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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

Have A Break

2014年04月13日 | 海外ミステリー
 海外ミステリーファンは少なくないが、ドンと増えることがないことの理由の一つが翻訳ものであるという点にあることはかねてよりよく知られている。
 翻訳については、その道のプロが多くを書き記している。
 小鷹信光、青山南、中村保男、笹野洋子、田口俊樹、別宮貞則、東江一紀…思いつくままに挙げていってもきりがない。

 Translators are traitors.
 翻訳者は反逆者である。

 この言葉はあまりに有名である。良かれ悪しかれ、読者は反逆の結果を読むことになる。

 問題はどう反逆して見せたかという点にある。 忠実たらんと欲して却って読者を、原作者を、そして自らを裏切ることになったり、反逆を企てつつも却って忠実な翻訳につながったりする。
 
 米原万里やロビン・ギルは、このあたりの事情をユーモラスに描いて、読み手を飽きさせない。
 
 たとえば、You don't respect money.を、「あなたはお金を尊敬しない」と、忠実に訳されても読者は困る。やっぱり、「あんたには経済観念ってもんが欠けている」くらいには訳してほしい。(無論話者が誰か等、情況次第だが)
 しかし、next to impossibleに、「ほとんど不可能」とこなれた訳をつけるよりも「不可能の隣り」と誤訳と非難されようと、文字通りに訳すことで醸し出される味わいもある。
 一読者としては、背後に潜む歴史や文化や習慣やユーモアのセンス等が知りたいが、これを脚注なしで読めるものにするのは、しばしば困難であろう。 
 風景描写もまた然り。 それがない国や地域の人間には、それがわからない。 該当する固有名詞を並べ立てられてもさっぱりなのだ。
 だから世界中で評価される作品には普遍性がある。 普遍性を持たせるために書き手は苦心して丁寧に書き込みを重ねていく。 同胞にとってはもしかしたら歯がゆくまだるっこい記述にもなりかねないが、それでいて同胞にも読ませる。
 日本国内の作家にはそういう苦労が少ない代わりに世界中で読まれるチャンスも少ないであろう。
 アニメやファンタジーが比較的世界中に受け入れられやすい理由が、裏を返せばそこにある。
 私が、翻訳ものであるにもかかわらず海外ミステリーに惹かれる理由もひとつにはこの点にあるのだ。 つまり、普遍性という点に、そして書き込みの丁寧さという点に。

 最近は翻訳家のレベルが向上していると思う。 私が学生の頃の翻訳には、原書のほうが読みやすいものが少なくなかった。 専門書になると特にその傾向が強かった。 何かの大先生ではあっても翻訳を専門にしたのではない人が、あまつさえ、手下の学生に翻訳をやらせて事足りるとしていたからであろう。 今も哲学書に限らず多くの分野でその傾向が顕著であると思う。 専門家でない人に専門分野の翻訳はできないという根強い信仰がはびこっているからで、プロの翻訳家と協力して作業するというコラボレーションは、まず見られない。 予算の問題もあるだろう。 しかし、専門分野の話こそ一般読者に読んでほしいという願望が海外には強い。 そのようにして噛み砕いてわかりやすく書いたものを、日本の専門家がわかりにくく弄りまわしてしまうので、そういう本が普及しにくいという一面も見逃せない。

参考:

『不実な美女か貞淑な醜女か』(米原万里:新潮文庫)

ロシア語の同時通訳者として夙(つと)に著名な著者のこの本は,タイトルが不適当であるという大江健三郎の横槍で,読売文学賞を危うく逃すところだったらしい.
 多少とも翻訳めいたことの経験者であれば,このタイトルだけで話の中身が一瞬のうちに飲み込めてしまう.
 このタイトルにこそ米原流通訳の極意が凝縮されているのだよ,大江君.
 ま,いまさら三流文学者を相手にしても始まらない.
 とにかく面白い.
 「早老」を「早漏」と,「出国」を「出獄」と,「陰影」を「陰茎」と「団塊」を「男根」と書き間違えたり,言い間違えたりという失敗例の紹介には笑えた.
 必ずしも,米原氏の失敗というわけではないのであるが,・・・念のため.
 やはり通訳というものは,言葉を,その字面を伝達するための機械のようなものではありえないのである.
 その場,その瞬間の空気を,やり直しのきかない状況で,たちどころに活写してみせなくてはならないスリルあふれる達人の技なのだとわかる.


『英語はこんなにニッポン語-言葉比べと日本人論』(ロビン・ギル:ちくま文庫)

 著者は日本語大好きの変人である。
 ピーター・フランクル、リービ英雄、挙げていくと、案外きりがなくなる。
 この手の変人は日本では重宝されてテレビなどにも簡単に顔を出すことができる。
 つまらないギャグでも「外人」が言えば、受ける。
 けど、逆はまずないだろう。
 いや、外国(主に欧米)に憧れるという意味では、日本には変人が溢れていると言ってもいいかもしれないのだが。
 で、変人である著者は、この本で、下手な国粋主義的日本人などよりもずっと鋭く、楽しくかつ巧みに日本の変人の多くをたしなめているのである。





「しっかり宿題をやってきたようだな」

2014年04月13日 | 海外ミステリー
 翻訳小説を読んでいてしばしば目にするのが、この

 「宿題」

 という表現だ。

 おそらく原文は

 homework

 であろう。

 確かに宿題という意味もあり、情況によってはその訳でも面白味が出るケースもあるが、「下調べ」という意味を知らずに翻訳しているのではないかと思えるケースもよくある。

 和風の味付けも時によりけりで、気の抜けたサイダーみたいになっていることもある。
 翻訳小説を嫌う向きは、そのあたりに根拠を求めるが、だったら原書で読んだらいい。
 冷めたコーヒーでもそれなりに味わうことは出来る。
 末節にこだわって、美味しいところを捨てるようなことはしたくないのである。

 しかし、翻訳家の方にももうひと頑張りお願いしたいのも確かなのである。

眩暈を覚えるほどの多様さ

2014年04月13日 | 海外ミステリー
 翻訳された海外ミステリだけでもずらりと並べてみれば、眩暈を覚えるほどの多様さにあふれている。
 次々と全部読んでしまいたい強い誘惑を頻繁に感じるが、私はいかんせん読むのが遅い遅読派である。

 ジャンルだけでも多様な上にひとりの作家が多数のジャンルにまたがることもあり、なによりひとつのジャンルだけでも数が圧倒されるほど多い。
 
 有名な私立探偵ものだけでも無数にある上に、ひとつのシリーズだけで30冊を超えるものも少なくない。
 しかも次々と新しい探偵が現れそうな見込みは当分なくなりそうにもない。

 これでは過剰供給でそのうち株価が大暴落するのではないかと危惧される。
 が、現実にはみんな共存共栄をはたしている。
 
 おそらくは相乗効果というものであろう。

 『死の蔵書』にもあったが、ひとつの街に古本屋が一軒しかなければ独占は出来てもそれ以上に繁盛することはない。
 しかし、何軒かあれば相乗効果でどの店も繁盛し始めるというのである。

 食堂やレストランも同じ理屈で食堂街が出来上がる理屈がここにもある。

 そして海外ミステリも。

 探偵がホームズしかいなかったり、ポアロだけだったりしたら、ミステリという分野は立ち消えになって、これほどの賑わいをみせることもなかったかもしれない。

 その伝で行けば恋愛小説も同じか。

 まさしく、リフレインが止まらない、だ。

 まあ、全部を読みきることはほとんど絶望的ではあるが、どこまで読めるかということ自体が楽しみの一つでもある。

妄想

2014年04月13日 | 海外ミステリー
 それが昼日中であったなら、そして晴天であったなら、気がつかないということはありえなかったであろう。
 だが、夕暮れ時の薄闇の中で何もかもが不分明だったし、雨にも降られてドアノブの色にも濡れにも気がつかなかったというわけだ。
 いつものようにノブをひねり、鍵を玄関の鍵入れにぽんと放り込み、リビングへと向かう。
 が、帰宅途中でふと思い立って、普段は物置代わりの、あまり足を踏み入れない部屋にあるものを取りに入ろうとしたのだった。
 
 (おや?)

 ドアが閉まっているはずなのに、5センチほど開いている。
 あるべきものはあるべき場所に、そうあるべきものはその状態でなくては気がすまない性質なのだ。
 何だか嫌な感じがする。

 慎重にドアを開けていく。
 と、そこに見慣れないものがあるように見えた。
 暗い。
 廊下の電気をつけて・・・

 予感はしていてもあまり良い気分のものではないな。
 米国者のミステリーなら胃がよじれたり吐いたりするのだろう。
 それにしてもよく吐く、スグに吐く。
 そう思っていたのだが、実際、胃袋を何者かにぎゅっとつかまれたような気分だ。
 文字では分からないだろうが、目からも鼻からも強烈な刺激が急激に入り込んでくるのだ。

 そう。
 まったくわけがわからない。
 理不尽のきわみである。
 よりによって、どういうわけで、こんなところに、俺の部屋で・・・

 しかし、それと同時に俺の頭はめまぐるしく動いた。
 鍵は掛かっていた。
 あのぬめりの正体は、もう十分に分かっている。
 だが、その時すでに、音もなく背後に忍び寄る気配があったのだった・・・。


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ミステリーは、非日常を、とりわけ短編は人生の瞬間的転機を断絶的かつ鮮明に切り取る。

読みすぎだろうか?

普通に帰宅しても、ふとこんな話が頭をよぎる。
電車に乗っても散歩していても就寝中も・・・

病気だろうか?

そう、妄想にとりつかれているのだ。 
麻薬中毒患者には日常的に非日常が支配している。
突然の災禍は常に身近なところにあるのだ。
そういうことに思いをはせる機会を提供してくれるのがミステリーであり、それだけでも毎日がスリリングになる。


(しかし、テレビドラマの海外ミステリーをぱくって日本版にリメイクしたのが多いはいただけないな・・・読んで知っている人は相手にしないし、知らない人は、つまり海外ミステリーなんぞ読まない人は、それなりに楽しめるかもしれないのかもしれないが・・・翻訳で読むというのはこれに近いのかもしれないと考えるとあまりぞっとしないのも確かだし・・・本家を読み始めた頃しばしば、ところどころデ・ジャブのようなものを感じたものだった・・・今ならそれが倒立した投影像を見ていたことが分かる)


『無垢なる骨』(リチャード・バリー:ハヤカワ・ミステリアス・プレス文庫)

2014年04月12日 | 海外ミステリー
 <one for all but all not for one>

 one for all all for one

 ボルシェビキ、レーニンの掲げたスローガンだが、もとをただせば、都市労働者の代表政党であるボリシェビキ派に反発していた農民層の支持を取り付けるためにカザン(農村地帯)出身のレーニンが巧みに利用したものらしい。

 一人はみんなのために、しかしみんなは一人のためになってくれなかったりする。
 
 大義の前には個人は犠牲にされても仕方ないと。

 しかし、生贄にされる側としてはたまったものではない。

 たとえば、それは会社組織のためかもしれない。
 教会が虐げられた大勢の人々を救済する為かもしれない。
 お家のためかもしれない。
 逆に仕事の為に家庭を顧みないのかもしれない。
 戦に出るのはお国の為にかもしれない。
 
 口減らしのため背に腹変えられず子供を間引いたり姥捨てをしたりということはこの国でもかつて行われたことだった。

 インディ・ジョーンズではないが、宗教儀式の生贄に子供の命を差し出すなんてことは、たしかに、常軌を逸していると思うのは、あるいは、ひとつの視点から見てそうであるに過ぎないのかもしれない。

 タブー(禁忌)というのは、しかし、現代社会にも実在していて、普段は意識に上らない。恥や穢(けが)れの意識などもそのひとつであるかもしれない。

 ま、この手のこと、つまり、たぶんに死生観というものが絡んだ文化や風習あるいは、「やり方」というものに触れることはできないというほかない。
 もちろん、理解不可能というわけではないが、慎重に探りをいれていかなくてはならない領域であることは確かであろう。

 カリフォルニアの砂漠から七体の子供の白骨死体が発見された。
 そのひとつが、かつて養子に出したはずの息子の死体と知ったレストラン経営者の父親の依頼で、ウィル・ハーデスティは犯人の調査を始める。
 息子を失ってすさんだ日々を送ったことのあるウィルだけに、この父親の気持ちがわかるのだ。
 この話を持ち込んだポールはベトナム戦争でウィルの命を救ってくれた恩人であり親友であり、いまや年金で悠々自適の暮らしを送っていた。
 評判を落としていたウィルを救済するという目的もあったが、自らも安穏とした暮らしに飽き足らなかったというわけだ。
 警察内部にも友人がいて助力が得られるというあたりは定番。
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 ともあれ、移民、不法入国、養子いずれもトランスプラントtransplant(臓器移植)と同じく、拒絶反応、免疫適正などの問題が生じるように、移し替えに伴う困難がある。
 そのあたりがいくらか具体的に描かれているのが印象に残った。



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