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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

視聴率 続き

2014年03月23日 | Weblog
視聴率というのは、宣伝を土台において測定しているので、瞬間だけでも見てもらえたら成功なのである。
 そのためにはアイ・キャッチが重要になる。
 
 一度、代行でビラを作成したことがある。
 いわば、代筆だから中身はないのは承知している。それでも少し削除して、文字のタイプを変更してやった。
 手にとって読む人間の数がぐっと増えたことは言うまでもない。
 しかし、その文字のタイプが気に入らなかったらしく、そのとき限りだったが。

 ローレンス・ブロックは、書いたものを作家仲間に読んでもらうと、どこかで書いていた。
 結局、きちんと読めるのは、そういうものに限られてしまうのだろう。
 もちろん、一般読者を忘れているわけではないことは言うまでもないが。
 視聴率同様、ベストセラーも「売れた」という事実だけを表示していて、それが積読なのか、読まれたけれど誤読されているか、などなどといったことはわからない。
 そこで話は前節に戻るが、本の値打ちも古本になって初めて少し見えてくるのではなかろうか。
 テレビなら幾度か再放送をして、なお見たい人が大勢いるならば、それは本当に優れたものなのではないか。
 そんな気がするのである。
 そして皮肉な逆説だが、本当によいものが書ける少数の作家を理解する読者の数も必然的に少数だということになるのではないだろうか。

 むろん、人気がないからいいということにはならないが、あるからといって、いいということにもならないのである。

 そういうわけで、私は古本が好きだし、その中でもずらりと並んだものには基本的に食指が動かないのである。
 木の葉の陰に身を潜めて黙って静かにしていてるような珍しいのを見つけるのが楽しいのだ。

視聴率 続き

2014年03月23日 | Weblog
ほかにも、家庭教師に辿り着くまで色々のバイトをしたが、冒頭のテーマに戻っていうならば、チラシ撒きのバイトの話になる。

 商業広告から選挙のキャンペインにいたるまで、あちらこちらでチラシを撒いた。
 金にはならないが、ついでに、大学の自治会選挙のチラシまで撒いてやった。

 そこで視聴率の話だが、まずは、チラシを受け取らない。つまり、テレビのスイッチを入れない人がけっこういる。
 (ジョージ・オーウェルが『パリ・ロンドン放浪記』で、「だから、私は必ずチラシを受け取ることにしている」というようなことを書いていたが、それはその苦労がわかるからだというのである。私は、苦労はわかっても、やっぱり、受け取らないことのほうが多い。オーウェルは、少し嘘を書いていると思うのだ。)

 スイッチを入れても時計代わりにしか使っていなかったりする。
 つまり、チラシを受け取っても中身は読まない。
 なぜ、それとわかるか。
 その場に捨てていってしまうからである。
 捨てるなら最初から受け取るなよ。
 そう言いたくなる。
 ゴミ箱に投げ入れるならまだよいが、そのままその場に捨てる。
 そういう人は、おそらく自宅の中もゴミの山なのだろう。
 雨に濡れ、風に飛ばされて近所の迷惑になる。
 しかし、それを追いかけていって拾うところまでは、私の仕事ではないし、そこまでやれる時間はない。
 せいぜい足元に散逸したものを始末する程度だ。
 印刷代や紙代を考慮すれば、ティッシュペイパーにしたのは、この意味では、悪くないアイデアであろう。
 しかも効果もあるようだ。
 金融屋の電話番号が間違っていて、日に300も400も間違い電話があったというからだ。
 これはチラシの時計的利用法だが、同時に中身のシンプルな伝達には有効であろう。

 選挙ビラは、話が別だ。
 中身を読んでもらわないと意味がないし、私見だが、たいがいは読みにくくアピールもしない。工夫が見られないのだ。
 それでも読む人は読む。
 あるチャンネルにあわせていても、居眠りしている人もいるだろうし、ほかの用事をしていて見ていない場合もある。
 見ようというつもりでちゃんと見る人の割合はどれくらいのものだろうか。
 スポンサーは、コマーシャルが命だから、大変に工夫を重ねる。
 ドラマ等でも間の宣伝になるといくらか音量が上がる。これなどはあまりにあざといやり口で却って反感をもたれてしまうであろう。
 大久保利通の言う「下手のディプロマシイ(外交術)」である。
 まあ、経験から言わせてもらうと、中身に目を通すのはせいぜい100人に一人だ。
 それでも大成功で、アイ・キャッチ、手にした人の目は引いても、きちんと読んで賛否両論にまで持ち込めるのは1000人に一人、1万人に一人かもしれない。
 桃李物言わねば、そのまま朽ち果てる。
 と、言いたいところだが、中身がないからこそ宣伝をやるのである。
 実際、私が、配ったビラを、私なりに要約すれば、3行ですんだ。
 人間はおおむね、面倒なことは考えたくないのだ。そこに保険屋をはじめとする代行業がつけ込む隙がある。
 ま、それはさておき、テレビという媒体そのものが話を単純にするシステムなのである。
 この意味では、人間をよく知る巨大詐欺システムでもある。
 勝海舟が明治の新聞を評して言った通り、自分のように裏が読めるのが読めばかまわないが、ワカランチンに読ませるものじゃあない、というわけだ。
 確かに全部は書けないし、書いても読まれないだろう。

視聴率

2014年03月23日 | Weblog
 学生時代のアルバイトで、なんといっても一番コスト・パーフォーマンスが高かった、つまりおいしかったのは家庭教師だ。

 座って子供が勉強する姿を見つめていればそれですむし、食事やおやつまで付いてくる上に足代やボーナスまでつけてもらえたからである。

 一人ではお勉強が出来ない子供が、毎週決まった時間は勉強するのだから、必ず成績は伸びる。
 それに伴う、いわば、成功報酬がいただけるというわけだ。

 もちろん家庭によって事情は異なるから一概には言えないが、私の場合、必ず相手の言い値で引き受けたので、同じ時間やっても実入りの方はずいぶん違いもあった。

 しかし、その他のバイトを経験してきたならば決して文句は言えない、どころか、このようなことでこんなにお金を頂いて申し訳ないという気持ちが先に立った。

 もっとも、鳥の巣が落ちていれば卵は遠慮なく存分にいただきはしたのだが。

 コンサートのチケットをもらったり、会社で作っている製品を頂いたり、本を頂いたり、お風呂を使わせてもらったり、朝食までご馳走になったりもしたし、日常生活品やら衣服に至るまで頂いたりもしたし、食事会に招かれたり、ま、逆に、こちらが子供を連れて出かけたり、ご父兄を大学に案内したりということもあったが、基本的には世話になったほうがはるかに大きい。

 親が直接見てやればいいではないかという俗説も有力だが、私は、ほぼ絶対にそうではないと考えている。

 親ならば毎日子供が見ていて、接していて、大切なことは逐一申し付けなくても何時の間にか吸収しているし、それができなければ、あっさり他人の手を借りるということは少しも悪いことではなく、むしろそうしたほうがいい。
 子どもとそう年が違わないという点も悪くない。
 いくらかの金で済むことならお安い御用なのである。
 親子の間では、互いに気ままがでてしまう。誰よりも長い付き合いで互いの手の内がわかっているからやむを得まい。

 それに、大家族という形で両親以外の人間の関与がなくなってしまった以上、外の人間との直接的な接触が得られるという価値は小さくはない。
 たとえ、反面教師であったとしてもだ。

 それでかえって、家庭のすばらしさがわかったり、また外の世界に目が向いたりするのもよいことである。

 蜂が蜜をもらって受粉のお手伝いをするようなものだ。
 (もっとも、家庭教師が娘に手を出すというのは、あまりいただけない話だが)

波乱万丈係数

2014年03月23日 | Weblog
 「波乱万丈」というものを数量化することは出来るのだろうか?
 グラフに描けば、文字通り波状の曲線を描くことになるのだろう。
 その場合の変数は、一通りではなかろうが、横軸に時間をとることくらいは確かだろう。
 縦軸は人生の浮き沈み。
 浮き沈みの中身は何か?
 ・・・
 変数が多すぎて面倒すぎる。
 
 ただ、上下しない直線状態を平静と言ってよいと思うが、それを望みながらそれを嫌うというところが厄介である。

 また、数量化できてグラフ表示もできたとして、それを眺めていても面白くもなんともないだろうな。
 
 しかし、

 グラフにしてしまえばパターンどおりのつまらない波形を描いていてもそれを物語りにすると飽きもせず読んだり見たりできるというのは、まことに不思議である。

 実は、再生も反復もありえない一回性の事象については数量化は意味がないのである。

回想録

2014年03月23日 | Weblog
 ロバート・マキャモンの『少年時代』、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』マイクル・クライトンノ『インナー・トラヴェル』など、誰しも人生のどこかの段階で、それまでの人生を振り返るということをやりたくなるもののようであり、それを事実に即して書き記すか、物語に仮託して記すかはそれぞれである。

 それがどういう心の働きなのかは分からないが、山登りになぞらえて言えば、
 のぼりの途中で、ときおりどこまで上ったかを確認したくなるような気分だろうか。
 あるいは、頂上までたどり着いて見下ろすような、景観を楽しむような心持だろうか。

 くだりでは、見上げるべき頂上はない。
 ただもうみおろすばかりである。

 あるいは樹木に妨げられて視界をさえぎられ見通しがよくなかったのが、どうにか少し見晴らしの利く地点に出たような感じだろうか?
 
 功なり名を成した時点で書く人。
 没後に日記が公開される人や晩年に過去の日記を紹介する人。
 
 今後の方針を定めようとして、後世への教訓として、自らの存在の証明・証拠として。

 もちろん黙って山に登り一人景観を楽しみ静かに下りる人もいる。
 
 読まれて困ることもあるかもしれない。
 読まされて意味のないことばかりかもしれない。

 が、書き記した人自身がそれで変わる。
 いわば、一種の修行か。