このブログで触れたこともある中藤毅彦氏よりメールを頂いた。
というか、先日展覧会来場のお礼状をご丁寧に頂いたので、そのお礼のメールを送り、ついでにこのブログのこともお知らせしたのだ。
私信なのでそのままここに書き写すわけにはいかないが、中藤さんの人柄をしのばせるような真摯で誠実なメールだった。特に、中藤さんは、自分ははっとさせられた事物に反応して写真を撮っているだけで、それはストーカー的な視点とは違うのだと書かれていて、それこそこのところぼくが痛感している事柄でもあったので、大いに頷きながら、かつまた悩みを深めてしまった。
前に被写体を追い求めて枚数を撮れなくなってしまうことがあると書いたけれど、これはつまりモノを追っているだけで、イメージに反応しているのではないということだ。
理想を言えば、やはり究極的にはモノもヒトも等しくイメージとして等価に反応できることがベストだろう。
人へのアプローチも、被写体を追った結果ではなく、イメージに反応した結果として自然に出来るようになりたいものだと思うのだ。もっとも、ぼくにとってそれが一番難しいことではあるのだけれど、こうやって試行錯誤しながら徐々に自分らしさを身に付けてゆくのが写真行為の楽しさであり、同時に辛さなのかも知れない。
というか、先日展覧会来場のお礼状をご丁寧に頂いたので、そのお礼のメールを送り、ついでにこのブログのこともお知らせしたのだ。
私信なのでそのままここに書き写すわけにはいかないが、中藤さんの人柄をしのばせるような真摯で誠実なメールだった。特に、中藤さんは、自分ははっとさせられた事物に反応して写真を撮っているだけで、それはストーカー的な視点とは違うのだと書かれていて、それこそこのところぼくが痛感している事柄でもあったので、大いに頷きながら、かつまた悩みを深めてしまった。
前に被写体を追い求めて枚数を撮れなくなってしまうことがあると書いたけれど、これはつまりモノを追っているだけで、イメージに反応しているのではないということだ。
理想を言えば、やはり究極的にはモノもヒトも等しくイメージとして等価に反応できることがベストだろう。
人へのアプローチも、被写体を追った結果ではなく、イメージに反応した結果として自然に出来るようになりたいものだと思うのだ。もっとも、ぼくにとってそれが一番難しいことではあるのだけれど、こうやって試行錯誤しながら徐々に自分らしさを身に付けてゆくのが写真行為の楽しさであり、同時に辛さなのかも知れない。