海外ミステリーファンは少なくないが、ドンと増えることがないことの理由の一つが翻訳ものであるという点にあることはかねてよりよく知られている。
翻訳については、その道のプロが多くを書き記している。
小鷹信光、青山南、中村保男、笹野洋子、田口俊樹、別宮貞則、東江一紀…思いつくままに挙げていってもきりがない。
Translators are traitors.
翻訳者は反逆者である。
この言葉はあまりに有名である。良かれ悪しかれ、読者は反逆の結果を読むことになる。
問題はどう反逆して見せたかという点にある。 忠実たらんと欲して却って読者を、原作者を、そして自らを裏切ることになったり、反逆を企てつつも却って忠実な翻訳につながったりする。
米原万里やロビン・ギルは、このあたりの事情をユーモラスに描いて、読み手を飽きさせない。
たとえば、You don't respect money.を、「あなたはお金を尊敬しない」と、忠実に訳されても読者は困る。やっぱり、「あんたには経済観念ってもんが欠けている」くらいには訳してほしい。(無論話者が誰か等、情況次第だが)
しかし、next to impossibleに、「ほとんど不可能」とこなれた訳をつけるよりも「不可能の隣り」と誤訳と非難されようと、文字通りに訳すことで醸し出される味わいもある。
一読者としては、背後に潜む歴史や文化や習慣やユーモアのセンス等が知りたいが、これを脚注なしで読めるものにするのは、しばしば困難であろう。
風景描写もまた然り。 それがない国や地域の人間には、それがわからない。 該当する固有名詞を並べ立てられてもさっぱりなのだ。
だから世界中で評価される作品には普遍性がある。 普遍性を持たせるために書き手は苦心して丁寧に書き込みを重ねていく。 同胞にとってはもしかしたら歯がゆくまだるっこい記述にもなりかねないが、それでいて同胞にも読ませる。
日本国内の作家にはそういう苦労が少ない代わりに世界中で読まれるチャンスも少ないであろう。
アニメやファンタジーが比較的世界中に受け入れられやすい理由が、裏を返せばそこにある。
私が、翻訳ものであるにもかかわらず海外ミステリーに惹かれる理由もひとつにはこの点にあるのだ。 つまり、普遍性という点に、そして書き込みの丁寧さという点に。
最近は翻訳家のレベルが向上していると思う。 私が学生の頃の翻訳には、原書のほうが読みやすいものが少なくなかった。 専門書になると特にその傾向が強かった。 何かの大先生ではあっても翻訳を専門にしたのではない人が、あまつさえ、手下の学生に翻訳をやらせて事足りるとしていたからであろう。 今も哲学書に限らず多くの分野でその傾向が顕著であると思う。 専門家でない人に専門分野の翻訳はできないという根強い信仰がはびこっているからで、プロの翻訳家と協力して作業するというコラボレーションは、まず見られない。 予算の問題もあるだろう。 しかし、専門分野の話こそ一般読者に読んでほしいという願望が海外には強い。 そのようにして噛み砕いてわかりやすく書いたものを、日本の専門家がわかりにくく弄りまわしてしまうので、そういう本が普及しにくいという一面も見逃せない。
参考:
『不実な美女か貞淑な醜女か』(米原万里:新潮文庫)
ロシア語の同時通訳者として夙(つと)に著名な著者のこの本は,タイトルが不適当であるという大江健三郎の横槍で,読売文学賞を危うく逃すところだったらしい.
多少とも翻訳めいたことの経験者であれば,このタイトルだけで話の中身が一瞬のうちに飲み込めてしまう.
このタイトルにこそ米原流通訳の極意が凝縮されているのだよ,大江君.
ま,いまさら三流文学者を相手にしても始まらない.
とにかく面白い.
「早老」を「早漏」と,「出国」を「出獄」と,「陰影」を「陰茎」と「団塊」を「男根」と書き間違えたり,言い間違えたりという失敗例の紹介には笑えた.
必ずしも,米原氏の失敗というわけではないのであるが,・・・念のため.
やはり通訳というものは,言葉を,その字面を伝達するための機械のようなものではありえないのである.
その場,その瞬間の空気を,やり直しのきかない状況で,たちどころに活写してみせなくてはならないスリルあふれる達人の技なのだとわかる.
『英語はこんなにニッポン語-言葉比べと日本人論』(ロビン・ギル:ちくま文庫)
著者は日本語大好きの変人である。
ピーター・フランクル、リービ英雄、挙げていくと、案外きりがなくなる。
この手の変人は日本では重宝されてテレビなどにも簡単に顔を出すことができる。
つまらないギャグでも「外人」が言えば、受ける。
けど、逆はまずないだろう。
いや、外国(主に欧米)に憧れるという意味では、日本には変人が溢れていると言ってもいいかもしれないのだが。
で、変人である著者は、この本で、下手な国粋主義的日本人などよりもずっと鋭く、楽しくかつ巧みに日本の変人の多くをたしなめているのである。
翻訳については、その道のプロが多くを書き記している。
小鷹信光、青山南、中村保男、笹野洋子、田口俊樹、別宮貞則、東江一紀…思いつくままに挙げていってもきりがない。
Translators are traitors.
翻訳者は反逆者である。
この言葉はあまりに有名である。良かれ悪しかれ、読者は反逆の結果を読むことになる。
問題はどう反逆して見せたかという点にある。 忠実たらんと欲して却って読者を、原作者を、そして自らを裏切ることになったり、反逆を企てつつも却って忠実な翻訳につながったりする。
米原万里やロビン・ギルは、このあたりの事情をユーモラスに描いて、読み手を飽きさせない。
たとえば、You don't respect money.を、「あなたはお金を尊敬しない」と、忠実に訳されても読者は困る。やっぱり、「あんたには経済観念ってもんが欠けている」くらいには訳してほしい。(無論話者が誰か等、情況次第だが)
しかし、next to impossibleに、「ほとんど不可能」とこなれた訳をつけるよりも「不可能の隣り」と誤訳と非難されようと、文字通りに訳すことで醸し出される味わいもある。
一読者としては、背後に潜む歴史や文化や習慣やユーモアのセンス等が知りたいが、これを脚注なしで読めるものにするのは、しばしば困難であろう。
風景描写もまた然り。 それがない国や地域の人間には、それがわからない。 該当する固有名詞を並べ立てられてもさっぱりなのだ。
だから世界中で評価される作品には普遍性がある。 普遍性を持たせるために書き手は苦心して丁寧に書き込みを重ねていく。 同胞にとってはもしかしたら歯がゆくまだるっこい記述にもなりかねないが、それでいて同胞にも読ませる。
日本国内の作家にはそういう苦労が少ない代わりに世界中で読まれるチャンスも少ないであろう。
アニメやファンタジーが比較的世界中に受け入れられやすい理由が、裏を返せばそこにある。
私が、翻訳ものであるにもかかわらず海外ミステリーに惹かれる理由もひとつにはこの点にあるのだ。 つまり、普遍性という点に、そして書き込みの丁寧さという点に。
最近は翻訳家のレベルが向上していると思う。 私が学生の頃の翻訳には、原書のほうが読みやすいものが少なくなかった。 専門書になると特にその傾向が強かった。 何かの大先生ではあっても翻訳を専門にしたのではない人が、あまつさえ、手下の学生に翻訳をやらせて事足りるとしていたからであろう。 今も哲学書に限らず多くの分野でその傾向が顕著であると思う。 専門家でない人に専門分野の翻訳はできないという根強い信仰がはびこっているからで、プロの翻訳家と協力して作業するというコラボレーションは、まず見られない。 予算の問題もあるだろう。 しかし、専門分野の話こそ一般読者に読んでほしいという願望が海外には強い。 そのようにして噛み砕いてわかりやすく書いたものを、日本の専門家がわかりにくく弄りまわしてしまうので、そういう本が普及しにくいという一面も見逃せない。
参考:
『不実な美女か貞淑な醜女か』(米原万里:新潮文庫)
ロシア語の同時通訳者として夙(つと)に著名な著者のこの本は,タイトルが不適当であるという大江健三郎の横槍で,読売文学賞を危うく逃すところだったらしい.
多少とも翻訳めいたことの経験者であれば,このタイトルだけで話の中身が一瞬のうちに飲み込めてしまう.
このタイトルにこそ米原流通訳の極意が凝縮されているのだよ,大江君.
ま,いまさら三流文学者を相手にしても始まらない.
とにかく面白い.
「早老」を「早漏」と,「出国」を「出獄」と,「陰影」を「陰茎」と「団塊」を「男根」と書き間違えたり,言い間違えたりという失敗例の紹介には笑えた.
必ずしも,米原氏の失敗というわけではないのであるが,・・・念のため.
やはり通訳というものは,言葉を,その字面を伝達するための機械のようなものではありえないのである.
その場,その瞬間の空気を,やり直しのきかない状況で,たちどころに活写してみせなくてはならないスリルあふれる達人の技なのだとわかる.
『英語はこんなにニッポン語-言葉比べと日本人論』(ロビン・ギル:ちくま文庫)
著者は日本語大好きの変人である。
ピーター・フランクル、リービ英雄、挙げていくと、案外きりがなくなる。
この手の変人は日本では重宝されてテレビなどにも簡単に顔を出すことができる。
つまらないギャグでも「外人」が言えば、受ける。
けど、逆はまずないだろう。
いや、外国(主に欧米)に憧れるという意味では、日本には変人が溢れていると言ってもいいかもしれないのだが。
で、変人である著者は、この本で、下手な国粋主義的日本人などよりもずっと鋭く、楽しくかつ巧みに日本の変人の多くをたしなめているのである。