メディアが詐術と横暴を働くのは池に石を落とせば沈んだりもぐったりするのと同じだということは、当たり前すぎてわざわざ報道する価値もないというわけだ。
浅田次郎は、やくざの親分どころがよく訪れるとどこかに書いていたが、犯罪者も一流になると実に勤勉で手形詐欺を働く輩は、検察側よりもはるかに法令や判例に詳しいという。
リスクも少なくはないが「成功」報酬も小さくはない。
中には、塀の向こう側に落ちるのもいるが、それも確信犯で、たとえば、90億円を騙し取ったら9億円くらいは殊勝に返還してみせて、あとは海外にでも隠して散逸させてしまったと逃げを打つ。
海外に足を置くからには数ヶ国語は使いこなせる程度の学習は必要である。
数年間のお勤めの末、海外でリッチに人生を楽しむというわけだ。
『世界をだました男』にかぎらないが、詐欺師という人種は、根っから物真似と嘘が好きで、結局、そういう風にしか生きられないのかもしれない。
見ず知らずの酒場で、何者かになりきる。あるときは作家、あるときは教授、あるときは記者、あるいは医師と・・・割と知的職業関係者に成りすますのが好きらしい。
成りすますにはばれないだけの知識と風貌が要求される。
そういうことにむやみやたらと勤勉な人種なのである。
で、『詐欺師入門』の一歩として、神田古書店街に足を踏み入れるのである。
本職の知識人や学生は言うまでもないがそれに犯罪者が混じっているというのもどこかおかしい。
鶏鳴狗盗の輩と侮らないで、国は、こういう連中を採用して適材適所に運用してみても悪くはないのではないか。
『外交官』などを読んでいると、欧米では、この手の人間が外交舞台で大活躍しているのがわかる。真面目に試験を受けてというようなのは、いざというときに役に立たない。まして、閨閥がらみの二世や三世ではお話にならない。
今でこそブックオフばかりに出入りするようになったが、学生時代をはじめとして好きに使えるお金が今よりもずっと多かったころには、怪しい風体と目つきでうろちょろしていたものだが、そういう私から見てもはるかに怪しいやつらが徘徊していたと記憶している。
グランデや三省堂に行くのは、まあ、一般市民だろう。
「学生さん?最近は学生さんも本を読まなくなったからねえ。それにしても珍しい本を読むんだねえ・・・」
見ず知らずのおじさんから不意に背後から声をかけられたりした。
「それなら、いいのがあるところを知っているよ」
というわけで、ついて行ったら、本郷の古本屋の親父だった。
そこではずいぶんつけで本を買わせてもらったし、何冊かは贈呈もしてもらった。
どういうわけか、本屋の近くにはコーヒー屋とカレー店と相場が決まっている。
さっと腹を満たしてコーヒー一杯で存分に粘って戦利品に目を通す。書店を巡りながら軽く3時間ばかり本を読み、続きを喫茶店で3時間。表に出るととっぷりと日も暮れて街にはすっかり夜の帳が下りている。ネオンと車の騒音、雑踏に包まれて帰路に着く。
司馬遼太郎の『街道をゆく』にも紹介されているし、折に触れてテレビも取り上げる街並みである。
しかし、表見にはわからないタイム・トラベルが楽しめる空間なのである。
古書独特の匂いに包まれて、背表紙に目を走らせ手で撫でていくうちに、時間は止まり、いつの間にか時計が逆回りを始める。
赤瀬川原平は、「活字の読まれ率」ということをどこかで書いていた。
本一冊のページ数や活字数を金銭換算してみたり、実際の読まれ率に置き換えて評価するというのも面白いが、さらに進めれば、書物は文字の順列組み合わせにまで還元されるだろう。
読んで音声に変換し、さらにイメージに、動画に変換されていく。
そしてついには本の世界にこちらが取り込まれていくというわけだ。
古書店街は、そういうあやかしの空間であり、狭苦しい都市の中で無限の異空間をなしている。
本には値段が付いているが、古書は読む者に値段をつけるのである。いや、値段そのものまで古書の中の世界へと取り込まれていく、そういう暗黒星雲なのである。
リスクも少なくはないが「成功」報酬も小さくはない。
中には、塀の向こう側に落ちるのもいるが、それも確信犯で、たとえば、90億円を騙し取ったら9億円くらいは殊勝に返還してみせて、あとは海外にでも隠して散逸させてしまったと逃げを打つ。
海外に足を置くからには数ヶ国語は使いこなせる程度の学習は必要である。
数年間のお勤めの末、海外でリッチに人生を楽しむというわけだ。
『世界をだました男』にかぎらないが、詐欺師という人種は、根っから物真似と嘘が好きで、結局、そういう風にしか生きられないのかもしれない。
見ず知らずの酒場で、何者かになりきる。あるときは作家、あるときは教授、あるときは記者、あるいは医師と・・・割と知的職業関係者に成りすますのが好きらしい。
成りすますにはばれないだけの知識と風貌が要求される。
そういうことにむやみやたらと勤勉な人種なのである。
で、『詐欺師入門』の一歩として、神田古書店街に足を踏み入れるのである。
本職の知識人や学生は言うまでもないがそれに犯罪者が混じっているというのもどこかおかしい。
鶏鳴狗盗の輩と侮らないで、国は、こういう連中を採用して適材適所に運用してみても悪くはないのではないか。
『外交官』などを読んでいると、欧米では、この手の人間が外交舞台で大活躍しているのがわかる。真面目に試験を受けてというようなのは、いざというときに役に立たない。まして、閨閥がらみの二世や三世ではお話にならない。
今でこそブックオフばかりに出入りするようになったが、学生時代をはじめとして好きに使えるお金が今よりもずっと多かったころには、怪しい風体と目つきでうろちょろしていたものだが、そういう私から見てもはるかに怪しいやつらが徘徊していたと記憶している。
グランデや三省堂に行くのは、まあ、一般市民だろう。
「学生さん?最近は学生さんも本を読まなくなったからねえ。それにしても珍しい本を読むんだねえ・・・」
見ず知らずのおじさんから不意に背後から声をかけられたりした。
「それなら、いいのがあるところを知っているよ」
というわけで、ついて行ったら、本郷の古本屋の親父だった。
そこではずいぶんつけで本を買わせてもらったし、何冊かは贈呈もしてもらった。
どういうわけか、本屋の近くにはコーヒー屋とカレー店と相場が決まっている。
さっと腹を満たしてコーヒー一杯で存分に粘って戦利品に目を通す。書店を巡りながら軽く3時間ばかり本を読み、続きを喫茶店で3時間。表に出るととっぷりと日も暮れて街にはすっかり夜の帳が下りている。ネオンと車の騒音、雑踏に包まれて帰路に着く。
司馬遼太郎の『街道をゆく』にも紹介されているし、折に触れてテレビも取り上げる街並みである。
しかし、表見にはわからないタイム・トラベルが楽しめる空間なのである。
古書独特の匂いに包まれて、背表紙に目を走らせ手で撫でていくうちに、時間は止まり、いつの間にか時計が逆回りを始める。
赤瀬川原平は、「活字の読まれ率」ということをどこかで書いていた。
本一冊のページ数や活字数を金銭換算してみたり、実際の読まれ率に置き換えて評価するというのも面白いが、さらに進めれば、書物は文字の順列組み合わせにまで還元されるだろう。
読んで音声に変換し、さらにイメージに、動画に変換されていく。
そしてついには本の世界にこちらが取り込まれていくというわけだ。
古書店街は、そういうあやかしの空間であり、狭苦しい都市の中で無限の異空間をなしている。
本には値段が付いているが、古書は読む者に値段をつけるのである。いや、値段そのものまで古書の中の世界へと取り込まれていく、そういう暗黒星雲なのである。
学者は世界を知っているが世間を知らない。
昔から学者を皮肉るのに使われる言い回しである。
大学に行ったらバカになる。
専門バカ、なんてのもよく使われた言葉だ。
今は、大学に限らず、すっかり専門屋ばかりになったから、くるりと一周して元に戻ったような感じかな。
バカばかりだとも利口者ばかりだとも言える。
私は、世界はもちろん世間もわからない。
バカ未満である。
だから、覗く。
猿が檻に開いた小窓の向こうを覗くようにして覗く。
海外ミステリーという小窓を通して世界や世間を覗いているのである。
通俗小説といって、この手の読み物を足蹴にする人も、どこか一目置かざるをえなかったりする。
そういう人は、たぶん、まだしも見る目というものを持っているのだろう。
そういう物語が量産される世界がそこになければ、どこからそんな話がうまれ出てくる?
腹は立てても、なぜ腹が立つのかと考える、いわば思考のゆとりを持っているのである。
バカ未満の私は、「未満」を自覚する前は、海外ミステリーを自分の発見だと誤解していた。
私が見つける前から書店にはごまんと並んでいたはずなのにねえ。
それどころか、このレベルがわからなかったとは、と自らの不明を責めるとともに、ついさっきまでの自分のレベルの読書人たちをあざ笑った。
「これがわからないのは遅れているんだ。」
読書の発展段階説を信奉したくなるほどであったのだ。
「坊や、自分だけ目が見えて他はメクラだなんて思ったら穴ぼこに落っこちるぜ」
麻雀放浪記の上州虎が、坊や哲に言う台詞だ。
で、穴ぼこに落ちてもいと思った。
そして、海外ミステリーの穴ぼこに落っこちて、穴の底を掘り始めてみて、おれは「未満」だと知ったというわけ。
覗きのよさは、相手にこちらが見えないという点である。
まあ、同程度にはこちらは相手が見えないのだが、だからかえってよく見えるというのは、カメラと同じ理屈で焦点を絞れば視野が広がるのである。
実際、たとえば、米国本土に足を踏み入れたらもっとよくアメリカがわかるかといえば、やたら人が多くて向こうが見えなかったり、がらんとしたところに一本道があって、周りに人気がないか、いくらか人がいても閉鎖的でぐっと中にまで入り込めないか、とにかく目を大きく開けてみても何も映らないというのが実情だと、行って来た人間が言うのだから、ひとまずその言葉を信じてみる。
まあ、南の海で、美しい海の生き物に目を奪われて感動とともに、そのことを語るに似た論評や、いや、メシが口に合わないといった苦情に似た評価を眼にすることは少なくないが、先の旅行者の言葉のほうが、私には腑に落ちるのである。
だから、覗く。
たぶん悪癖の一つなのだろう。
覗いたからといってなんの役に立つわけでもない。
海外ミステリの効用を語る気もなければ、説明をするつもりもない。
説明を聞いてわかるなら、私にもとっくに世間や世界がわかっている。
学者も要らない。
話はこぎれいにまとまらないところから始まるのであって、なぜだか、そこが面白くてたまらないのである。
それだけのことなのだ。
昔から学者を皮肉るのに使われる言い回しである。
大学に行ったらバカになる。
専門バカ、なんてのもよく使われた言葉だ。
今は、大学に限らず、すっかり専門屋ばかりになったから、くるりと一周して元に戻ったような感じかな。
バカばかりだとも利口者ばかりだとも言える。
私は、世界はもちろん世間もわからない。
バカ未満である。
だから、覗く。
猿が檻に開いた小窓の向こうを覗くようにして覗く。
海外ミステリーという小窓を通して世界や世間を覗いているのである。
通俗小説といって、この手の読み物を足蹴にする人も、どこか一目置かざるをえなかったりする。
そういう人は、たぶん、まだしも見る目というものを持っているのだろう。
そういう物語が量産される世界がそこになければ、どこからそんな話がうまれ出てくる?
腹は立てても、なぜ腹が立つのかと考える、いわば思考のゆとりを持っているのである。
バカ未満の私は、「未満」を自覚する前は、海外ミステリーを自分の発見だと誤解していた。
私が見つける前から書店にはごまんと並んでいたはずなのにねえ。
それどころか、このレベルがわからなかったとは、と自らの不明を責めるとともに、ついさっきまでの自分のレベルの読書人たちをあざ笑った。
「これがわからないのは遅れているんだ。」
読書の発展段階説を信奉したくなるほどであったのだ。
「坊や、自分だけ目が見えて他はメクラだなんて思ったら穴ぼこに落っこちるぜ」
麻雀放浪記の上州虎が、坊や哲に言う台詞だ。
で、穴ぼこに落ちてもいと思った。
そして、海外ミステリーの穴ぼこに落っこちて、穴の底を掘り始めてみて、おれは「未満」だと知ったというわけ。
覗きのよさは、相手にこちらが見えないという点である。
まあ、同程度にはこちらは相手が見えないのだが、だからかえってよく見えるというのは、カメラと同じ理屈で焦点を絞れば視野が広がるのである。
実際、たとえば、米国本土に足を踏み入れたらもっとよくアメリカがわかるかといえば、やたら人が多くて向こうが見えなかったり、がらんとしたところに一本道があって、周りに人気がないか、いくらか人がいても閉鎖的でぐっと中にまで入り込めないか、とにかく目を大きく開けてみても何も映らないというのが実情だと、行って来た人間が言うのだから、ひとまずその言葉を信じてみる。
まあ、南の海で、美しい海の生き物に目を奪われて感動とともに、そのことを語るに似た論評や、いや、メシが口に合わないといった苦情に似た評価を眼にすることは少なくないが、先の旅行者の言葉のほうが、私には腑に落ちるのである。
だから、覗く。
たぶん悪癖の一つなのだろう。
覗いたからといってなんの役に立つわけでもない。
海外ミステリの効用を語る気もなければ、説明をするつもりもない。
説明を聞いてわかるなら、私にもとっくに世間や世界がわかっている。
学者も要らない。
話はこぎれいにまとまらないところから始まるのであって、なぜだか、そこが面白くてたまらないのである。
それだけのことなのだ。
小学生の頃、図画工作の時間に、冗談交じりの口調で、何気なく、通りすがりに教師に指摘された言葉である。
印象派だの何だのということはわからんかったが、言われてみればごもっとも。
向かいにいるモデルの石松君のどこにも黒い線は見当たらない。
私は、いわゆる輪郭って物を描いていたのだが、それは黒い線で縁取りするものだとばかり思い極めていたのであった。
と、そのとき、気がついた。
塗り絵帳というのがあって、どの絵も薄い灰色で縁取りされていて、その枠の中にきっちりきれいに色混じりもさせずに絵を描く子が近所にいて、それにもずいぶん感心していたが、この言葉を耳にして以来、塗り残しや、色混じりやふちから外れることが気にならなくなってしまった。
いや、きちんと枠に収めるというのが、なんだかすっかり嫌になってしまった。
後に、養老孟司の本で、切れ目は脳の中にしかない、とあるのを読んで、これもすかさず了解。
まあ、しかし、切れ目が「在る」ということは否定できないのである。
これをはずすのは、並大抵のことではない。
それは、ミステリーを読んでいてもよくわかることで、極言すれば、そのことばかりが書いてある。
なにかの文章を読んでいて、わかりにくいと思うことがある。
このわかりにくさにもいろいろ理由があるが、言葉の塗り残し、交じり合い、はみ出しなどは、つまりは、こちらの頭の中の線引きに合わないということなのだろう。
こちらの寸法に合ったものを読むのは心地よいが、不協和音を奏でるものだって、案外面白いかもしれないではないか。
私の頭の中の黒い線はどのあたりに引いてあるのだろうか。
印象派だの何だのということはわからんかったが、言われてみればごもっとも。
向かいにいるモデルの石松君のどこにも黒い線は見当たらない。
私は、いわゆる輪郭って物を描いていたのだが、それは黒い線で縁取りするものだとばかり思い極めていたのであった。
と、そのとき、気がついた。
塗り絵帳というのがあって、どの絵も薄い灰色で縁取りされていて、その枠の中にきっちりきれいに色混じりもさせずに絵を描く子が近所にいて、それにもずいぶん感心していたが、この言葉を耳にして以来、塗り残しや、色混じりやふちから外れることが気にならなくなってしまった。
いや、きちんと枠に収めるというのが、なんだかすっかり嫌になってしまった。
後に、養老孟司の本で、切れ目は脳の中にしかない、とあるのを読んで、これもすかさず了解。
まあ、しかし、切れ目が「在る」ということは否定できないのである。
これをはずすのは、並大抵のことではない。
それは、ミステリーを読んでいてもよくわかることで、極言すれば、そのことばかりが書いてある。
なにかの文章を読んでいて、わかりにくいと思うことがある。
このわかりにくさにもいろいろ理由があるが、言葉の塗り残し、交じり合い、はみ出しなどは、つまりは、こちらの頭の中の線引きに合わないということなのだろう。
こちらの寸法に合ったものを読むのは心地よいが、不協和音を奏でるものだって、案外面白いかもしれないではないか。
私の頭の中の黒い線はどのあたりに引いてあるのだろうか。
lemon(レモン・檸檬)は、柑橘系のさわやかなイメージをもたれている場合が少なくないだろう。
ところが英語圏では、欠陥商品の俗称として用いられることがある。
少なくともあまりよいイメージはないらしい。
テレビ映画で企業の欠陥商品を糾弾するために会社の前でレモネードの販売をするシーンがあった。
会社側はこんなところでレモネード販売はやめてくれと言う。
外聞が悪いと言うか企業イメージを損なうことになるのか威力業務妨害に相当するのか、まあ、とにかく嫌がらせになりうるのだ。
ところで「欠陥」とは何か?
欠陥車、欠陥住宅などなど。
パンツの小さな飾り一つ欠けても不良品扱いである。
走行中に爆発したり車輪が外れたりするのはさすがに困る。
床が傾いた家というのは、一概に欠陥とは言えない。
英国の古い村を紹介していたが、傾きは歴史を象徴しているので大事に保存していると言うのである。
唇が切れるコップや湯のみは困る。
少しばかり傷があっても食卓や湯船としての機能が十全であれば問題ない。
つまり、モノを機能面から見ているのである。
何かが欠けているだけでなく、それが目的とした機能を果たし得ない場合に欠陥と言うのだろう。
しかし、ある目的にふさわしい機能は果たせなくても、見方を変えて別の目的にはふさわしく機能するかもしれない。
これは、そのものをどう見るかという見る側の問題であろう。
そこで見る側の脳の問題になる。
見ているほうが欠陥脳ならばどうか?
まともなものも欠陥品に見えるかもしれない。
贅肉を落とすように余分な記憶は年とともに減少するらしい。
脳の機能は前頭葉に依存することになるという。
この前頭葉を鍛えるには体を動かす。
歩くのがいいらしい。
これはやっている。
それから、園芸などもいいらしい。
これもやっている。
手芸もいい。
これはやらないが、知人(♂)は娘のセーターを手編みで作ると言う。
なるほど。
旅行もいいらしい。
これは楽しみでもある。
麻雀までもがオッケイなのだ。
おおいに喜んでやるとも。
しかし、共通しているのは新しいことへの好奇心と体を動かすことと言えるのじゃなかろうか。
そこで、
外国ものは人名が覚えにくいなどと言ってないで、古典ミステリにばかりとどまっていないで、どんどん新しい作品にも手をだすということをやってみたらどうだろうか。
我田引水ながら前頭葉にいい刺激を与えてくれるんじゃないかな。
そういうことをやらなくなると、頑固になり、誤った記憶に支配されるようになり、くどくなり、一口に言ってぼけてしまうらしい。
死ぬよりもぼけるのが怖いと言う人も少なくない。
だったらなおさらだ。
いかが?
ところが英語圏では、欠陥商品の俗称として用いられることがある。
少なくともあまりよいイメージはないらしい。
テレビ映画で企業の欠陥商品を糾弾するために会社の前でレモネードの販売をするシーンがあった。
会社側はこんなところでレモネード販売はやめてくれと言う。
外聞が悪いと言うか企業イメージを損なうことになるのか威力業務妨害に相当するのか、まあ、とにかく嫌がらせになりうるのだ。
ところで「欠陥」とは何か?
欠陥車、欠陥住宅などなど。
パンツの小さな飾り一つ欠けても不良品扱いである。
走行中に爆発したり車輪が外れたりするのはさすがに困る。
床が傾いた家というのは、一概に欠陥とは言えない。
英国の古い村を紹介していたが、傾きは歴史を象徴しているので大事に保存していると言うのである。
唇が切れるコップや湯のみは困る。
少しばかり傷があっても食卓や湯船としての機能が十全であれば問題ない。
つまり、モノを機能面から見ているのである。
何かが欠けているだけでなく、それが目的とした機能を果たし得ない場合に欠陥と言うのだろう。
しかし、ある目的にふさわしい機能は果たせなくても、見方を変えて別の目的にはふさわしく機能するかもしれない。
これは、そのものをどう見るかという見る側の問題であろう。
そこで見る側の脳の問題になる。
見ているほうが欠陥脳ならばどうか?
まともなものも欠陥品に見えるかもしれない。
贅肉を落とすように余分な記憶は年とともに減少するらしい。
脳の機能は前頭葉に依存することになるという。
この前頭葉を鍛えるには体を動かす。
歩くのがいいらしい。
これはやっている。
それから、園芸などもいいらしい。
これもやっている。
手芸もいい。
これはやらないが、知人(♂)は娘のセーターを手編みで作ると言う。
なるほど。
旅行もいいらしい。
これは楽しみでもある。
麻雀までもがオッケイなのだ。
おおいに喜んでやるとも。
しかし、共通しているのは新しいことへの好奇心と体を動かすことと言えるのじゃなかろうか。
そこで、
外国ものは人名が覚えにくいなどと言ってないで、古典ミステリにばかりとどまっていないで、どんどん新しい作品にも手をだすということをやってみたらどうだろうか。
我田引水ながら前頭葉にいい刺激を与えてくれるんじゃないかな。
そういうことをやらなくなると、頑固になり、誤った記憶に支配されるようになり、くどくなり、一口に言ってぼけてしまうらしい。
死ぬよりもぼけるのが怖いと言う人も少なくない。
だったらなおさらだ。
いかが?