメリカン・マインドの終焉』

2014年03月06日 | 読書一般
 の中で、著者であるシカゴ大学教授のアラン・ブルームは、子供の頃に近所の年上の子供が、サンタクロースは実在しないことを教えて、その幻想を打ち砕いたことに憤りを表明している。
 幻想の大切さを説いているのだ。
 それは結構なことで、そのおかげで飽きもせずに生きていられるという効能がある。 しかし、この人が勘違いしているのは、先輩からそう言われたからといって、自分の信心まで捨ててしまう必要はなかったはずだという点である。
 実体がないからこそ幻想というのではないか。
 私など、その実在を確認したこともなく、かえって親父の仕業であると承知の上で、なおサンタクロースを信じている。
 そうでなければ、子供にプレゼントを買ってやるということはしないはずだ。
 世を挙げて「メリー・クリスマス」と言って浮かれたりもしないだろう。
 そういう周りの人のやっていることからも、察するに、相当大勢の人が、いまだに堅くこの幻想を抱いていることが見て取れるではないか。

 ハリウッドあたりのアメリカ映画は、信心ということをいささか見くびっていて、すぐにサンタクロースを実体化して描いてみせる。
 だから子供だましなのである。
 存在ということを即物的にしか捉えることができないのである。
 しかし、トミー・リー・ジョーンズという役者は、この点さすがに物がわかっていて、タイで撮影したときに幻想について深く思いをはせたらしい。
 メル・ギブソン主演の『危険な年』(Years of living dangerously)という古い映画もこのことをテーマにしてなんとか影絵の比喩を用いて人が行動するわけを探求している。
 大学で教授という肩書きを与えられている人間よりは少しは深くものを考える人の存在を感じさせる例である。
 とはいえ、これは少数派だろう。

 確かに目に見えるものは形である。
 しかし、形があるからといってすぐに納得するのは考えものである。
 形と納得の間には何ら直接の関係はないからである。
 サンタクロースを実体化して描いても、それはプラカードを担いで歩くアルバイトのおじさんと少しも選ぶところはない。
 逆にあのような姿形をした人物が目の前にいなくても、いやいないからこそサンタクロースは信ずべき対象となりうる。

 「そういうふうにできている」

 「世の中はそういうものである」

 などなどという結論を出す前に一体どういうわけでそうなのかを考えるところがスコンと抜けてしまっている。
 考えたからといって何がわかるというわけでもない。
 むしろさっぱりわけがわからないということになる。
 それでも子供は、カブトムシやらなにやらを弄りながら、角の微妙な形をためつすがめつ飽きずに見つめ続ける。
 無論、形に限らない。手触りも臭いも舌触りも味わいもすべて「納得できる」まで吟味し続ける。
 そして未だに、私はこの幻想について納得できていない。つまり、サンタクロースを信じている。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書 2000)

2014年02月28日 | 読書一般
福岡伸一講談社 2009年7月17日



世界は分けなければ分からない。しかし、世界は分けても分からない。(または、世界はわけたら分からない・・・か)

宝くじは買わないと当たらない。しかし、宝くじは買っても当たらない。(当選確率は、地球に巨大隕石が衝突するよりも低いらしい)

何枚かに切り分けられた絵画は、ひとつにつなぎ合わせると全く違った絵柄になる。

世界を認識するのに、いきなり全体は捉えられないので、要素に還元するけれども、そうして分かったことをつなぎ合わせてみたら、元の絵柄とは似てもにつかぬものになる。 福笑いみたい。ppp

小さいものは拡大すると暗くなり、全体が見えなくなる。宇宙全体は、光の速さで表示される距離が異なるために、リアルタイムで把握することは不可能なのに似ている。小さいものも大きなものもその実像を知ることは無理なのだ。

毒はいつまでも毒か?毒物は、最近の繁殖を防ぐが、そのメカニズムは、とりま、人には悪影響を及ぼさない。毒は毒にしてもとの毒にあらず。

つまり、どんどん変転していく。どのように変化するのか?その真相は分からない。連続していて切断は出来ないから。流れをせき止めては、流れは分からない。ながれっぱだとやっぱわからん。ppp

因果関係を読み込むのは、読み込む側に因果関係という水路が脳に埋め込まれているから。因果関係は、脳の性質の一部を反映しているだけで、脳が認識している対象そのもののことではない。

癌の発生メカニズムも何通りにも解明されて、因果の連鎖もまた数え切れないほどに存在していることが分かってきた。それは、まるでウエブサイトのようんもので、どこで互いがどう乗り入れているのかまではまだわからないし、前に進むというイメージで見ていると、後戻りしたり横道にそれたりして、一筋縄ではいかない。おまけに勝手に止まってしまったりする。 混沌。

細胞ひとつの中でも、そういう複雑極まりないドラマが時々刻々と展開されているのが生命現象・・・らしい。

面白かったのは、視線。
視線を感じるっていうのは根拠があって、人の目からは語句微量の光が漏れ出ていて、それが、眼の端っこの方でキャッチされるらしい。
それは、何光年も離れている星の極微量の光をキャッチできる能力と同じものらしい。人の目っていうのはすんごいものなんだねぇ。








商品の説明
内容紹介
60万部のベストセラー『生物と無生物のあいだ』続編が登場! 生命は、ミクロな「部品」の集合体なのか? 私たちが無意識に陥る思考の罠に切り込み、新たな科学の見方を示す。 美しい文章で、いま読書界がもっとも注目する福岡ハカセ、待望の新刊。



内容(「BOOK」データベースより)
顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?科学者たちはなぜ見誤るのか?世界最小の島・ランゲルハンス島から、ヴェネツィアの水路、そして、ニューヨーク州イサカへ―「治すすべのない病」をたどる。



著者について
1959年東京生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部研究員、京都大学助教授 などを経て、現在、青山学院大学教授。専攻は分子生物学。著書に『もう牛を食べても安心か』(文春新書、科学ジャーナリスト賞)、『プリオン説はほんとうか?』 (講談社ブルーバックス、講談社出版文化賞科学出版賞)、『生物と無生物のあい だ』(講談社現代新書、サントリー学芸賞・新書大賞)、『ロハスの思考』(木楽舎 ソトコト新書)、『できそこないの男たち』(光文社新書)、『動的平衡』(木楽舎)などがある。



腐女子化する世界―東池袋のオタク女子たち

2014年02月28日 | 読書一般
中央公論新社杉浦 由美子


 この本は、『腐る』ことをポジティヴに捉えている。
 
格差社会の格差のなかで、どのポジションにあっても、それぞれに抱える悩みは深刻で、そんな現実から逃れて一息つくために、ファンタジーが必要で、そのファンタジーに浸ることを『腐る』というわけ。
 
現実逃避の言いかえだと思うけど、それでも、逃避の仕方としてはそれほど悪くないわ。
 
厳しい現実から逃れるために、いろいろな『ファンタジー』を求めこれはるのかもしれないけれど、それが覚せい剤なのだとしたら、それは犯罪になる。求め方がよくない。のりぴーが、手のひら返したような袋叩きにあっているのは、ファンタジー提供者が、不適切に『ファンタジー』を求めてしまったから。それは、ファンタジー提供者たちが「毒入りファンタジー」を提供しているかのような印象を与えてしまうから。ゆえに、躍起になって、それを否定する。毒入りじゃないまでも、あまり質のよくないファンタジーしか提供できていないことを隠蔽できる絶好の機会でもあるし。草薙君のように裸を曝せば、ファンタジーが現実味を帯びて興ざめになるから、それも激しく否定されたのかな。
 
ファンタジーは、宗教が提供していためんもあったようだけど、オウム真理教事件以来、あるいはもっと以前から、宗教は、そういう能力を喪失してしまっていた。
 
 純粋なファンタジーは、アニメやコミックやゲームに収斂しているけれど、その製作者たち提供側は、それ自体のうちに格差を抱えていて、それも半端ない。
提供側に破綻をもたらす爆弾を抱えている点は同じ。
 
 イギリス人はアニメをバカにするけれども、自身のうちに、ファンタジーを希求する気持ちは強く大人も夢中でファンタジーを読む。
 
 フランス人の小娘二人が、アニメ王国日本にあこがれて家出をしたという話もある。まさにファンタスティックな振る舞いだけど、フランスは、イギリス・ファンタジーのお得意様だったのを日本に奪われるのを嫌って、日本のアニメを嫌うのかな。
 
 ファンタジーのよい点は、リアル要素がゼロなことで、男女の恋愛のようなリアルを持ち込まれると、いやなのが腐女子なんだって。ゆえに、やおいであり、BLであり、同性愛なんだとか。でも、それは少し違う気がする。けど、まあ、そういう物語なのでしょう。
 
 ありそうで、ない話は、リアルなところがあって、今は40~50代の女性に受けるんだって。今は、ありそうにない話が、若者に主流で、それでも、それは30代くらいの人たちに受けているとか。
 
 リアルっぽいけど、現実にはないものとして、歴史や国家が萌えなんだとさ。確かに、国家なんてリアル要素ゼロだから、現実と無関係に萌えられるものなのかもしれんな。あたしは萌えんが。 
 
 歴史だってさ、大河ドラマのツマブキ君とオグリ君なんかもBLっぽいし、カネツグとカゲカツもそうかも。pppあたしは、萌えんがな。

 そして、ヲタクは、子供時代の嗜好から離れられないコレクターだと、その本は言うけれど、それなら、それはアニメだとかに限らない。
 
 子供の頃から武術の修行を続けていたらヲタクになっちゃうぽppp

 いろいろ突っ込みどころ満載だけど、結構面白かったな。

商品の説明
出版社/著者からの内容紹介
最近は「萌え」という動詞は女性の間でも普及してきている。異性のアイドルを見てドキドキする感覚。アニメのキャラクターを「かっこいい!」と思う感覚。女性の間で「萌え」が拡がり、オタクが増えている――この現象が「腐女子化」だ。なぜ、女性たちは自分への興味を失い、自分以外のものを追いかけ、「萌え」るようになったのか? 密かに、しかし確実に進行する女性のオタク化、その裏側をレポートし、「腐女子化」の理由を探っていく。



内容(「BOOK」データベースより)
腐女子とは、男性同士の恋愛物語を嗜好する女性をいう。なぜ彼女たちは、「自分不在」の妄想世界に遊ぶのか?密かに、しかし確実に進行する女性のオタク化、その裏側をレポートする。



内容(「MARC」データベースより)
腐女子とは、男性同士の恋愛物語を嗜好する女性をいう。なぜ彼女たちは自分への興味を失い、自分以外のものを追いかけ、「萌え」るようになったのか? 密かに、しかし確実に進行する女性のオタク化、その裏側をレポートする。



著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
杉浦 由美子
1970年埼玉県生まれ。会社員を経て、ライターになる。2005年6月の『AERA』に執筆した「萌える女オタク」の記事が話題を呼び、各紙誌、テレビのオタク女子ブームに先鞭をつける。『AERA』を中心に、オタク文化、コミック、文芸などについて取材・執筆を行っている


快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内

2014年02月28日 | 読書一般
2003 中央公論新社津島 佑子


著者は太宰治の娘。確か旦那さんも有名な小説家。

 人が私という他人の存在に気がつくのは、「私」という言葉を使い始めるときからではないかな。
 
 取り扱いがとても厄介なとげのようなものが突き刺さっていることを意識し始めるのはもう少し後かもしれないけど、結局、それは、私という他人の存在なのね。

 津島さんは、そのとげの肌触りだとか癖だとか、そういったものにこだわって、それを小説に書き続けてきたってことかな。

 時代の空気がどう移り変わっても、また社会的存在としての女性に目覚めた後も、学校の図書館の中で、性別のない私と向き合い続けていた頃の私の眼で、私という他人を見続けているのかも知れず、それはこの本を書き終えた後も変わらない。

 独特の語り口は、対話ではなく一方向的なものろうぐに似ていて、一文ずつの息の長さや、文間の切れ目のなさに癖があって、センターテストに採用された小説の一節に思い当たった時に、津島さんの小説だったのかと納得するほど、その文体は、地続きな感じがする。

 他者の侵入を許さないというよりは私という他人の存在の大きさをもてあましていて、それどころではないという感じね。

 だから一緒になってこの人が書いたものを読みたくさせられてしまうのかしら。亡くなった池田晶子さんも、同じ臭いを漂わせていたような気がする。自己完結ー声の大きさは違うけれども、内心のかそけきつぶやきに、なになに?と耳を傾けさせられてしまう。その呟きが細々とした水の流れる音のように聞こえて、ついつい聞き入ってしまう。


商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
言葉から自由になりたい。物事の本質をつかまえるために、自分という生命を喜ぶために。『孝女白菊の歌』から『チャタレー夫人の恋人』、そしてフォークナーの世界へ。海流のように、竜巻のように渦巻き、再生しつづける物語の世界。言葉と人間、人間と物語、そのつながりには、希望を失わずに生きつづけようとする、ひとりひとりの人間たちの息吹がある。美しく静かな言葉で、著者は物語の意味を問い直す旅に出かける。



著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
津島 佑子
1947年(昭和22年)東京生まれ。白百合女子大学文学部英文学科卒業。作家。田村俊子賞、野間文芸新人賞、川端康成文学賞、谷崎潤一郎賞などを受賞