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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

M O (手口)

2014年03月23日 | Weblog
 modus operandiの省略形

 これはプロの手口だ。

 そういう言い方をよく耳にする。
 どこを見てそう判断するのか。
 それを判断するのもまたプロであろう。

 ミュージシャンのせよ、編集者にせよ、泥棒にせよ、ハウスメーカーにせよ、医者にせよ、スポーツ選手にせよ、商売人にせよ、まあ、なんにせよ、プロの手口があって、それがわかる。
 何かルールがあって、そこをはずすにしてもうまくはずさなければ失敗するぎりぎりの線のようなものがあるのかもしれない。
 素人ならどうしても見落としてしまうようなところをこっそりと押さえてある。
 
 対象に共通するどうしてもそうなってしまう性質やら、その扱い方がわかっているのである。 
 
 ルール違反にはペナルティが待ち受けているわけだが、天才は、新しいルールを思いつく。
 どんなルールも完璧ではない。
 一見素人のように見えて、さらに深い根底でルールを堅持しながら、それまでのルールを書き換えてしまう。
 それがいわば天才だ。

 ビートルズのイエスタディを聴いたプロミュージシャンたちは、なんとそんな手があったかと悔しがったらしい。
 簡単な曲なのに誰も思いつかなかったというわけだ。

 イチローもしかり。
 おそらく徹底して研究されていることだろう。
 1920年代の記録はルールも違えば試合数も違う。
 そこら当たりは変化しても打撃のフォーム(基本形)は、違わない。
 体の使い方が違うのである。
 投法の進化もあれば守備技術も向上しているのだからそこを切り抜けるのに80年を要したということなのだろう。
 
 写真技術や映像技術や表現法も同じ。
 
 阿佐田哲也(=色川武大)は、プロには基本形があると指摘している。
 ころころ変わったり、そこを崩されたりすると目的が達成できない。
 フォームの崩しあいがプロ同士の戦いとなる。
 フォームを始め最低限のルールのレベルでは勝敗がつかないので、一瞬の不注意が決め手になる。
 不注意は自信が足りないことから来る。
 自信を身につけるために、無用とも思える練習を重ねる。
 実際、にわかに何かができなくなるということはないので、しばらく間を置いてもフォームがどうこうなるわけではない。
 しかし、いざという瞬間に咄嗟の対応ができない恐れが出てしまい、その一瞬の差が勝敗を分ける。

 ルールどおりにやっていればマンネリになる。
 型が形式に膠着してしまうと素人と変わらない。
 思わぬ手口を思いつくことができたり、それに対応できたりするのは見た目にマンネリに見える基本形の反復練習に裏打ちされているのである。

 マンネリの最悪の形は常習犯であろう。
 清水何某や田代何某が「犯罪」をやめられないのは周知となったが、世の犯罪者はほぼすべてこの点の学習能力を欠く。
 反省ということをやらない。
 繰り返して犯罪の「プロ」となったものは、にわかにそのフォームを捨てられない。

 学者だってそう。
 自分流の研究を推し進めて遠くまで来てしまったのだから、それを方向転換したり、元に戻ったりすることはとても出来ることではないと思い込むにいたる。
 だから研究の前提に疑いを投げかけられることを嫌う。
 アインシュタインですらそうだった。

 運動選手ならば、筋力をつけるトレーニングをするようなもので、自分を変えない。
 今ある手材料でその使い方を変える。
 それで同じ結果を出す。
 イチローはそうではないかと思う。
 本数は200だが、内容が違う。
 
 この辺が米国の人たちにもわかってくれば、野球理論と実践もまたさらに進化を遂げる余地がある。

 合法的にそれと知られないままに犯罪と同じ結果を生むようなMOが登場すればそれは完全「犯罪」であろう。
 世の中には案外沢山あるのではないか。

 ルール指向(思考・志向)のある限り、その違反や例外は必ず出てしまう。
 石川五右衛門の指摘どおりである。

 私は何のプロでもなくMOも持ち合わせていないので、逆にそのありかが見やすいという逆説を感じている。
 ニュートラルコーナーにぽつんと存在しているのである。
 だからどうということは何もない。

同語反復

2014年03月23日 | Weblog
 たとえば、なんでもいいが、『冬ソナ』はどこがどういうふうによかったのか説明してみてほしい、と聞かれても、たいていは、「いいものはいい」「好きなものは好きなんだ」・・・こういうのを同一律(A=A)とかいったか。
 これには反論の仕様がない。
 社会主義ソビエトのスターリンが好んで用いた手法であり、神学教理問答の手口である。
 それはさておき、ここがこうだからこういうふうに、とか私にとってはこういうところがこう思えてよかったなどなど解説していくと、あるいは分析したり、講釈を並べたりしていくと、面白味が半減してしまったりすることが少なくない。

 料理などはその典型。
 素材や調理法の講釈を聞かされたり、カロリーがどうのこうのといわれるうちに肝心の食欲がうせてしまう。
 性交の際に、解説し会う男女の姿を思い浮かべていただきたい。
 ここがこうで、あそこがこうだからこうするとああだ・・・うるせえなぁ。
 ある研究によるとだの医学的にはだの歴史的にはだの・・・勝手にやってくれ。
 
 料理でも音楽でも映画でも小説でも、よいものは理屈ぬきによい。
 そこの理屈が見えるようでは、いまいちなのだ。
 それを味わい、これを楽しめればそれでいいじゃないか。
 おいしいものはわけもわからずおいしい。
 美しいものは御託抜きにいきなり美しく、魅せられてしまう。
 
 よいもののよさをを説明するのにそれとは違うものを持って来ても、まさしく筆舌に尽くせず、絶句を余儀なくされる。
 語ればかならず語るに落ちる。
 食い物ならば、それは理屈抜きに肉体が根源から欲求しているのであって、他のものでは、けしてみたされることはない。

 つまりほしいものがほしい。

 かように同語反復構造、アナロジーシステムが対象そのものかそれを欲する主体か、その両方かに内在している。

 ある意味で、その構造に苛立ち、退屈、飽きを覚え始めたならば、そこに新たな創造の契機が姿を垣間見せることになる。
 とはいえ、新しい地点に着地したとたんに同語反復が始まることになるわけだが。
 そういうわけで、1週間のうちに何本も全米ナンバーワンの映画が登場することになるのかもしれない。

 しかし、
 奇妙なことに、
 「その本どうだった」
 「面白かった」
 で終わってしまうやり取り自体に苛立ちを覚えるのも確かなのである。
 したがって、それを解説すること自体が、もはや、新たな創造行為となる。
 それは、美しい風景という本体を描写、あるいは模写する営みにかぶせてみればわかりやすい。
 そこに素晴らしい絵画が生まれ、それを解説する見事な評論が生み出され、・・・同じ出発点から同じ路線で異なる名前を持つ駅を通過していくようなことが延々と続くわけである。
 そしてユーモアや諧謔はその路線から少しばかり気まぐれに外れる余地を与えてくれるのである。
 その路線でなければ絶対にいけないと固執すれば、それは信奉者(ビリーバー)になる。
 それが、少なくとも私には面白くないのだけは確実である。
 だから、同語反復の必然を受け入れつつも、たまには破天荒にずれる、ときどきは「美は乱調にありて」だ。

I hear

2014年03月23日 | Weblog
 後ろに音が続けば「聞こえる」
 事実が続けば「聞いて知っている」つまり、伝聞をあらわす。

 聞く意志をもって聞く、耳を傾ける場合は、listen toという。

 街中で暮らしていると、周囲に音があるのが日常で、四六時中何かの音が「流れている」
 それにあわせて耳は音を捉える態勢をたえず準備しているようなのである。
 意識の上では、意志をもって聞いているつもりではないから、音が「聞こえる」という受身の言い回しをする。
 しかし、意識をしていなくても、あるいは聞き取る意志を持っていなくても音の方からどんどん耳の中に入ってくる。
 それに応じて耳が勝手に、いわば、独立に意志を持って音を聞き取ろうとしている。

 逆もある。

 耳を耳が勝手にふさいでいることもある。
 全部を集音していたら身が持たないからである。
 環境が違えば過敏に反応しかねない音が周りに横溢、充満しているにもかかわらず。
 この場合は、「聞こえない」というより「聞かない」に近い。

 だからI hearを「聞こえる」といっても、たしかにそれはそうなんだが、本来の聞こえるではないような気がするのである。

 というのも、全く音のない、人工の音のない場所に行くと、何も聞こえないのではなくて、耳は音を探して過剰に活動を始めるのである。

 耳鳴りがする。

 騒音のない世界で暮らしていれば、耳は文字通り受身の姿勢で音を拾うであろう。
 これが本来の聞こえるだ。

 ま、しかし、耳は、もしかしたら受動的器官じゃないかもしれない。
 
 次に、

 いわゆる情報、事実が続く場合、

 耳に聞こえるのが土台であっても、その結果として、その事を知っている、記憶に留め持っているという意味になる。

 hear ofという場合と同様、うわさとして聞き知っていることになる。

 聞くつもりはなかったが耳に入ってしまったのである。
 
 うわさを自分のうちに収めて、動じるところがない間は、I hearのうちであろう。

 が、うわさに牛耳られてしまうと、

 The roumour has it
 
 となる。

 うわさには根拠はない。根も葉もない。
 が、タネにはなる。

 それによって人が動揺する情況もないわけではない。
 偽札に似ている。
 持てば使いたくなるのだろう。
 そのつもりはなかったはずなのに、耳に入ると人を変えてしまう。
 
 ま、しかし、瓢箪からこまが出ることもないわけではない。

 それに聞く意志をもって聞いた話が本当とばかりは限らない。

 あれこれ考えていると、I hearというのも、なんだかよくわからなくなってしまうんであった。

 ・・・・・
 
 もっとも、
 あんまり真に受けないでいただきたい。

和英辞典を読んでいて

2014年03月23日 | Weblog
 まずは、知りたい言い回しが少しも出てこないということに気がついた。

 次に、確かにその言い回しが見出し語に収録されているが、使用されている場面やら紹介されている英語が私の語感に響いてこない。
 よくわからないが、それじゃあないぜという感じがする。
 
 そのうち、もしかしたらそれに相当する英語はないのかもしれないという気がしてきた。

 たとえば、

 「懐かしい」

 こういう情緒は英語にはないのかもしれないとまではいうつもりはないが、一語の形容詞でそれに相当するものはないような気がする。

 nostalgic(ノスタルジック)は、日本語になっているが、これは、いわば一種の病気だ。

 そういう雰囲気をかもし出す為に、

 looking back onやI rememberやwould oftenなんてのをそえることもあるが、過去に何となく愛着があるといった雰囲気は出しにくい。
 その場の情況から、それとなく伝わるだけであろう。

 もっとはっきりと「昔にもどりたい」「あのときああだったら」と、I wishやIf onlyなんてのをくっつけると日本語の感覚では強すぎる。

 「ぼつぼつ」なんてのもそうか。

 こういう宙ぶらりんな言い回しが英語にないわけではない。

 wishy-washyだのnon-comittallyなんていえば、どっちつかずということを「はっきりと」言うことになる。

 そう。

 英語にははっきりといってしまう癖があるな。

 映画Shall we dance?のリメイク版でも、第三者を通して妻に気持ちを打ち明けるのではなく、直接公然と人前で、「私と踊ってください」と本人が本人に申し込む。

 これは、なんとなく、禁忌(タブー)ということに関係していると思われるのだ。

 辞典に収録されている語彙は、日本語の編集側の視点や都合(ビジネス用、学術用、など)もあれば、英語になるかならないかということなども無意識下のうちに選別的に作用していて、こちらがほしい言い回しを生の形で日本語の語感でイメージしていると、少しもヒットしなかったりするのであろう。

 そして、その背後にはタブーがある。

 タブーというのは、潜在的か顕在的かを問わず、「やってはいけない」というブレーキがかかることを指すと考えてみよう。

 やってもいいよといわれて、出来るようなら、それはタブーではない。
 それどころか命令されても、体が言うことを聞かない、麻痺したようになってしまうような事柄なのである。
 むろん、背に腹を変えられないということで、思い切ってやる場合もあるだろうが、個人差は横に置くとする。

 まあ、最終的には何でもしでかしかねないところが人間にはあるが、そうなったら、それはもう人間の範疇ではなくなるのかもしれない。

 「てめえら、にんげんじゃねえや」

 破れ傘刀舟のせりふじゃないが。

 人間じゃないからといって即叩き切ってよいということになるわけでもないが気持ちはわかる。

 ともあれ、意識の上でか無意識のうちにか、閉じられた扉と開かれた扉があって、閉ざされた側は、やがて無意識に壁とみなしてすごしている。
 そこが開いたりすると、ビックリ仰天というわけだ。
 そもそも開いてはいけないと思いなしているから、開いてもすぐには向こう側へ行こうとは思わないし、まずは扉を閉ざそうとするであろう。
 そういう扉をタブーと見れば、好き嫌いなどもそこに関係してくるはずである。

「そいつをいっちゃあおしめえだ」

 フーテンの寅さんのせりふじゃないが、そのあたりに何となく境目はよく見えないが、タブーが潜んでいる。

 こういうふうに言葉になる類のタブーはまだしもわかりやすい。

 言葉にならないうちに規制されてしまっている言い回しのようなもの、場合によっては積極的に推奨された言い回しによって、他をそれと知らないうちに切り捨てている言い回しがある。

 これをたとえば日本語の中から探し出すとしたら大変だが和英辞典という形で外国語と対照していけば少しばかり見通しやすくなる。

 原書を読んでいても、いわゆる間違った表現は随所に出てきて、登場人物が外国人だったらそれが自然である。
 それでも滞りなくコミュニケーションは進んでいく。
 どこかで変な禁止された言い方が出てきても、それは外国(foreignまたはalien)だからタブーの種類が違うということで見過ごしにする。

 そのうち新しい世代が進んだ情報伝達システムとともに、間違いを普及させていき、偽札同様流通すれば本物(扱い)となるように、タブーもまた解除されていく。

 新しい世代は、この世に登場した「外国人」だからである。

 この扉は、閉じているからよいとか開いているからよいという性格のものではない。
 
 あばたもえくぼ。

 恋は盲目。

 閉ざされているから好きなのかもしれないし、反対に開いていて見えるから嫌いになるのかもしれないからである。

 開き方や閉ざされ方は全く恣意的にも見えるが、共通した規則があるようにも見える。

 こういうことは翻訳に伴う困難とも共通していて、ある表現から喚起されるイメージそのものが、全く異質な場合には、実は翻訳はできず(扉は閉ざされたままで)、開いている扉を通して翻訳しても、それは別物になる。
 
 有名な例ではあるが、人食い人種という言葉がわかったからといって人食い人種になるわけではない。
 さりとて、それでは本当に人食い人種とは何かがわかったわけでもないし、人を食い始めたら、その言葉を対象化して見ることはもはやできない。

 丁寧に外国語に取り組む為には、どうしても、このタブーのありかについて探って見る必要がある。
 これは卵が先か鶏が先かという問題と同じである。
 
 私の場合、必要に迫られて英語で読むということはあって、それはそれなりに読むうちに面白味も出てくることもあるし、舌なめずりしながら楽しみで読みたいものを読むこともあるが、安易に話したり書いたりということは、何となくやりにくい感じがしてきている。
 いや、自分に向かって言えば、それはいささか軽率にしておろかな所業であると思われるのである。
 発信すべき内容や内から突き上げる欲求も、ことさらにない。
 それならば日本語で済ませたい。

 むろん、やむなく書いたり話したりすることはないわけではない。
 しかし、それが野球で言う暴投やビンボールになるのは言うまでもなくボール球になるのも嫌なのである。(間違いを恐れるというのとは違うので念のため)

 翻訳小説のおかげでお楽しみが沢山あるのは嬉しいくせにわがままを言えば自分はすすんで翻訳はやりたくない。(誰からも頼まれないから言わずもがなのことではあるが)
 まあ、自分は棚に上げて他をそしる(というのでもないが)のは、なんと言ってもお気楽で、それを公にとうて非難するのでもなければ、いわば、隠微なお楽しみとでもなろうか。
 和英辞典を読んでいて、

 「つかえねえな」

 などと、ひとりごちているわけである。

混読

2014年03月23日 | Weblog
 併読というのは一発変換できるが、これはできない。
 だから造語である。
 混浴ならば辞書登録されているが、混読は、やっぱし、新語であるな。
 併読というのは、異なるジャンルの本を同時進行的に読む場合に使うのであろう。
 だから、頭の中でストーリーやら何やらが混ざり合うことはない。
 これは昔からよくやっているので慣れっこである。
 しかし、同じジャンルの似たような話を同時進行で数冊読んでいると、話が混線してしまいかねない。
 たとえば、
 子供の誘拐やら保険金詐欺やら連続殺人やらスパイものやら法廷サスペンスやら同種のテーマを素材にした小説を同時に読み始めると、どこかで話が相互に乗り入れてしまうようだ。
 もっともそれが原書と翻訳だと混線が生じないというのは不思議である。
 ま、それはさておき、
 そういうわけで実験的にテーマや舞台の違うものを同時に読み始めたというわけ。
 しかも本ごとに読む場所も変えるようにしてみた。
 混線はないが元の話に戻るのに時間が少しかかってしまう。
 所詮、読む速さには限度がある。
 読みたいものをまとめて読んでやらうなどと、
 あんまり欲をかくものではないな。