誰だって「こいつは面白え」と思ったものは、こっそり真似して人に伝えるものだろう。
今のような娯楽のなかった時代にはその時代の娯楽があったわけで、山田風太郎は「講談読み物」に読み耽った子どもだった。
漫画を読み耽った子供が漫画を描くようになるのと同じで、山田風太郎は、自分が読んだ読み物に「こうしたらもっと面白くなるじゃないか」というスパイスや調味料を施して自らも小説を書くにいたった。
私も偶然に親父が昔読んだその手の読み物を子供のころ読み知っていたので、その面白さがよくわかる。
今ならパソコンゲームでオリジナルストーリーの作れるタイプに似ていなくもない。
しかし自分が紡ぎ出す空想や妄想よりも魅力があるから人の作った枠組みでゲームをやるのだろう。
山田風太郎はそういうことが抜群にうまいプログラマーなのである。
ただもう夢中で遊んでいるうちに、結果として何十冊もの本が出来上がってしまったので、吉行淳之介のように呻吟して文章を捻り出したのではないという話もよくわかる。
今ならこの本はちくま文庫にでも入っているのだろうか。
「う~ん、有名すぎるから僕は読みたくない」と言っていた知り合いも、どうやらこの本がきっかけになってはまってしまったらしい。
時折、「今何読んでいるの?」と尋ねると、「また風太郎を読んでしまったよ。」と悔しそうに言う。
重ねて、「忍法帖では、甲賀とあれだね。エッセイよりもやっぱり小説だね。」などと言う。
なんだ、結局全部読んでしまったんじゃないか。
日本のミステリーやハードボイルドに説得力が薄いのは、拳銃の存在の有無ではないかと考えている。 現在の日本では銃刀法による規制が敷かれていて、これは刀狩に等しい。 これにより乱世が終了したのは事実であるが。
結果、日本では、まだしもリアリティがあるのは時代小説であり歴史小説ということになる。 距離を置けばかなり自由に物語を作れるのである。 とはいえ、室町から明治あたりまでだろうか。 それより前も後もうまく距離感がつかめないようだ。
だから私は時代小説を読んだのだった。
今のような娯楽のなかった時代にはその時代の娯楽があったわけで、山田風太郎は「講談読み物」に読み耽った子どもだった。
漫画を読み耽った子供が漫画を描くようになるのと同じで、山田風太郎は、自分が読んだ読み物に「こうしたらもっと面白くなるじゃないか」というスパイスや調味料を施して自らも小説を書くにいたった。
私も偶然に親父が昔読んだその手の読み物を子供のころ読み知っていたので、その面白さがよくわかる。
今ならパソコンゲームでオリジナルストーリーの作れるタイプに似ていなくもない。
しかし自分が紡ぎ出す空想や妄想よりも魅力があるから人の作った枠組みでゲームをやるのだろう。
山田風太郎はそういうことが抜群にうまいプログラマーなのである。
ただもう夢中で遊んでいるうちに、結果として何十冊もの本が出来上がってしまったので、吉行淳之介のように呻吟して文章を捻り出したのではないという話もよくわかる。
今ならこの本はちくま文庫にでも入っているのだろうか。
「う~ん、有名すぎるから僕は読みたくない」と言っていた知り合いも、どうやらこの本がきっかけになってはまってしまったらしい。
時折、「今何読んでいるの?」と尋ねると、「また風太郎を読んでしまったよ。」と悔しそうに言う。
重ねて、「忍法帖では、甲賀とあれだね。エッセイよりもやっぱり小説だね。」などと言う。
なんだ、結局全部読んでしまったんじゃないか。
日本のミステリーやハードボイルドに説得力が薄いのは、拳銃の存在の有無ではないかと考えている。 現在の日本では銃刀法による規制が敷かれていて、これは刀狩に等しい。 これにより乱世が終了したのは事実であるが。
結果、日本では、まだしもリアリティがあるのは時代小説であり歴史小説ということになる。 距離を置けばかなり自由に物語を作れるのである。 とはいえ、室町から明治あたりまでだろうか。 それより前も後もうまく距離感がつかめないようだ。
だから私は時代小説を読んだのだった。