Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

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波動

2006-08-06 22:48:16 | 写真全般
 本日は六時間ぶっ通しでプリント作業。個展会場に置いてあったブックを完成させるのが目的だが、32枚まで出たところで師匠に見てもらう。「もうこのレベルまで来れば、あとはこの作品に感じてくれる人を捜すことだね」と言われ、少し(心の中で)ホロリ、と来る。

 今週は心の震えた一週間だった。

 人の心は波動を持っているというのが、ぼくの持論だ。誰もが波動を持っていて、それが時に干渉し、時に反発しあいながらその連鎖が波紋のように広がってゆく。喜び、怒り、悲しみ、愛情、嫌悪、あらゆる感情がその過程で生まれてゆくが、たとえ百の傷を負ったとしても、ひとつのささやかな喜びが生まれさえすれば、人と関わって行く意味はあるのだと思う。

 ぼくは今まとめているシリーズにMarginal Land(マージナル・ランド)というタイトルをつけた。「マージナル・ランド」とは「不毛の土地」という意味だが、「マージナル」には「境界的な」あるいは「メインストリームから外れた」と言った意味もある。マージナルであることは、不毛であると同時にメインストリームに吸収され得ないがゆえの秘めたる可能性を持っていることを意味しているのだ。

 モンゴルの土地は不毛だが、その彼方にはかすかな希望の光が見える。その光の美しさを信じながら、最後まで作品をまとめきりたい。

「聴き合う場」ということ

2006-08-04 18:42:15 | アート全般
 前回、華道家喜苑さんの作品について触れたら、わざわざご本人からお礼の電話を頂いた。ぼくとしては華道の「か」の字も知らないままにいい加減な印象を書いてしまったようでむしろ申し訳ない気持ちであったのだが、あんなに感激されて、逆にこっちの方が感激したくらいだった(笑)。

 彼女によれば、「こんな風に文章できちんと書いて頂いたことがなかったので……」ということだけれど、そう言われてよくよく考えるに、確かに日本ではまだ駆け出し中の作家をきちんと紹介してゆく批評空間が確立されていないような気がする。

 一応、ぼくは某大学院で表象文化論を専攻していることになっていて、本来なら「映画論」やら「写真論」といった「○○論」は得意ではあるのだが、どうもアカデミックな場における「○○論」は論じ手が論に婬すると言った趣があり、そのマニアックなあり方にどうしても社会的な意義を見いだせずにいたのだ(ぼくが写真の制作という「実践」に移行した理由のひとつがそれだ)。だが、もしもアカデミックな場で身に付いた批評スキルを実際の社会で活路を見出そうとしている作家たちの活動の後押しとして活用できたらどうだろう。

 もちろんこのブログで書き散らしていることはいわゆる雑文の類であって、きちんとした評論ではないし、一般向けに書いているため昔ぼくが書いていた批評文よりも一割ほど、論文に比べると三割ほど柔らかい文章になっている。だが、批評としての体裁はともかく、一応、読ませる日本語できちんと(様々なジャンルの)作家たちの活動を紹介してゆくことは作家本人にとってはあるいは結構な励みになることなのかも知れない。そう考えると、ささやかながら、自分のスキルを多少なりとも世間に役立たせることができるのではという気がしてきた。

 ところで、少し話は変わるけれど、批評空間云々のこともそうだが、喜苑さんと話をしていてしばしば話題になったのは日本の文化的貧困さについてである。確かに日本、とりわけ東京は文化に溢れている。その気になればほとんど世界中の映画が観られるし、毎日どこかで大規模な展覧会が開かれてもいる。しかしながら、それでもどこかに日本の文化的土壌の貧困さを感じてしまうのは、要するに人々の意識の問題なのだと思う。

 日常の生活の中にアートを見るということが根づいていないこと。だがそれは、一般の人々の意識の問題であると同時に作家同士の問題でもあるだろう。これだけ写真ブームであるのに写真を見るブームにはなっていないという事実。聞けば、最近の若い写真家の卵たちは有名ギャラリーに行ったこともなく、友達の個展にすら行くことをしないのだという。

 そうした内向的で閉塞的な文化状況を少しでも良くして行けないかと考えたとき、ぼくが思ったのは柔軟な頭を持った様々なジャンルのアーティストが相互に交流できるような「サロン空間」を作れないかということであり、それを喜苑さんは「聴き合う場」と呼んだ。

「聴き合う場」とは彼女らしい、しなやかな和のテイストを含んだ優しい言葉だと思う。「サロン空間」と呼んでしまうと、何だか難しい顔をして論議に耽っているようなイメージがあるけれど、「聴き合う場」という言葉には論議や芸術談義といった堅苦しいニュアンスはまったくない。「自分が」話すのではなく、「相手の」話に耳を傾けるということ。それは相手に対するリスペクトとそこから刺激を受けようと言う姿勢がなければできないことだ。その意味では「聴き合う場」とは交流のための「空間」ですらないのかも知れない。それはそのような「聴き合い」が可能になるような人間関係の連鎖なのだと思う。

 ひとつのちょっとした偶然からひとつの「聴き合う場」が生まれ、それをきっかけにして少しずつ「聴き合う場」の連鎖が広がってゆく。それが、この閉塞的な文化状況を少しずつ変えてゆく、ひょっとしたら唯一の希望なのかも知れない。