Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

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モンゴル便り(6)

2005-06-23 22:29:19 | モンゴル
22日、写真家渡部さとる氏を筆頭にモンゴル・ツアー参加者六名がウランバートルの空港から日本へ向けて飛び立っていった。7泊8日の短い旅だったが、それぞれが旅の内容の濃さに満足してくれ、旅をコーディネートした者としてもとても嬉しく思っている。

今回のツアーでは絶対演出なしの、生のモンゴルを体験して貰おうと思っていた。演出なしであるから、ツーリスト・キャンプを利用した以外は当然すべてホテルの予約もなしのリスク・テーキングな旅。ところが本来事前に何の予約も入れていない旅なのに、実際はイベント続出の毎日だった。

初日に草原でホーミー(二つの声を同時に出すというモンゴルの民族音楽)を聞いたのに始まり、壮麗な虹が出現するわ、横綱朝青龍のご両親と一緒に写真を撮らせてもらうわで、参加者の誰もが嬉しい悲鳴をあげていた。

そんな中で、今回のツアーのクライマックスは、やはり偶然出くわした遊牧民のゲルにお邪魔して一緒に酒を飲み交わし、歌を歌いあったことだろう。そこで出された料理もまた、今回のツアー中で一番味わい深かったはずだ。

モンゴルの伝統料理、中でもいわゆるもてなし料理の中にボートクとホルホグというのがある。この二つは良く似ていて、どちらも焼け石を使って肉を調理するのだが、ボートクが金属タンクにお湯と調味料、それに肉と焼け石を交互に入れて肉を蒸し焼きにするのに対し、ホルホグの方は肉を切り出した家畜の胴体に、やはり肉と焼け石を交互に入れて調理した後でさらに外側からバーナーで加熱するというところが違う。つまり、ボートクは金属タンクを使って家畜の肉を蒸し焼きに、ホルホグは家畜の胴体を使って肉を丸焼きにするのだ。

今回食べさせてもらったのは羊のボートクの方だった。当然のことながら、調理はまず家畜をし、解体するところから始まる。

ごくごく一般的に言って、ぼくら日本人は家畜をするシーンなどまずお目にかかったことなどないだろう。したがって、日本人旅行者の中にはシーンを正視できなかったり、泣き出してしまったりということも多くて、旅行社主催のツアーではこうしたプログラムは組み入れないのが普通だ。

ところが、恐るべしは2Bワークショップのメンバーで、何とこの人たちは目を背けるどころか食い入るようにシーンに瞠目し、あまつさえは断末魔の羊をモデルにしてバシバシ写真を撮り始める始末(笑)。

もちろん、モンゴル人にしてみれば、お客の目の前で家畜を・解体してみせるのは最高のもてなしであるから、この場合、どちらかと言えば2Bワークショップのメンバーの態度の方が正しい(とはいえさすがにあれだけ写真をばんばん撮っていたのには呆れていたけれど)。

調理が終わった後、草原の中で、モンゴル人とともに熱々の肉にむしゃぶりつき、肉のうま味あふれるスープを飲んだ時の、あの何ともいえないワイルドで、生きていることを実感できる充実したひとときは、恐らくツアー参加者にとって一生忘れられない想い出になったことだろう。

人間は生の存在であると同時に死の存在でもある。死を確かに実感した瞬間が、実は最も生を実感する瞬間でもあるわけだ。「生」を受け入れると同時に「死」を直視し、それを受け入れること。モンゴルのワイルドな料理は、ぼくたちが日常の中で忘れかけていた感覚を深く揺さぶり、呼び起こしてくれるのだ。

*渡部さとる氏のホームページhttp://www2.diary.ne.jp/user/178978/に関連記事あり。

モンゴル便り(5)

2005-06-14 19:32:07 | モンゴル
前回、15年前は手紙が一ヶ月後に届くこともあったと書いたら、一ヶ月どころか二ヶ月後に届けばいい方だったよね、と妻に指摘されてしまった。そういや、日本から送ってくれたバースデイプレゼントは結局手元に届かなかったっけ。厚みのあるものを封筒に入れておくるなというのが、当時の留学生同士の合い言葉になっていたのだった。

さてさて、いよいよ明日から写真家渡部さとる氏を始めワークショップ仲間総勢6名がモンゴルに襲来(?)する。明後日以降は下手をすると一日十時間以上車に乗り続けることになるので、今日は長旅に備えて買い物に。ところが、買い物は無事に終わったものの、それ以外はとんでもない厄日だった。朝から携帯が繋がらないわ、帰宅してみれば停電で飯が食べれないわ、おまけにトイレがぶっこわれて水漏れし、真下に住む住人が血相変えて乗り込んでくる始末。

幸いなのは天気が回復してくれたことくらいだろうか。昨日まではモンゴルにしては珍しくずっと雨模様が続いていたのだ。できればせめてモンゴル・ツアーの間だけはこのままいい天気が続いて欲しいと思う。初めてモンゴルを訪れる人たちには、爽やかに晴れ上がったモンゴルの青空が何よりもいい土産になるだろう。もちろん、その後には「砂嵐」という「おまけ」がつくかも知れないけれど。どうせツアーを任されたのなら、旅行社には絶対できない、一生忘れられないようなスリリングな旅にしなければと張り切っている。

モンゴル便り(4)

2005-06-10 15:10:32 | モンゴル
昨日、無事バヤンホンゴル県から戻り、いつも利用しているアパートにも落ち着いてとりあえずはほっとしている(それまでは諸般の事情で安宿での滞在を余儀なくされていたのだ)。しかもようやく自宅(?)からインターネットに接続できることになり、これでますますウランバートルでの滞在が快適になった。

思えば、ぼくがここに留学していた15年前。当時は国際電話をかけることすら一仕事で、本当に外界とは隔絶された孤島状態だった。何しろ面倒な手続きが必要な国際電話以外、ほとんど唯一の通信手段であった手紙ですら、いつ届くかはほとんど運を天に任せるような感じだったのだ。今となっては笑い話だが、毎週一通ずつ書いた手紙が一ヶ月後に四通まとめて日本に到着したなんてこともあって、大顰蹙を買ったものだった。

それに比べれば、今のモンゴルではウランバートルはもとより地方でも県都からであれば携帯から国際電話がかけられるのだから、やっぱり時代は変わったと言うべきだろうか。

もっとも、同じ地方でも県都から少し離れた田舎へ行けば事情はまったく違う。携帯がつながらないことはもとより、新聞、雑誌といった定期刊行物すらろくに届けられていない状態がずっと続いているらしいのだ。社会主義時代はそれでも国の政策によって、地方のすみずみまで新聞が届けられていたから、これでは民主化によって国が発展したどころか逆に退歩してしまったんじゃないかと言われても仕方がない。

バヤンホンゴルの県都からバーツァガーン郡へ向かう途中、ひとりの牧民の若者に出会った。彼はブーツの胴に挟み込んだ古新聞を大切そうに取り出して見せながらこう言ったものだ。

「だから俺らはこうやって一ヶ月前の新聞を捨てずに持ち歩いているわけさ」

ウランバートルが便利になればなるほど地方との格差が広がってゆくという矛盾。新しい大統領が選ばれたことでこんな状況が果たして変わるのだろうか。正直なところそれを信じている者はこの国では誰もいない。


モンゴル便り(3)

2005-06-04 16:46:06 | モンゴル
そう言えば前回「調査」に行く、と書きながら何の調査なのか書き忘れたので、バヤンホンゴルに行く前に書いておこう。

実を言えば、ぼくはある共同研究プロジェクトに関わっていて、そのプロジェクト名は「モンゴル映画の伝統と遺産継承~その現状と未来へ向けての提言」というもの。一応、プロジェクトの起案者及び責任者はぼく自身ということになっている。

これはあまり一般には知られていないことなのだが、かつてモンゴルは世界レベルの良質な映画を生産していた。だが、残念ながらこの古き良き伝統は失われ、今のモンゴル映画は率直に言って素人に毛が生えたくらいのものでしかないのが現状だ。

このモンゴル映画の凋落の大きな原因となったのが、皮肉なことに90年以降の民主化の流れだった。社会主義時代には映画製作から映画上映、配給まで国が管理をし、都市部はもとより遊牧民の元まであまねく映画上映が行われていたのである。

ところが、モンゴルが民主化されるに従い、映画産業は国の手を離れ、地方での映画上映は事実上ストップしてしまった。今では社会主義時代の映画上映に重要な役割を担っていた移動映写技師たち(彼らはラクダやトラックに映写機とフィルムを積んで遊牧民の家で映画上映をしていたのだ)は職を失い、多くは遊牧民やボイラー夫となって生活を立てている始末である。

このプロジェクトはそんなモンゴルの映画環境を調査し、インタビュー調査や資料収集を通じてモンゴル映画の伝統を保存し、その復興に寄与しようというものだ。

活動の成果としては、記録映画の製作をはじめ、資料集及び論集の刊行をめざすという(やる気だけは)とにかく壮大なプロジェクトなのである。

このプロジェクトに関わっている人々の国籍も実にバラエティに富んでいる。メンバーにはモンゴル人や日本人はもとより、フランス人やアメリカ人まで加わっての大所帯。

そして今日、ぼくが今回モンゴルに着いてから最初の合同打ち合わせがあったのだけれど、今度はとうとうドイツ人までメンバーに加わることになってしまった。こういう時の共通言語はもちろんモンゴル語。ドイツ人の彼女はあまりモンゴル語はうまくないようだけれど(それでも片言のモンゴル語とべらぼうにうまい英語を話すからすごい)、こういう時に通訳できる人間がメンバーの中にいるところも何だかすごい。

ところでこの彼女、その可憐な顔立ちとは裏腹に結構経歴が変わっている。ドイツで高校を卒業した後、どうした気まぐれか香港の大学に進学、その後スターTVなどで映像カメラマンを勤めた後に、韓国へ。そしてさらにはモンゴルにやってきてフリーランスのカメラマンとして活動しているというのだ。彼女にどうしてドイツの大学に進学せずに香港なんかに行ったのさ、と訊ねたところふるった答えが返ってきた。

「だって行きたかったんだもん」

うーん、納得したような納得しないような(笑)。それにしても今でも若い(どうみても20代末から30そこそこにしか見えない)彼女が18かそこらで海外に行き、そのままアジアを転々とするのは並大抵の根性ではできないだろう。

モンゴルという辺境(?)の地を通じて、色々な国の人間と出会える。これこそ今回のプロジェクトの貴重な副産物に違いない。

モンゴル便り(2)

2005-06-04 11:48:02 | モンゴル
今日はまたちょっと肌寒い天気。どんよりと曇ってどこかウランバートルの風景も物寂しい。

ところがぼくは、この物寂しいモンゴルの景色というやつが結構好きだ。

晴れの日にはスカッとした青空が広がり、それはそれで良いのだけれど、どこか牧歌的で、何を撮っても能天気な写真にしかならない気がする。それに比べて天気の悪い日にはこれが同じモンゴルかと見まごうほどに晴れの日とはまた異なった風景が現出する。うら枯れて人生の悲哀を感じさせるようなモンゴル的エレジーの世界。

ちなみに、ぼくは不謹慎ながら「嵐」も大好き。台風なんか近づいた日にはもうワクワクしちゃって早くこっちに来ないかなーなんて思っていたりする。ほんっとうに不謹慎だけれど、「嵐」にはどこか人間の根底にあるプリミティブな欲望を揺さぶるようなところがないだろうか。

もちろん、モンゴルには台風はないのだが、地方に行けば「吹雪」や「砂嵐」になら結構遭遇する。昨年、11月にドンドゴビ県に行った際、待望(?)の「吹雪」に遭遇した。その後立ち寄った町で、モンゴル人にその話をし「で、モンゴルの吹雪はどうだった?」と聞かれたので「いやー、すっごい楽しかったよ」と答えたら、一瞬あきれたような顔をされ、ついで爆笑されてしまったけれど。

明日からはウランバートルの南西に位置するバヤンホンゴル県に調査に行く。今回は4泊5日の短い旅行だが、実は「砂嵐」が多いゴビ地方にも近い土地。さて、「吹雪」に続いて今度は「砂嵐」に遭遇できるかどうか、何だか楽しみになってきた。

モンゴル便り(1)

2005-06-03 15:32:39 | モンゴル
 今週の月曜日、無事モンゴルに到着。なんとか日本語でインターネットに接続できる環境を確保したので暇を見てこうしてつらつらとモンゴルネタを書いている。

 それにしても、モンゴルの気候というのは変わりやすい。到着したのが5月末だったのでもうだいぶ暖かいだろうと思いきや、ウランバートルの空港に到着したぼくを待っていたのは日本の3月並の寒さである。で、思わずフリースなどを着こんでしまったのだが、その翌々日にはもう夏日という始末(笑)。おまけに昨夜は思わず台風が来たのかと思ってしまうような強風が吹き荒れていた。普通ウランバートルに強風が吹き荒れるのは4~5月なのだが、やっぱり異常気象はここモンゴルにも及んでいるらしい。

 ところで話は変わるけれど、モンゴルに30日以上滞在する場合は外国人登録をすることが義務付けられている。おまけにいったん登録した人間は帰国前に登録を抹消せねばならず、これを怠ると飛行場で出国させて貰えないという恐ろしい事態に陥ってしまうのだ(実を言うとぼくは二年前にこれをやってしまい、危うく本当に足止めを食うところだった)。

 そこで登録申請書に必要な証明写真を撮りにDPEに。さすがに最近のモンゴルは進んでいてデジカメで撮影してその場ですぐにプリントしてもらえる。ところが、その場で思いもがけず旧友に再会してしまった。この友達はぼくが留学時代から付き合いがある奴だから、もうかれこれ知り合って15年になる。ちょうど昨日彼に連絡を取ろうとして携帯がつながらなかったところだったので、実にグッドタイミングであった。道を歩けば知り合いに出会うというモンゴル的空間の狭さがこういった時ばかりはありがたい。

 ところがこの友達、聞けば過労で体を壊して入院中だとか。あのねえ、入院中って言うけど、こんなところでうろうろしている奴を入院中とは言わんだろーが。といってもやっこさんはにやにや笑っているばかり。そういや去年の夏にモンゴルで一緒に飯を食ったときも、実は入院中、なんて言ってったっけ。モンゴルの病院ってそんなに簡単に患者を外に出してくれるのか。いやいや謎は深まるばかりである。