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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

川路利良(かわじとしなが)

2014年03月23日 | Weblog
 初代警視総監

 司馬遼太郎の『翔ぶが如く』にでてくる。
 慎重派の大久保利通に警察制度の導入を進言し、即座に(たちんこんめ)受理されたというエピソードや欧州刺殺の折の恥ずかしいハプニングが紹介されている。

 その心得書きに

 「犯罪者は犯罪者らしからぬ面相をしている」

 というようなものがあるらしい。

 強面のいかにも悪党面しているのは案外無害だというのである。

 誰の指摘だったか、欧州人は善人か悪人かの区別が容貌だけでは判断しづらい。
 どちらにもなりうる顔つきをしている。

 というのがあったが、これは世界中どこでもそうではないか。

 ま、それはともかく、先の洞察を川路はもしかしたら、欧州視察の間に身につけたのかもしれない。

フルタ

2014年03月23日 | Weblog
 大阪市生野区林寺に本社のある製菓会社の名前だ。
 ここのチョコレートは安価でうまい。
 各種取り混ぜたお徳用袋から特化されたシリーズまでお気に入りである。
 ビールなら1リットルもあれば最低3年は持つが(飲まないので)フルタのチョコレートでは3時間がせいぜいであろう。
 メリーズとかいうのを横浜のデパートで買ったことがあるが、量は少なく包装は高級だが、生チョコの苦さが勝って私好みではなかった。(まずかったというわけではないが)
 ともかく、その6分の1か12分の1の値段で、私にとっては3倍くらい美味しいと思える。
 コストパーフォーマンスが最高36倍に達する。
 食べ物は、やっぱり、見せ掛けよりは味と量だというのが私に持論だ。
 
 見た目にこだわるのは東京風なのだろうか。
 ついでに、人もそうであろう。

 見苦しいのはちょいとゴメンこうむりたいが、(もっとも、何を見苦しいとするか? これも時と所とそれを眺める者の目によって異なろうが)程ほどの清潔感とでもしておこうか、(といってもイカ焼きなんかは新聞紙に包んであっても平気なんだが)
それさえ充たせば、味と量だ。
 最近はあまり量も必要ではなくなってきたが。
 
 最近読んだミステリの中で、鰐皮でひと財産作った業者の話が出ていた。 
 アフリカのどこかで、川遊びする子供を襲う鰐が沢山いるのに目をつけた男が、一頭25セントで買い取る約束をして、男は皮を売って儲け、地元はけが人が減って、どちらも喜んでいたのが、動物愛護か保護の名目で捕獲()を禁止した為、再び子供が怪我したり殺されたりし始めたという皮肉を描いていた。
 しかし、原価25セントのものが、いくらか加工して高級な包装を施して立派な店構えの展示品としてブランドがつけられると数百ドルの品物に化けるというわけだ。

 元値で売りに出せば見向きもされないであろう。

 値段はさておき、私は自分の味覚の方を信頼したいと思うのである。
 書物に置き換えれば、
 105円で買っても面白いものは面白い。
 3万円出しても面白くないものは面白くない。
 値段や包装やブランドは、横において、実質を己の感覚で吟味する。
 これにかぎる。
 フルタは美味い。 

<言葉方面で挑戦を受けている>・・・ん?

2014年03月23日 | Weblog
<言葉方面で挑戦を受けている>・・・ん?

 たぶん、

 verbally-challenged

 などと原文はなっていたのだろう。

 linguistically-handicapped

<言語的に機能障害を抱えている>

 という受け答えが続く。

 『断罪弁護』の中の一部である。

 いわゆる『政治的に正しい(politically correct)』表現の一つである。
 
 不具、めくら、おし、びっこ、つんぼ、聾唖など身体の障害を表す言葉は、それに侮蔑や差別の社会的背景や偏見を映し出すものとして、その元になるものの見方や感じ方を根絶しない限りは、最終的解決にはならないものの、まずは言葉遣いを変えようというところから始まって、いささかヒステリックなまでの社会現象となり、それを揶揄した本まで出るようになった。

 言い回しにスポットライトを当てることで場合によっては却って、その対象を浮かび上がらせてしまう為に、たとえば、陪審員に印象付けないようにする為に、あえて、その話題は持ち出さないというやり方は法廷戦術の一つである。

 で、たとえば、

 blind→visually-challenged[impaired]

のように言い換えられている。
 たいてい長たらしくなる。

 garbageman→environmental-engineer

くず拾い→環境整備士

 冒頭に戻って

 おし

 とは言えないので、「言語障害を抱えている」「言葉が不自由な」 などと回避表現を用いているわけだが、翻訳するとなると大変だ。

 しかし、この場合のchallengeは、挑戦じゃななくて、「困難な課題」といったような意味合いだから、「挑戦を受けて」では事情を知らない読者にはいささかわかりにくかろう。

 内田昌之といえば、しばしば見かけるベテラン翻訳者だから、おそらく下訳に出したのだろう。
 しかし、だからといって、会話の妙をうまく出す日本語の言い回しも思いつかなくてチェックのときにそのままにしてしまったのだろうか。

 英語で読めて、判ったつもりになっていても、それをちゃんと日本語でわかるようにしろというのは、それ程容易なことではなくて、日本語表現者としての訓練を受けた人でなくては、おいそれとはやれない。
 訓練を受けていてもそうなのだから。

 やはりよい翻訳には時間がかかる。
 才能や訓練は言うまでもない。

 しかし、ほとんどリアルタイムで向こうの作品を紹介しようと思ったらそんなことはしていられないであろう。

 日本語を使って生活しているから、英語が読めれば即翻訳だってできるという錯覚を持ってしまうが、じゃあ、日本語で人に読ませる文章が書けるかといえば話は全く別だ。
 せいぜい判読可能な文章というのが一般ではなかろうか。

 テレビの字幕などもそうだ。
 映画ではなくても、ニュースの翻訳でも間違いだらけだと聞く。
 特にそれが英語以外のものならその間違いはお話にならないレベルらしい。
 せいぜい、現地に長年暮らしている日本人だからという理由だけで翻訳に駆りだされている人もいる。
 何十年もアメリカに住んでいて大学で物理学を教えているドイツ人教授でも、英語はからっきしという人だっている。

 (日本語発言への日本語字幕だって間違いだらけだ。見ると苛立つので見なくなる。)

 翻訳や字幕はやっつけでやらないでほしい。(学者のよく使う手だが、うまく表現できない自分の力量不足を外国語のせいにしないでもらいたいな。学者でない人は、どうせ、読者にはわからないだろうと高をくくっていると思えるものもないわけではない。むろん、良心的な仕事をしている人だって大勢いるわけだが、悪貨は良貨を駆逐するというではないか。)
 毎年、今の十分の一程度でかまわないから、良質のものを提供してほしい。
 テレビ番組もぎっしり埋めないでよいし放送局数を減らしてもよいから、まっとうなものを流してほしい。

 お遊びだったら、インターネットで充分だからさ。

何冊読めるか?

2014年03月23日 | Weblog
 私は本を読むのが速くない。
 しかし、
 気分は複雑である。
 もっと沢山読みたい。
 が、惜しくて速く読み終わりたくない。
 ゆっくり味わいたい。
 速く読めて味わうことも出来ればそれに越したことはない。
 欲張りなのだろう。
 食事と同じで、味わいを数おおく楽しみたいと思っても、そこにはおのずから限界がある。
 胃袋は満腹を教えてくれやすい。
 しかし、
 眼精疲労やら体力の限界やらにまで至らぬ限り、読むことはやめられない。
 しかも、読まずに反芻し消化し、あるいは読んだことについてあれこれと思いをめぐらせる時間も欲しい。
 反面、
 全く読みたいと思わない時間もある。

 多重人格の氾濫か騒乱か。

 ともあれ、1分1ページ読むとして、1冊は平均600ページだとすれば、10時間かかることになる。
 通勤電車で毎日往復4時間として3日に1冊。
 原書なら、その3分の1から10分の1しか読めないから、10日から1ヶ月に1冊。
 翻訳なら読みなれたシリーズものであれば、読み足も速くなる。
 読みにくい翻訳もあれば、話自体に入り込みにくい場合もある。
 登場人物の数も影響する。
 また、ミステリだけを読んでいるわけでもない。
 年間120冊、原書で40冊。
 だが、年間の翻訳点数だけでも300~400点という。
 全体の4割から3割、これだけは読みたいというものに絞り込まなくてはならない。
 しかし、
 そんなことを考えていては興ざめだ。
 私の性分にも合わない。
 それに、
 すでに出版された古い作品で読みたいが未読のものもごまんとある。
 一生費やしても読みきれないことだけは確実であると断言できる。
 だが、
 やめられんのだ。
 まあ、諦めつつ読み続けるしかあるまい。
 それにしても何冊読めるか?


付録

<縦に読むか横に読むか? >

 つまり、

 同じ作家の作品を通して読むか、次々他の作家の作品を読んでいくか?

 という問いであるが、

 私の場合、どちらとも一貫していない。
 ある作家の作品を読み尽くしてから次へ移るという人もいるが、それでは(それ程気に入った作家なら)自作を待つのが嫌だ。
 少し残してちょっとずつ読みすすめる。
 (というほど読むものに困らないから全部読んで、他の作家のを読んでいればいいわけだし、翻訳を待たずとも原書で読んじまえば済む話なんだが・・・しかし、ちょっと残しておきたい)

 一方、飲茶形式にいろんな味を楽しみたい気分もあって、横に読むということをやる。
 が、一人一冊でも数百にのぼるのが海外ミステリーの裾野の広さである。
 はじめの作家に戻るのに何年もかかってしまう。
 
 身の丈(可能な読書量)にあわせて、里山歩きをやるように、尾根歩きのアップダウンを休み休みやるのがお楽しみには向いた読み方なのだろう。

 だが気持ちだけははやってならない。
読みたいものが多すぎるうえに本のボリュームがまたおおきい(それ自体は嬉しいのだが)。

 次回は可能な読書量というものを冷静に分析してみたい。

子殺し・親殺し

2014年03月23日 | Weblog
 老夫婦の殺し合いもあったな。

 殺人など好んでやるものが少ないことの証でもある。
 それが日常茶飯ならニュースにはならぬ。

 こういう危機管理はどうしたものか?
 佐々さんにでも聞いてみたい気がする。

 アメリカでは、親の児童虐待が日常になっていて、これを取り締まるのに公権力が乗り出している。
 日本人の乳幼児のしりが青いことも知らぬくせして余計なお世話だけは欠かさない。
 家の中のことは外からは分からないので、外に出たものを徹底的にたたく。
 子供が家出したというので捜索願を出したら受け付けた警官が児童保護施設に連絡して虐待の疑いがないかを調べさせるという。
 本当に虐待をするものは表に出ぬようにやるから、ほんのわずかな痕跡でもあれば、気配や兆候があれば、捜査に乗り出す。
 
 こういうことは言うにいえない社会でも何でもはっきり口にする社会でも同じ結果になるもののようだ。
 ともに信頼の土台が崩れてしまっては、もはや手の打ちようはない。
 
 秘密と公開、嘘とまこと、戦争と平和、などなど、いずれもいわば共通の土台の上に築かれた建物の一面に過ぎない。
 めくってみるわけにはいかないがそこはかとなく感じ取ってよりどころとしていたものの手触りを今一度確認すべしとの警戒信号のように聞こえる事件ではある。