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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

位置関係

2014年04月16日 | 海外ミステリー
 海外ミステリーを読んでいて、人の名前が覚えられない。
 翻訳調が肌に合わない。
 そういうとっつきにくさを訴える人が少なくないが、私は、少しもといえば言いすぎだがあまり気にならない。
 どんどん読んでいけばすむ話である。
 それよりも
 地名や通りの名前や、それぞれの位置関係。
 あるいは位置関係全般が、すっと頭に入ってこないことが少なくない。
 これは翻訳の問題かもしれないが、そもそも位置に関する表現形式が違っているという気がする。
 翻訳の中でも一番難しいところかもしれない。
 欧米でも、かなり知的水準の高い人でも左右の表現の分からない人が少なくないようだ。
 だからあれだけうるさく位置関係を説明するのかもしれない。
 どこそこの右側で川の北側から南に沿って・・・云々。
 こういう位置関係が海外ミステリー読者を遠ざけているのだとしたら、残念でならない。

『冥界からのラブ・レター』(コリン・T・ハチスン:鵜桑社三ステリ)

2014年04月16日 | 海外ミステリー
<ある朝目が覚めたら枕元に死者からの手紙が置いてあったら・・・>

古典研究者のJ・ホッブズは、ある朝枕元に丸まった古びた羊皮紙があるのに気がつく・・・。

<現実感>というのは人それぞれで、たとえば、数学の専門家にとっては数がきわめて具体的な現実感を持つという。
言語学者にとっては文字がそうだともいう。
事実、ラテン語を研究している知人が、朝食後に辞書のあるページを開いて眺めているうちに活字が立ち上がって紙面で踊りだし、ふと気がつくとあたりを夕暮れの気配が支配していたりする、と言うのを聞いたことがある。

ホッブズにとっては、まさしく古典古代の世界が完全に<現実>となってしまったのである。
常人の見る世界と奇想渦巻くホッブズの世界が、奇妙にシンクロしてまったく的外れな思い込みが現実世界の事件を解決していく。
そのあたりがコミカルにユーモアをまじえて展開される。

古典古代の人間と立場を入れ替えてみれば、科学捜査やホームズの推論なども頓珍漢なまじないにしか見えないかもしれない。

古典に対する深い造詣に加えて、現代の科学捜査を揶揄できるまでの認識がなければ、なかなかこういうものは書けないだろう。
だから、これはなかなかの力作なのである。











・・・・・・・・・・・・・・・・

タイトルでわかる人には分かったはずだが、この本は実在しない。
ちょっと遊んでみた。
本気で検索された方、ごめんなさい。

海外ミステリの読者層は?

2014年04月14日 | 海外ミステリー
英語で書かれた作品であれば、英語国民全体を対象としているであろう。
 狭く取れば米国や英国やオーストラリアそれぞれ一国の読者を直接には念頭において書かれているであろう。
 しかし、
 英語圏まで広げれば、世界中にまで広がる。
 さらに翻訳で読む読者まで含めれば、作家たるもの常に「普遍性」(=何処の誰にでもわかるように書く)ことを意識せざるをえまい。
 したがって、
 人物造詣をはじめ土地の様子など詳細な書き込みが必要になるのであろう。
 勿論英語の表現形式が、アウトラインからはじまり詳細を尽くす性格を持っていることも関係しているであろう。
 反対に英語特有の言い回しなどは、どうしても伝わりにくくなりはするが。
 
 また、それぞれの国内で多くの読者を獲得するには、おそらくあまり難しいことは書けないであろう。
 わかりやすく噛み砕いて、格別に高い教養のない人でも楽しんで読めるものでなくてはなるまい。
 難しい言い回しや語彙を多用することは許されないであろう。
 それでいてお子様向けのお話にはならないようにしなくてはならない。
 話の展開にスピードが求められるし、いくらか知的関心を引く必要もあるし、クールな言い回しや出身階級や国別お個性を言い回しに出すことも大切だ。
 まあ、そういったもろもろを的確に落としどころに落とすことが出来た作品が多くの読者から評価され支持されることになる。
 小説は、その国、その時代、人を映す鏡である。
 多数の支持を得られたということはその作品が何ほどか、その時々の関心や気分といったものを反映していると考えてさしつかえあるまい。

 さて、そういうミステリーの実際はどういうものか?
 
 Patricia HighsmithのRipley under ground 1970の書き出しは、このようになっている。

 Tom was in the garden when the telephone rang. He let Mme Annette his housekeeper answer it and went on scraping at the scoppy moss that clung to the sides of stone steps. It was a wet October.

 作家であれば、書き出しは読者に期待を持たせるツカミであるから、とりわけ気を配って書いているものと思われる。

 むずかしいだろうか?
 語彙の問題を横に置けば中学生レベルの文法知識があれば十分に読めるのじゃなかろうか?
 この後もどのページをめくっても、複雑な節構造を持っているために難解極まりないというようなところは出てこない。
 ま、すんなりと読めて、しかも飽きさせない。

 Raymond ChandlerのPlayback 1958はどうか?
 少し古いがフィリップ・マーロウは、映画を通してもおなじみの私立探偵である。
 書き出しは次の通り。

 The voice on the telephone seemed to be sharp and peremptory but I didn't hear too well what it said -- partly because I was only half-awake and partly because I was holding the receiver upside down. I fumbled it around and grunted.
Did you hear me! I said I was Clyde Umney the lawyer.
Clyde Umney the lawyer. I thought we had several of them.
You're Marlowe aren't you?
Yeah. I guess so. I looked at my wrist watch. It was 6.30 a.m. not my best hour.
Don't get fresh with me young man.
Sorry Mr Umney. But I'm not a young man. I'm old tired and full of no coffee. What can I do for yousir?

 つい長く書き抜いてしまったが、まだ半ページにもならない。
 しかし、寝ぼけ眼でもマーロウ流の減らず口が早々に顔を出している。

 最近の作品はどうか?
 ヒエロニモス・ボッシュを主人公に据えるマイクル・コナリーの作品の書き出しはこうだ。

 Michael Connelly The Poet 1996

Death is my beat. I make my living from it. I forge my professional reputation on it. I treat it with the passion and precision of an undertaker--somber and sympathetic about it when I'm with the breaved a skilled craftsman with it when I'm alone. I've always thought the secret of dealing with death was to keep it at arm's length. That's the rule. Don't let it breathe in your face.
But my rule didn't protect me. ・・・

 一人悦に入っているが、これも上手い書き出しだなあ。

 国際・スパイ小説の巨匠ル・カレはどうか?
 le CarreのThe constant gardner 2001
の書き出しはこうだ。

 The news hit the British High Commission in Nairobi at nine-thirty on a Monday morning. Sandy Woodrow took it like a bullet jaw rigid chest out smack through his divided English heart. He was standing. That much he afterwards remembered. He was standing and the internal phone was piping. He was reaching for something he heard the piping so he checked himself in order to stretch down and fish the receiver off the desk and sayWoodrow. Or maybeWoodrow here. And he certainly barked his name a bit he had that memory for sure: of his voice sounding like someone else's and sounding stroppy:Woodrow here his own perfectly decent name but without the softening of his nickname Sndy and snapped out as if he heard it because the High Commissioner's usual prayer meeting was slated to start in thirty minutes prompt with Woodrow as Head of Chancery playing in-house moderator to a bunch of special-interest prima donnas each of whom wanted sole possession of the High Commissioner's heart and mind.


 もはや定番。お手の物という手練手管である。安心して読める。

 最後に
 Thomas H. CookのMortal Memory 1993の出だしを紹介しよう。

 This much I remembered from the beginning: the floral curtains in their second-floor bedroom pulled tightly together; Jamie's new basketball at the edge of the yard glistening in the rain; Laura's plain white bra lying haphazardly in the grass behind the house the rest of our clothes drenched and motionless as they hung from the line above it.

過去の日常風景の記憶からはじまり、いつのまにか異常な世界へと足を踏み入れていくプロセスをIrememberedの繰り返しによる漸層法を用いて読者を物語世界へと釣り込んでいく。
 クック特有のテンポである。


 最近の英文ははなから読者にわからせる。暇なら先を読んでくれといった調子になっている。
 最初で躓いてしまうと逆にその先を読む気がしなくなる。
 しかし、ミステリーなら話は逆で、最初からわかってはいけないというように書かれている。
 わからない人も安心して先を読み進めることができるという具合になっているのである。
 勿論何かを予感させなくてはならないわけで、そこが作家の腕の見せ所というわけだ。

忙しいのだか暇なのだか・・・

2014年04月14日 | 海外ミステリー
2月19 日山歩き
同20日 庭整備
同21・22日 廃品回収

で、

2月23日

今年はボルネオに足を運んだ。
この日、成田を1時30分に発って、時差は日本より1時間早い6時に到着。
宿泊先はシャングリラ・ラサ・リゾートホテル。
ホテル裏にある林にオラウータンが生息している。
ウェルカム・フルーツを食べて一休み。
そのあとレストランで軽く食事をとる。
読み物は、

『大密林』(ジェイムズ・W・ホール:講談社文庫)

ブルネイが舞台の一つ。
オラウータン密猟の背後に途方もない陰謀が隠されていたのだった。

2月24日

朝食後、オラウータンを見に行く。
『大密林』を読んでいるとオラウータンを殺すような奴は人間じゃない、という気分になってくる。

書き忘れたが、成田での待機時間からコナキタバル到着までは

『超音速漂流』(ネルソン・デミル トマス・ブロック:文春文庫)

を読んでいた。

米国軍関係者が秘密裏に行ったミサイル実験に民間機が巻き込まれるという話。
機内でのパイロットたちをはじめとする乗客や係員たちの描写や艦内の軍関係者たちの描写が事故の必然性や隠蔽工作の必要を打ち固めていく手際は真に手馴れた感じで、妙な話だが、安心して読んでいられる。
もっとも飛行機に乗っているときに読む話としては無用のスリルを味わわせてくれる内容なのだが。
思わず外に黒い小さな点が見えないかと目を凝らした。
そんな点でもたちまちのうちにミサイルになってこっちにぶつかってくるのだ。
それが超音速ってものなのだ。


ひるがえって、ボルネオの藪蚊はのろい。
痒みを感じてからゆっくりと手を動かしてパタンと叩いても叩き落せる。
そこに住む人々の時間も然り。

この時間の落差を楽しめるのでなければ、こういう土地への旅はお勧めできない、と思う。

2月25日

船に乗ってマングローヴの密林を見に行く。
種の形が面白い。
種の下に緑の槍のように将来の根っこが伸びているのが木から釣り下がっている。
これをもぎ取って、さらに槍の部分をもぎ取って少しワインオープナーで穴をくりぬくと笛が出来上がる。
原始的携帯電話の出来上がりだ。
密林を抜けて川面を走るよく響く涼やかなよい音が出る。

川に網を仕掛けて蟹を取った。

水上生活をしている漁師の村があった。
網を仕掛けて魚を取るのだが川獺が敵なのだそうだ。
マングローヴを柱にして何本も付きたてた上に家を作りトタンで屋根を葺いてある。
この高床式は、地上の家でも、たいがいそうである。
家と家は橋でつなぎまわされている。
そこからかあるいは家から直接にか船着場がある。
そのあたりはそれほど深くはなくて大人が立てば胸からうえは水上に出る。
一見貧しそうだが、家の中には冷蔵庫もあればパソコンもあり、表にはパラボラアンテナもちらほら見えた。
うちにはない。
かなり裕福な人たちらしい。
子供も大人もニコニコしながら手を振って挨拶してくる。

『大密林』は舞台をもっぱら米国フロリダに移してしまった。
こちらは親を失った貧しかった子供たちが悪事に手を染め、豊かな連中はますますの富を目指し、野生動物保護を目指す人々も、みなみな眉間にしわ寄せて忙しく立ち回っている。
674ページの力作だったが、こちらもたちまち読み終えて、晩飯時には

『わが名はレッド』(シェイマス・スミス:ハヤカワ・ミステリ文庫)

のページをめくり始めた。



2月26日

ラサ・リゾートをあとにしてタンジュール・アル・ホテルに移動。
こちらはコナキタバル市内のホテル。
部屋の扉を開けてビックリ。
私のために新築してくれたかのようにまっさらだ。
木の香りが鼻をくすぐる。
彩色もみごとなモダン(=最新式)な造り。
聞けば、まだ30人も泊まっていないらしい。
ジャスミンティーを一杯飲んで市内に出ることにした。

ホテルからシャトルバス4リンギット=120円で往復できる。
市内には大きいショッピングセンターが三軒ある。
平日のせいか人は少なかったが、見ようによれば平日にしては人出は少なくない。
テレビを前にして人が群れている。
プロレスだ。
昭和30年代の日本に似ている。
ちょっと違うのは電気屋にパソコンがあるという点であろう。
携帯電話ショップがやたらと多い。
しかし、公衆電話の利用者もかなりのもんだ。

ついでに食事。
センターポイントという百貨店の4階のレストランで海に沈む夕日を眺めながらたらふく食って300円ばかりか。

帰りはタクシーにした。
街からホテルまでは12リンギットと定額なので安心である。

風呂に浸かってうとうとしながらシェイマス・スミスを読み終えた。
物悲しい話である。


2月27日

どこにも行かないことにした。
のんびりと朝食をとり、ぼんやりとプールにつかり、所在なげにプールバーのドリンクを飲み、海風に吹かれながら砂浜を掘って蟹と戯れ、ホテル内の中華料理レストランで夕食をとり、ひねもすのたりのたりかな。

しかし、手にしていた本はといえば、

『凍てついた七月』(ジョー・R・ランズデール:角川文庫)

背中は日に焼けてカッカしていたが、本のタイトルは冷たい。
家宅侵入犯を射殺したら、その翌日出獄した、その親父に息子がつけ狙われることになってしまった。
しかし、実は、話はそれほど単純ではなかった。

2月28日

この日は、週に二度水曜と土曜に出るボルネオ鉄道の旅に出た。
ペイパータウンまで汽車に乗って移動するというだけのもの。
参加者は年寄りばかり。
ノスタルジーという売り文句に誘われたのだろう。
私は往復とも寝てばかりいた。
ガッタンゴトン・ガタンゴットン・・・
枕木も英国植民地時代のものでいつ脱線転覆してもおかしくない。
トンネル内は煙で一杯になり息苦しくゴホゴホ咳き込むのが何人かいた。
確かに昔の汽車だった。

体に付いた煤を落とそうとプールに浸かっていると脇でマージャンをやっているので、ちょいと眺めていたらやらないかという。
中国式だったが、まあ、少し見ているうちに大体要領も分かったので積んでみることにした。
カナダから来た中年夫婦で、どちらもかなりの高学歴者のようだった。
飲み込みが早い。
好奇心も学習意欲も旺盛である。
ひとしきり遊んで握手して別れた。

この夜の食事ははずれで、ホテルの手違い(部屋のダブルブッキング)でお詫びにもらった赤ワインを傾けながら、ランズデールを読了。

さて、お次はと・・・

嘘とミランダ・ルール(黙秘権)

2014年04月13日 | 海外ミステリー
逮捕されたときに読み上げられる場面は犯罪物の映画ではお約束になったミランダ・ルールは、その名は知らなくてもたいていの方はご存知であろう。

 自分に不利なことは言わなくてもいい。裁判ではしゃべったことが不利な場合も証拠として採用されるなど。

 本来の趣旨はさておき、あれは、容疑者が次々嘘をしゃべってうるさくて仕方ないから黙らせるための手段となっている。

 犬やサルには嘘はつけない。
 嘘というのはそれを口にする本人が虚偽だと認識して言うものである。
 真実と思って発言したものは間違いという。
 ここがややこしい。
 結果が同じになるからである。
 そこで何が真実かは判事に任せる。
 あるいは、陪審員に委ねる。
 そこで決まったもの(公定されたもの)を真実とみなすのである。
 いったん決まったらそれが嘘か間違いかはどうでもよろしい。
 そういうことになっている。

 日本では「藪の中」という。
 攻撃は防御になり防御がそのまま攻撃になる。
 そういうことを知悉しているから、これが真実だと無理強いする必要はないと割り切るのである。
 
 欧米式は、果てしなく嘘が続く。
 アンドリュー・ヴァクスに『嘘の裏側』(ハヤカワ・ノヴェルズ)という作品がある。
 食べ物の違いか知らんが、日本人はどこかで底を割ってしまう。
 あちらは永遠に嘘が続く。
 決め方の違いだろう。
 ま、どっちでもいいや、とするのか、何がなんでもどちらかにするのか。

 どちらでもいいやと投げ出さず、しかし、どちらにもムリに決めずに、宙ぶらりんのところで釣り合いをとり続けるという手もあるが、なかなかしんどい。
 それが楽しいという人も中にはいるだろうが。


根回し・かき回し・後回し

 そんなタイトルの本があって自民党は何でも先送りだと言われ続けてきたが、政治に限らずそういう決め方をする性質の国なのだろう。
 どんどん決めて実行していくと言えば、若い人には聞こえがよいが、それなら森林伐採だって死刑だって手術だってそうで、やっちまったら取り返しがつかない。
 様子を見ながら少しずつやっていくというのも悪くない。
 見た目には何もしていないように見えるが、変化というのはそういうものである。
 地震だってそうで、はっきりわかるような変化は最後にどっと来る。

 話が逸れた。
 Catch Me If You Can『世界をだました男』(新潮文庫)じゃないが、詐欺師は、真実を知っている。だから嘘がつける。論理的にはそうだ。
 しかし、真実がどこいら辺りにあるのかは誰も知らない。
 そこで余計なおしゃべりを封じるルールというのがあるわけだが、どうも日本はそのあたりのルールを破棄してしまったきらいがある。


<参考>

『 反対尋問 』
( ウエルマン 梅田昌志郎訳   発行年 1979: 旺文社文庫)  



 『反対尋問』と言っても、ミステリーではない。
 読みようによっては十分にミステリーにもなりうるが、この本は法廷弁護士の書いた専門書である。
 スコット・トゥロー(ただし、この人の『ハーバード・ロースクール』は、受験勉強日記であるが)をはじめ、アメリカには法律家の書いた法廷小説が多い。
 そのいずれにも通底している何かがこの本にもある。
 この本の解説者、平野龍一は東大総長にもなった人であるが、その何かについて、先生のお考えを聞いてみよう。

 陪審制度の根底には、

「ことばと論理によって説得すれば、民衆は正しい判断に到達するものであるという、動かすことのできない信念が、磐石のように制度の基礎として横たわっているのである。」

 と指摘されている。

 これは重要な指摘である。

 学校でも講演でも裁判でも「りっぱな人」のご高説を黙って拝聴するというのがわが国の流儀であろう。
 むろん、陰に回ってはあれこれぺちゃくちゃと喧(かまびす)しいィしゃべりが行われているが、公の場では黙して語らずというのが未だ大勢を占めていて、せいぜい泥酔して大声で独り言をぶちまけるのが関の山なのである。
 「和をもって尊しとなす」が裏目に出るとこうなる。
 「りっぱな人」の発言にも、「ふつうの人」の日常の言葉にも紙切れほどの重さも認めない。
 「ノー」と言えば、ノーだし、「イエス」と言えばイエスということさえなかなか文字通りに通らない。
 「にこにこへらへら薄ら笑いを浮かべて何を考えているのかわからない」と欧米人の多くは言う。
 観察が足りないからだとか、人の気持ちを忖度できないからだとか言って済ませられるような話でもない。
 なあに、難しい話ではない。
 思ったとおり、考えたとおりのことを感情的にならずに冷静に順序だてて相手に伝え、また相手の言葉にも敬意を払いつつ素直に耳を傾けた上で礼儀正しく折り合いをつけるように努める。
 それだけのことではないか。
 この本は、そのことを裁判や法廷の場で実践するとどうなるのかという話である。
 また、この本は、1903年に書かれたものだが、すでに

 「今日では、万事を知るなどということは不可能だが、どんな職業であれ、成功するためには、万事についていくらかでも知るところがあり、かつ何事かについてはすべてを知っている、ということが必要となる。だから、その道の専門の鑑定人(エキスパート)というものが、民事事件であれ刑事事件であれ、喚問される機会がいよいよ多くなっているのだ。このように専門家(スペシャリスト)時代ともいうべき今日では、陪審が審議すべき事実の属する分野が、普通の人間には未知であるという場合、専門家たちから助けを借りる必要がよくある。」

 と述べられている。

 ここに立ち現れるのが「馬鹿の壁」の問題である。
 専門家と素人が言葉を共有できなくなってしまったのである。
 互いに互いが馬鹿に見えるであろう。
 所詮限度があるにしても、またそこを架橋しようという試みもないではないが、わが国ではとりわけこの壁を乗り越えることがむずかしいであろう。
 先ほど述べたとおり言葉の意味や価値が不定形で不定量だからである。
 そういうことがよくわかるよい本なのだが、残念ながら絶版になっている。
 はて、どこかで新たに日の目を見ているのかしらん。