modus operandiの省略形
これはプロの手口だ。
そういう言い方をよく耳にする。
どこを見てそう判断するのか。
それを判断するのもまたプロであろう。
ミュージシャンのせよ、編集者にせよ、泥棒にせよ、ハウスメーカーにせよ、医者にせよ、スポーツ選手にせよ、商売人にせよ、まあ、なんにせよ、プロの手口があって、それがわかる。
何かルールがあって、そこをはずすにしてもうまくはずさなければ失敗するぎりぎりの線のようなものがあるのかもしれない。
素人ならどうしても見落としてしまうようなところをこっそりと押さえてある。
対象に共通するどうしてもそうなってしまう性質やら、その扱い方がわかっているのである。
ルール違反にはペナルティが待ち受けているわけだが、天才は、新しいルールを思いつく。
どんなルールも完璧ではない。
一見素人のように見えて、さらに深い根底でルールを堅持しながら、それまでのルールを書き換えてしまう。
それがいわば天才だ。
ビートルズのイエスタディを聴いたプロミュージシャンたちは、なんとそんな手があったかと悔しがったらしい。
簡単な曲なのに誰も思いつかなかったというわけだ。
イチローもしかり。
おそらく徹底して研究されていることだろう。
1920年代の記録はルールも違えば試合数も違う。
そこら当たりは変化しても打撃のフォーム(基本形)は、違わない。
体の使い方が違うのである。
投法の進化もあれば守備技術も向上しているのだからそこを切り抜けるのに80年を要したということなのだろう。
写真技術や映像技術や表現法も同じ。
阿佐田哲也(=色川武大)は、プロには基本形があると指摘している。
ころころ変わったり、そこを崩されたりすると目的が達成できない。
フォームの崩しあいがプロ同士の戦いとなる。
フォームを始め最低限のルールのレベルでは勝敗がつかないので、一瞬の不注意が決め手になる。
不注意は自信が足りないことから来る。
自信を身につけるために、無用とも思える練習を重ねる。
実際、にわかに何かができなくなるということはないので、しばらく間を置いてもフォームがどうこうなるわけではない。
しかし、いざという瞬間に咄嗟の対応ができない恐れが出てしまい、その一瞬の差が勝敗を分ける。
ルールどおりにやっていればマンネリになる。
型が形式に膠着してしまうと素人と変わらない。
思わぬ手口を思いつくことができたり、それに対応できたりするのは見た目にマンネリに見える基本形の反復練習に裏打ちされているのである。
マンネリの最悪の形は常習犯であろう。
清水何某や田代何某が「犯罪」をやめられないのは周知となったが、世の犯罪者はほぼすべてこの点の学習能力を欠く。
反省ということをやらない。
繰り返して犯罪の「プロ」となったものは、にわかにそのフォームを捨てられない。
学者だってそう。
自分流の研究を推し進めて遠くまで来てしまったのだから、それを方向転換したり、元に戻ったりすることはとても出来ることではないと思い込むにいたる。
だから研究の前提に疑いを投げかけられることを嫌う。
アインシュタインですらそうだった。
運動選手ならば、筋力をつけるトレーニングをするようなもので、自分を変えない。
今ある手材料でその使い方を変える。
それで同じ結果を出す。
イチローはそうではないかと思う。
本数は200だが、内容が違う。
この辺が米国の人たちにもわかってくれば、野球理論と実践もまたさらに進化を遂げる余地がある。
合法的にそれと知られないままに犯罪と同じ結果を生むようなMOが登場すればそれは完全「犯罪」であろう。
世の中には案外沢山あるのではないか。
ルール指向(思考・志向)のある限り、その違反や例外は必ず出てしまう。
石川五右衛門の指摘どおりである。
私は何のプロでもなくMOも持ち合わせていないので、逆にそのありかが見やすいという逆説を感じている。
ニュートラルコーナーにぽつんと存在しているのである。
だからどうということは何もない。
これはプロの手口だ。
そういう言い方をよく耳にする。
どこを見てそう判断するのか。
それを判断するのもまたプロであろう。
ミュージシャンのせよ、編集者にせよ、泥棒にせよ、ハウスメーカーにせよ、医者にせよ、スポーツ選手にせよ、商売人にせよ、まあ、なんにせよ、プロの手口があって、それがわかる。
何かルールがあって、そこをはずすにしてもうまくはずさなければ失敗するぎりぎりの線のようなものがあるのかもしれない。
素人ならどうしても見落としてしまうようなところをこっそりと押さえてある。
対象に共通するどうしてもそうなってしまう性質やら、その扱い方がわかっているのである。
ルール違反にはペナルティが待ち受けているわけだが、天才は、新しいルールを思いつく。
どんなルールも完璧ではない。
一見素人のように見えて、さらに深い根底でルールを堅持しながら、それまでのルールを書き換えてしまう。
それがいわば天才だ。
ビートルズのイエスタディを聴いたプロミュージシャンたちは、なんとそんな手があったかと悔しがったらしい。
簡単な曲なのに誰も思いつかなかったというわけだ。
イチローもしかり。
おそらく徹底して研究されていることだろう。
1920年代の記録はルールも違えば試合数も違う。
そこら当たりは変化しても打撃のフォーム(基本形)は、違わない。
体の使い方が違うのである。
投法の進化もあれば守備技術も向上しているのだからそこを切り抜けるのに80年を要したということなのだろう。
写真技術や映像技術や表現法も同じ。
阿佐田哲也(=色川武大)は、プロには基本形があると指摘している。
ころころ変わったり、そこを崩されたりすると目的が達成できない。
フォームの崩しあいがプロ同士の戦いとなる。
フォームを始め最低限のルールのレベルでは勝敗がつかないので、一瞬の不注意が決め手になる。
不注意は自信が足りないことから来る。
自信を身につけるために、無用とも思える練習を重ねる。
実際、にわかに何かができなくなるということはないので、しばらく間を置いてもフォームがどうこうなるわけではない。
しかし、いざという瞬間に咄嗟の対応ができない恐れが出てしまい、その一瞬の差が勝敗を分ける。
ルールどおりにやっていればマンネリになる。
型が形式に膠着してしまうと素人と変わらない。
思わぬ手口を思いつくことができたり、それに対応できたりするのは見た目にマンネリに見える基本形の反復練習に裏打ちされているのである。
マンネリの最悪の形は常習犯であろう。
清水何某や田代何某が「犯罪」をやめられないのは周知となったが、世の犯罪者はほぼすべてこの点の学習能力を欠く。
反省ということをやらない。
繰り返して犯罪の「プロ」となったものは、にわかにそのフォームを捨てられない。
学者だってそう。
自分流の研究を推し進めて遠くまで来てしまったのだから、それを方向転換したり、元に戻ったりすることはとても出来ることではないと思い込むにいたる。
だから研究の前提に疑いを投げかけられることを嫌う。
アインシュタインですらそうだった。
運動選手ならば、筋力をつけるトレーニングをするようなもので、自分を変えない。
今ある手材料でその使い方を変える。
それで同じ結果を出す。
イチローはそうではないかと思う。
本数は200だが、内容が違う。
この辺が米国の人たちにもわかってくれば、野球理論と実践もまたさらに進化を遂げる余地がある。
合法的にそれと知られないままに犯罪と同じ結果を生むようなMOが登場すればそれは完全「犯罪」であろう。
世の中には案外沢山あるのではないか。
ルール指向(思考・志向)のある限り、その違反や例外は必ず出てしまう。
石川五右衛門の指摘どおりである。
私は何のプロでもなくMOも持ち合わせていないので、逆にそのありかが見やすいという逆説を感じている。
ニュートラルコーナーにぽつんと存在しているのである。
だからどうということは何もない。