と、そう言われたことを覚えている。
余計なお世話だ。
そうつぶやいたのはちゃんと分かっているのだ。
まあ、そうは言っても、なるほどと思える部分は確かにある。
話す聞くから始まって読み書きに移行するというのが母語を習得する順番であるからだ。
ゲーテも揶揄するように、ステップ1と2がないのに3と4があるのは論理学的に不都合なのだ。
なめらかに知的ではなくとも会話を取り交わせない人物が原書で難しげな書物を読むことが出来ると言っても、確かに説得力は無い。
赤ちゃんがこちらの言う事は分かるが、自分の言いたい事がうまく伝えられないもどかしさに似ている。
犬や亀だってそうかもしれない。
魚やタコやイカなんぞは、コミュニケーションがはかれない弱みに付け入られて毎日大量に食われてしまっている。
こうなると、傲慢さなど飛び越えてホラーになる。
相手がこちらの言い分を了解しているかどうかが分からない場合、相手を食べることまでありうるのだ。
なにがしかの機能障害でものが言えない場合も、これに近い。
相手はこちらの言い分を全部理解できているのに、それをこちらに上手く伝えられないのである。
文字や映像が聴覚言語に優先される事があるのは十分に理解可能なはずである。
このあたりの想像力に欠けているのか、つまり知的に少し弱いのか、ものが言えない相手にものを言えというほどに傲慢かつ残虐なのか、あるいははなはだ疑り深いのか、いずれにしてもちょいと立場を入れ替えて考えてみるということができにくいのであろう。
まあ、逆もある。
話せるから分かっているという保証はない。
しかし、それはさておき、ラテン語や漢文など死語は理解可能だが、それが使われていた場面でどのような情感を生んだのかまでは正確にはわからない。
文字や映像の解釈は多義的である。
生きた言葉としての英語を文章においても理解できる為には聴覚的要素のみならず文字で表示しきれないこもごもの要素を実感できなくてはなるまい。
だが、そこまでいってもやはり誤解の余地は広大に広がっている事は、同じ日本人同士においてもしばしば実際に見受けられることである。
異性同士の交流なども分かりやすい例であろう。
誤解には事欠かない。
逆に、外国人との方が正しく理解しあえることもありうる。
翻訳で読んだのでは、話が違ってしまうでしょ。
そういう指摘も一理あるのは分かる。
これを英語国民に言われると素直に耳を傾けたくなくなるが、他言語話者からの指摘だと客観的に聞こえたりする。
言っている事に変わりはないし、その他言語話者が英語よりかそうでないかによっても、あるいはいかなる言語であれ、それに順応出来るほどに完全に習得すべしという論者であるかによっても、こちらの受け止め方は違ってくる。
要するに、「わかる」こととわからないことがあるということである。
それとて、理性や感情や性癖や虫の居所といったものがごっちゃになって真に面倒な話なのだが、そういうことをあれこれ思い浮かべていると、どうしても話についていけなくなってしまうのである。
余計なお世話だ。
そうつぶやいたのはちゃんと分かっているのだ。
まあ、そうは言っても、なるほどと思える部分は確かにある。
話す聞くから始まって読み書きに移行するというのが母語を習得する順番であるからだ。
ゲーテも揶揄するように、ステップ1と2がないのに3と4があるのは論理学的に不都合なのだ。
なめらかに知的ではなくとも会話を取り交わせない人物が原書で難しげな書物を読むことが出来ると言っても、確かに説得力は無い。
赤ちゃんがこちらの言う事は分かるが、自分の言いたい事がうまく伝えられないもどかしさに似ている。
犬や亀だってそうかもしれない。
魚やタコやイカなんぞは、コミュニケーションがはかれない弱みに付け入られて毎日大量に食われてしまっている。
こうなると、傲慢さなど飛び越えてホラーになる。
相手がこちらの言い分を了解しているかどうかが分からない場合、相手を食べることまでありうるのだ。
なにがしかの機能障害でものが言えない場合も、これに近い。
相手はこちらの言い分を全部理解できているのに、それをこちらに上手く伝えられないのである。
文字や映像が聴覚言語に優先される事があるのは十分に理解可能なはずである。
このあたりの想像力に欠けているのか、つまり知的に少し弱いのか、ものが言えない相手にものを言えというほどに傲慢かつ残虐なのか、あるいははなはだ疑り深いのか、いずれにしてもちょいと立場を入れ替えて考えてみるということができにくいのであろう。
まあ、逆もある。
話せるから分かっているという保証はない。
しかし、それはさておき、ラテン語や漢文など死語は理解可能だが、それが使われていた場面でどのような情感を生んだのかまでは正確にはわからない。
文字や映像の解釈は多義的である。
生きた言葉としての英語を文章においても理解できる為には聴覚的要素のみならず文字で表示しきれないこもごもの要素を実感できなくてはなるまい。
だが、そこまでいってもやはり誤解の余地は広大に広がっている事は、同じ日本人同士においてもしばしば実際に見受けられることである。
異性同士の交流なども分かりやすい例であろう。
誤解には事欠かない。
逆に、外国人との方が正しく理解しあえることもありうる。
翻訳で読んだのでは、話が違ってしまうでしょ。
そういう指摘も一理あるのは分かる。
これを英語国民に言われると素直に耳を傾けたくなくなるが、他言語話者からの指摘だと客観的に聞こえたりする。
言っている事に変わりはないし、その他言語話者が英語よりかそうでないかによっても、あるいはいかなる言語であれ、それに順応出来るほどに完全に習得すべしという論者であるかによっても、こちらの受け止め方は違ってくる。
要するに、「わかる」こととわからないことがあるということである。
それとて、理性や感情や性癖や虫の居所といったものがごっちゃになって真に面倒な話なのだが、そういうことをあれこれ思い浮かべていると、どうしても話についていけなくなってしまうのである。