goo blog サービス終了のお知らせ 

備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

『二流小説家』(デイヴィッド・ゴードン:早川書房 THE SERIALIST David Gordon 2010)

2014年06月16日 | 海外ミステリー

 売れない作家ハリー・ブロックのもとに死刑執行が確定した連続猟奇殺人犯ダリアン・クレイから、ある条件の下に、生い立ちをはじめとする独占的に告白聴取録を出版することを認めるという旨の手紙が届いた。

 部屋代の支払いのために始めた家庭教師先の教え子クレアは、ハリーのマネージャーとして、この申し出を承諾すべきだと言う。

 とりあえず面会に行ったもののハリーはこの仕事を請けたくないと思った。そこに、被害者遺族たちが押しかけて、出版を許さないと抗議してきたが、双子の姉を殺されたダニエラだけは、ぜひ、その仕事を請けてほしいと申し出る。

 結局、ハリーはこの仕事を引き受けることになり、ダリアンの元に寄せられたファンレターの差出人たちを訪問して話を聞いてまわることになるのだが・・・。

 合間合間に、ハリーが手がける探偵小説、バンパイヤ小説、SF小説の一部が紹介され、当代の有名作家たちについての論評がさしはさまれる。あるいは、現代社会批判のようなものも散見されるが、それはそれで面白い。

 小説の本筋よりは、そういう脱線のほうが、実は、主食なのではないかと思えるほどだが、それらは最後の最後の大逆転の布石にもなっていて、つくりとしてはややあざとすぎる気もするが、それが二流の二流たるゆえんでもあり、メビウスの輪のような円環構造になっている。

 この本の読みやすさは、翻訳者のおかげではないかと思う。

 下手な訳者に当たると、日本でのこれほどの評価は得られなかったかもしれない。

『子供たちの夜』(トマス・チャスティン:早川ポケミス1419)

2014年05月09日 | 海外ミステリー
 <誘拐ものだとおもったのだが・・・>

 1982年に書かれた作品である。

 ニューヨーク、セントラル・パークが舞台になっている。
 
 訳者あとがきでもふれられているが、夜の大都会が厳密に描写されている。

 その昔、友人が、夜のブロードウェイを歩いて恐ろしかったという話を聞いたことがあるが、同じころだったか。

 ニューヨーク市長ジュリアーノが、壊れた窓理論にのっとって、改革に乗り出し、一時的に治安が回復されたが、2014年現在、すでにその効果は薄れ、もとに戻ったかどうかまではわからないが、小手先の対策を押し付けてみても根本は改まらないだろう。

 バッグピープル、浮浪児たちのギャング(=集団)、冷徹なまでに固定化された格差、杓子定規なルールの適用、などなど、読んでいて、アメリカにだけは住みたくないと思わせるのに充分なお釣が来る内容だった。

 あるいは、これは日本の大都会の近い将来、いや現在の姿か。

 人と人との支えあいが皆無というわけではない。

 映画『ハリケーン』でも救援活動が一時は盛り上がる。そういうものは、すべてブームや流行の類で、根っこがない。

 なにか、根本とか土台と呼ばれるようなものが見当たらないのである。

 『イギリスにおける労働階級の状態』というエンゲルスの古典的ルポがあるが、都市化のはじめから、こういう自体の萌芽は用意されていたようだ。「人々はすべてmonadモナド=単子と化している」とエンゲルスは冒頭に書き記している。

 明治初期に、欧米視察した大久保利通や岩倉具視も夜のロンドンを散歩して同様の感想を残している。そうなると承知の上で殖産興業政策を選択せざるをえなかった彼らの胸のうちはいかなるものだっただろうか?

 大都会のような人口密集地域はウイルスの実験場でもある。

 それでも、都市主義の進行は止められない。

 大都会は人間破壊の巨大な実験場なのだ。

 「狂気とは理性がすべてを支配する世界のことだ」と言ったのは、ブラウン神父シリーズで有名なチェスタトンだが、都会は、まさしくそういう世界に他ならない。

 それでもやはり、大都会に住みたいという願望が弱まる気配はない。

 原題は、NIGHTSCAPE (夜景画)

 本当にどこまでも暗い夜景画が、ここには描かれている。

『砕かれた街』(上・下)(ローレンス・ブロック:二見文庫)

2014年05月04日 | 海外ミステリー
原題は、SMALL TOWN
舞台は、大都会ニュー・ヨーク。
しかし、そこに住み暮らす人間にとっては、所詮、シルダの町、小さな町に過ぎない。
だって、どうしてNYの全貌が、誰がどこでなんのために何をどんなふうにしているのか、その全部がわかるというのか?一人の人間にわかることはたかが知れている。小さな町くらいのことしかわからないのだ。
そして、その町の中では、ドクター・スランプのペンギン村だのビデオ・ゲームの中の世界と同じで、気ままに建物に出入りしたり、ガードレールを踏み越えて向こう側に行くこともできない。ばかりでなく、画廊の美人オーナーも小説家も警察署長も文芸エージェントも編集者も平の警察官も刑事もゲイの若者も娼婦も弁護士も一人暮らしの老人も女彫り物師もバーテンダーも、みんなその役割をこなすしかない。
与えられたロール・プレイングに専念して勝手に役を降りたり変えたりすることはできない。
(だって、誰が何だ少しもかわからないなんてことには耐えられないんじゃないか)
もちろん、何者でもない者は、何者でもないという役割を与えられているというわけだ。
アノニマス(匿名)、インビジブル(透明)そういう存在として生きるか、さもなければプライマリ・カラーズ(原色)として華々しくその存在をアピールするか、二つに一つという単調さである。
おとぎの国、遊園地、ディズニーランドは、華やかな賑わいに満ちて楽しい。
でも、どうしようもなく退屈である。
もちろんはじめのうちは楽しいかもしれないが。
なぜか?
こうなればいいのに、ああなればいいのにという夢を実現し尽くして、ああすればこうなる、こうすればああなるということがすべて予測されて、意外さや裏切られる快感や、つまり驚きがないからだ。
そうなると、なんでも意識的に驚きを排除するようになるのだろうか。
驚きはすべて不快となるのだろうか。
役割変更を恐れるようになるのか。


だが、変更は突然起きたのだった。

飛行機テロにより9・11世界貿易センタービル倒壊。

この街の象徴が一瞬にして消し飛んでしまった。
家族が、恋人が、友人が、次の瞬間に、そしてそれに続く時間の中で(強制的で望まない役割変更に耐えかねて)姿を消していった。
残された者は、呆然として佇む。
そう、何をどう生きたらいいのか?

表面上は、ふだんと変わらない日常の継続だが、もはや昔の元通りの意味と役割を持った世界は戻ってこない。
そして、しかし、

「どうすればいい?」

そう問うこと、それが、都市の鉄則なのだ。

答えはわからないかもしれない。しかし、人間は、年もとるし、いずれ死ぬし、それに人生は一回きりの後戻りなしの(その意味でやりなおしのきかない)ゲームだ。
どうして、向こう側にいっちゃいけない?どうして出入りしちゃいけない?

街は、夕日が美しく、川からの風情もすばらしく、空から見下ろすこともできれば、地下にもぐることだってできて、見たいように見ればいいし、したいようにしてみればいいのに、ふだんはそうしないし、そうしてこなかったけれども、そうしようと思えば、どれでも、誰でも、いつでもできたはずのことなのに。

そして、家族のすべてを失った、しかしこの街をこよなく愛する一人の老人が街の再生となることを固く信じて行動を起こした。
そう。とんでもないことを始めたのだった。

文庫で877ページ。相変わらずのページターナーである。読み出したら止められないのが小説なのである。しかし、私は、先を読み急ぎたくはなく、あえて滑り台から滑り落ちるのを手で支えるようにして、美味しいものを少しずついただくようにして、じっくりと味わいたかったし、実際そのように心がけた。
それでもいずれ終わってしまうのが物語の宿命か。

名匠ブロックの名作となるであろう一品である。

『ただ一度の挑戦』(パトリック・ルエル:ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

2014年04月30日 | 海外ミステリー
 <またしても児童誘拐・・・か>

 パトリック・ルエルことレジナルド・ヒルは、パスコー警部シリーズとは別のノン・シリーズものをこの名前で書いている。
 アクションものに使われる名前のようである。
 しかし、ヒルの名前が確立して以来、この名前はあまり使う必要がなくなったらしい。

 北米、イギリス、南米と舞台を変えていく展開は、パスコーものとはまったく趣が違う。
 が、パスコー風の登場人物が悪玉で顔を出している。
 悪いやつも読みが早く深く行動力があるので、なかなか気が抜けない。
 出てくる主要人物たちは、男も女も活動的である。
 しかし、アメリカ風とは少しばかり味わいが違う。
 プロットが緊密なのでうっかり実名を出して紹介してしまうと興趣がそがれてしまう。

 誘拐事件を端緒として、IRAの闘士、英国公安警察、地元の警察などが三つ巴になって話が展開していく。
 と、いう書き方では、一番美味しいところがすっぽり抜け落ちてしまうのだ。
 紹介の困難さゆえに多く読まれない本というのがあるとすればこれであろう。

 ドッグ・シセロという警部とジェーン・マグワイアという誘拐された子供の母親の関係が主軸なんだが、これに他がどう絡むかが、言うに言えないお話なのである。

 シセロの伯父にエンドウというかつてのポーカーの名手がいて、この伯父さんの格言のようなものが随所に出てくるのだが、これが原題のTHE ONLY GAMEと結びついてくる。
 
 <game>は、英米文化に共通するキー・ワードである。それぞれの登場人物がどういうルールでこのゲームをプレイするのかというあたりが読みどころか。
 これくらいの言い方が無難な線であろう。

『殺しの演出教えます』(サイモン・ブレット:角川文庫)

2014年04月30日 | 海外ミステリー
 売れない中年俳優探偵、チャ-ルズ・パリス・シリーズの、確か4作目。
 他のはさきに大体読んでしまって、これだけ手に入らなかったので後回しになってしまった。
 
 サイモン・ブレット自身が演劇関係の仕事に従事しているので、その内幕話というのが毎回のお約束であるが、この本では、素人劇団の寸評を依頼されて出向いたところ、チャールズを呼んでくれた友人の妻が殺されるという事件に巻き込まれてしまうというお話である。
 むろん、その友人が容疑者とされ、例によって頼まれもしないのに、友人を救うために一肌脱ぐというわけである。
 もちろん素人探偵なので、その推理は外れまくり、ぎりぎりのところで真相に偶然ぶち当たるというのも、今となっては定番である。
 しかし、このさえない主人公についつい同調してしまうのは、そのさえなさゆえで、自らを規律することができず、ずば抜けた才能があるわけでもなく、それでいて年相応に人生の実相というものが見えてしまっていて、がむしゃらになるわけでもないが、だからといって、すっかり意気地なしというわけでもなく、自分も思いもよらぬところで妙に頑張ってしまうようなところがあって、つまりは、一寸の虫にだってというような、きっちり五分くらいの魂を見せてくれるところが、あるいは同調させられてしまう仕掛けなのかもしれない。

 原題は、 an amateur corpse

「素人死体」だが、corpseには、芝居の最中に思わず噴出してしまうという隠語的用法があるらしい。
 これは最後まで読めば分かるようになっていて、落語の落ちに似ている。