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備忘録

そりゃメモ書きにきまってるさ

『拡がる環』(ロバート・B・パーカー:ハヤカワ・ミステリ文庫)

2014年04月28日 | 海外ミステリー
 <厳格な戒律の反動は小さくない>

 ストイックな人生観(?)を持つスペンサー・シリーズの10作目。
 紹介が前後した。
 
 このところ、どういう順で本を読んだのか分からなくなっている。
 コメントするのが面倒になって打っちゃってあるのも何冊かあるが、それもあわただしさゆえで、あわただしいというのは必ずしも物理的忙しさと比例するわけではない。
 たぶんに気分に左右されるものらしい。

 スペンサー君同様、身体的精神的に中年の危機にさしかかっているのかも知れぬ。

 ま、ともかく、11作目では、あらたにリンダというお向かいのビルで働いている女性とちゃっかりヨロシクやってしまうあたりが、スーザンとの間がすっきりいっていないくせして(何とか軌道に乗せたいという願望とは裏腹に)スペンサーのだらしなさである。
 まことにストイックである。
 そういう生き方を努力の末、習得したスペンサーが、それゆえにスーザンとの距離を生じせしめたにもかかわらず、息抜きというか逃げ道というか、ごくあっさりとはまりこんで、これにはさほどの葛藤を感じていないらしいのは、やっぱり、「てなもんや三度笠」だと、私が感じるゆえんなのである。
 変な意地を張り通さない、やせ我慢しないハード・ボイルドなんてのは、やっぱりお笑いじゃなかろうか。
 しかし、そのあたりに倫理観の平均水準があるのだとしたら、いや、だとしても、それはそれで私の知ったことではない。

 今回は、厳格なキリスト教信奉者である議員の妻が浮気場面をフィルムに収められて脅されているのをスペンサーが何とか助けるという趣向である。
 そこには裏世界が絡んで云々はお約束のパターンである。

 まあ、私としては、所詮、娯楽作品なのだから肩の力を抜いて減らず口を楽しめればそれで十分だと思っているような具合である。

『告別』(ロバート・B・パーカー:ハヤカワ・ミステリ文庫)

2014年04月28日 | 海外ミステリー
<マンネリを打破するにしても・・・>

 スーザンとの恋愛模様が中心に話が展開していくシリーズ11冊目の作品。
 前作から雲行きが唐突に怪しくなってきた二人だったが、今回は決定的になった。
 それはそれで、そこだけを取り出していけばそれなりに面白いのだが、どうも私の感覚にはしっくりこない。
 スペンサーとスーザンの双方の性愛倫理が。
 ばっさりいえば、勝手にやってくれ、なのである。
 あるいは、アングロ・サクソン風なのかもしれない。
 食い物が違うという気がしてならない。
 森林ベースの漁労採集文化と畑作牧畜ベースの文化との違いか。
 ま、1980年代の米国に固有のお悩み事だったのかもしれない。

 ま、ともかくも、これも誘拐話である。
 女性ダンサーが、カルト的宗教団体に拉致されたというわけでスペンサーがその奪還を依頼されるという出だしである。
 話は、二転三転して思わぬ方向に転がっていくが、260ページばかりの本に無理して詰め込んだ恨みがある。
 つまり、そのあたりのストーリーは、恋愛もののおまけのようにも読めてしまう。
 こういう流れは初期作品のうちにすでに萌芽があるが、息の長いシリーズ作品に、何がしかの形でリアリティを与えようとする企てのひとつとしては無理もない話しなのかもしれない。
 しかし、納得できないのは、しがない探偵の暮らしぶりの贅沢さである。
 これだけは、毎回、まったく説得力がない。
 いったいスペンサーの収入源はどうなっているのだろうか?

『痕跡』(アルジーン・ハーメッツ:講談社文庫)

2014年04月28日 | 海外ミステリー
 8歳の子供が家出し、変質者に誘拐される。

 近頃の児童誘拐・殺害事件を連想させる。

 違いは、子ども自身がプチ家出するという点。8歳では日本ではちょっと考えにくい。
 母親とその母の間の確執の存在や夫との離婚、さらに夫の新しい恋人との葛藤という点などは定番か。
 町内会組織のしっかりした日本でも隣近所が捜索に手を貸すというのは珍しいかもしれないが、この話では近隣家族がかなり協力的なのだ。
 また、ネットを利用した捜索(そういう使い方ができるように整備されているらしいのだが)を私人が行うことができるというのも興味深かった。
 
 物語は、捜索側(過去に誘拐された子供を救えなかったことを傷として背負っている敏腕刑事と地元警察のトップとの軋轢など)と犯人と誘拐された子供との「逃避行(?)」の二本立てで進行していく。

 私にとっては、読み足は決して早くはない。
 たぶん、ディテイル(野球カードに関する薀蓄など)はしっかりしているためであろう。
 それに児童誘拐というテーマ自体がエンタテインメントとしてはどうにも重いのだ。
 作品のメリットがどうも私とのそりを合わなくさせているらしい。

『死せるものすべてに』(ジョン・コナリー:講談社文庫)

2014年04月27日 | 海外ミステリー
<寓話が実話に戻ってしまった現代>

 赤頭巾ちゃんがおばあちゃんに化けた狼に食べられるというのは、本来無償の愛だったものが過保護になり、それがたたって子供がだめされてしまう寓意が込められているというのが後世の解釈のひとつだった。
 が、中世にはかなり残酷なことが公然と行われていたらしいことは、グリムが童話を編纂するに当たってかなり手を入れて子供向けの話に仕立てたということから逆類推できる。
 日本だって死体の始末を始めたのは江戸期になってからで、それまでは放置されていたらしいから、それを見て育った子供の心が「すさんで」もおかしくはない。
 
 しかし、これが現代に復活したようなお話が、このEVERY DEAD THING(原題)である。
 児童福祉にかかわる代表責任者が、児童虐待から殺害までを至高の嗜好とする変質者にして女性であったという設定や正義と秩序を守るべきFBIの特別捜査官がわが娘まで殺害してのける殺人マニアだったりするのである。
 保護者や庇護者が、たとえ話ではなく、文字通り危害や害悪を加える狼だったというわけだ。

 だとしても、語り継がれた昔話を本歌取りしたものを評価する伝統が欧米にはあるのだろうか。
 本作もシェイマス賞を受賞している。

 ともあれ、次々に人が惨殺され、その死に様が詳細に記述されていく。
 そういうのが嫌いな向きには、あまりお勧めできない。
 さらに難を言えば、やはり、殺人や裏切りにせよ、それへといたる過程の書き込みが少し足りない。
 上・下巻730ページ、けして短いお話ではないが、私としては、少し読み足りなさを覚えた。
 まあ、しかし新人の勢いは感じられないでもない。
 著者自身の経歴もなかなか興味深く、読み方を変えれば、自叙伝(むろん、そのままではないが)と言うこともできるかもしれない。

『航路』(コニー・ウィリス:ソニー・マガジンズ)

2014年04月27日 | 海外ミステリー
 <ビリーバーにユーモアはない>

 原題はpassage(通過)
 主たるテーマは臨死体験とは何か?
 ボリュームは、二段組で上・下合わせて800ページを超える。
 四分の三はスローペース名展開、残りはたちまち。
 ともあれ、なんだかあっという間に読まされてしまった。

 タイトル(原題)の意味を読了語じっくりと考えてみたくなる話である。

 気になったのは、臨死体験をどう捉えるにしても、全編に、私だけだろうが、閉塞感が付きまとう。
 おそらく(著者は無自覚的であろうが)すべてが(ひとつにはアナロジーとして)意識化されている(あるいはしようとしている)ためであろう。
 
 もっとも、創造的刺激を受ける人が少なくはないであろう。
 だから、そのあたりを書き始めると、同じくらい長い小説が一本できてしまうにちがいない。

 たとえば、死は未来に訪れるものと勝手に思い込んで日常を過ごしているのが一般であろうが、捉えようによっては、日々いや刻一刻と死を経験しているともいえるのである。
 だって、死も未来も存在していないのだから。
 一歩歩けば、一歩前の自分は存在していないのであれば、一歩歩くたびに実は死を体験しているわけだが、意識か記憶かの連続がそれを糊塗してしまっているのである。
 あるいは、すべてが時空ごとに存在していると考えることだってできないわけではない。
 この意味でどこまでも通過なのである。

 あるいは置忘れか。

 死について軽々しく語るということは、おおむね支持されることはないであろう。
 真面目そうな顔をして語るか作話するしかない。
 信じ込んでいる人というのはやっかいでユーモアをもたないからである。
 ま、この本はそのあたりを真面目にしゃれのめしているあたりが爽快だ。
 訳者は感動巨編というが、私はこれに組みしない。
 ともあれ、こういう通路を見せられたならば、人にもよろうが、次々と別の通路を思い浮かべてしまう奇妙な癖が私にはあるらしい。
 この意味で、なかなか読み応えのあるお話であった。