昨日は草月流生け花の合同展を見に池袋へ。先日ぼくの個展に来てくれた華道家喜苑さんも出品している。別に個展に来てくれたお返しに、というつもりではないのだが、昨年のモンゴル展、今年の個展と、こちらの「展」には二度も来てもらっているにもかかわらず、彼女の作品は今までブックの中でしかお目にかかったことはなかった。ぜひ一度実物を見てみたいというのがかねてからのぼくの思いでもあったのだ。
DMには会場が自由学園明日館の「講堂」とあったので、展示会場としては妙なところでやるなと訝しく思っていた。だが、会場に一歩足を踏み入れるや、意外にすんなりとその意味を納得してしまった。いわゆるギャラリースペースに整然と作品が展示してあるのではない。作品である「生け花」が、窓際や柱などにまるでツタを絡めるように配置されていて、「講堂」としての機能を失わないよう、建物と作品が絶妙に一体化されているのだ。DMには「催し物」として「ソプラノコンサート」とあったけれど、なるほどそういうことだったのね、とようやく腑に落ちた次第である。
さて、肝心の彼女の作品だが、これはもう一目でそれと分かるものだった。ブックで見せて貰っていた「白い豆」のシリーズ、その新作だ。
「白い豆」のシリーズは、ぼくらが抱いている「生け花」のイメージとはまるでそぐわない「異形」(?)の作品群だ。何しろ作品の主体が「花」でもなければ「草」ですらなく、床面に直に敷き詰められた無数の「白い豆」の集合体なのだから。事実、ブックで見せて貰っていた作品はほぼ「白い豆」のみで構成されていて、見る人が見れば、生け花というよりも現代芸術のインスタレーションと思うだろう。
それが今回の展示では例外的に、円形に敷き詰められた白い豆の片隅に、まるで砂漠の中のオアシスのように草花が配置されていて、それが絶妙なアクセントになっている。その草花のお陰で、「生け花」を期待して見に来る人にはより親しみを持てる風景になっており、それは必ずしも作者本人の思いと一致しているわけではないらしいのだけれど(笑)、少なくとも合同展として見る限り、その草花が、周囲の「生け花」作品と拮抗する力を「白い豆」に与えていてとても見応えのある作品に仕上がっていたように思う。何の変哲もないただの「豆」を空間的に配置しコンセプトを与えることで、そこに新たな生が吹き込まれる。そのあり方は何気ない風景をフレームで切り取ることで新しい風景を現出させる写真のあり方とどこか通じるものがあるような気がして非常に興味深かった。
ところで、先ほどぼくは「砂漠」と書いたけれども、「写真」と「生け花」の接点についてつらつらと考えていたときにふいに思い浮かんだのが、実は砂丘を愛した写真家植田正治のことだった。植田は砂丘に人物やら静物やらを配した独特なシュールな作風で有名な写真家だが、そう言えば草月流の家元勅使河原宏は、映画『砂の女』で有名な映画監督でもあった。
それはともかく、「生け花」と聞いて植田を連想してしまったのは、モンゴル展で喜苑さんに「白い豆」シリーズのブックを見せられていたからかも知れないし、あるいはまた最近のぼくの写真が荒野をテーマとして展開して来ていることとも関係があるのかも知れない。しかしいずれにしても、会場で彼女の作品の傍に置かれていた雅号入りのプレートの背景写真がこれまた砂丘のイメージだったことは、何かの縁というか、ある種の「流れ」のようなものを感じさせて不思議な気分だった。聞けば、そのプレートを制作したのは、ぼくが彼女に植田や砂丘のことを告げるよりもだいぶ前の話だったのだそうだ。
喜苑さんとはその後昼食をご一緒しながらまたあれこれと話をさせて頂いたが、アートや創作活動について(ジャンルを問わず)、自分と同じ「強度」を持って話ができる相手というのは今のぼくにとってはとても貴重な存在になっている。お陰で今考えるとだいぶ失敬なことも言ってしまったような気がしているけれど(笑)、それも相手をリスペクトしているからこその物言いなのだと、まあ、多少の言い訳も含めてそう思っているわけです。
DMには会場が自由学園明日館の「講堂」とあったので、展示会場としては妙なところでやるなと訝しく思っていた。だが、会場に一歩足を踏み入れるや、意外にすんなりとその意味を納得してしまった。いわゆるギャラリースペースに整然と作品が展示してあるのではない。作品である「生け花」が、窓際や柱などにまるでツタを絡めるように配置されていて、「講堂」としての機能を失わないよう、建物と作品が絶妙に一体化されているのだ。DMには「催し物」として「ソプラノコンサート」とあったけれど、なるほどそういうことだったのね、とようやく腑に落ちた次第である。
さて、肝心の彼女の作品だが、これはもう一目でそれと分かるものだった。ブックで見せて貰っていた「白い豆」のシリーズ、その新作だ。
「白い豆」のシリーズは、ぼくらが抱いている「生け花」のイメージとはまるでそぐわない「異形」(?)の作品群だ。何しろ作品の主体が「花」でもなければ「草」ですらなく、床面に直に敷き詰められた無数の「白い豆」の集合体なのだから。事実、ブックで見せて貰っていた作品はほぼ「白い豆」のみで構成されていて、見る人が見れば、生け花というよりも現代芸術のインスタレーションと思うだろう。
それが今回の展示では例外的に、円形に敷き詰められた白い豆の片隅に、まるで砂漠の中のオアシスのように草花が配置されていて、それが絶妙なアクセントになっている。その草花のお陰で、「生け花」を期待して見に来る人にはより親しみを持てる風景になっており、それは必ずしも作者本人の思いと一致しているわけではないらしいのだけれど(笑)、少なくとも合同展として見る限り、その草花が、周囲の「生け花」作品と拮抗する力を「白い豆」に与えていてとても見応えのある作品に仕上がっていたように思う。何の変哲もないただの「豆」を空間的に配置しコンセプトを与えることで、そこに新たな生が吹き込まれる。そのあり方は何気ない風景をフレームで切り取ることで新しい風景を現出させる写真のあり方とどこか通じるものがあるような気がして非常に興味深かった。
ところで、先ほどぼくは「砂漠」と書いたけれども、「写真」と「生け花」の接点についてつらつらと考えていたときにふいに思い浮かんだのが、実は砂丘を愛した写真家植田正治のことだった。植田は砂丘に人物やら静物やらを配した独特なシュールな作風で有名な写真家だが、そう言えば草月流の家元勅使河原宏は、映画『砂の女』で有名な映画監督でもあった。
それはともかく、「生け花」と聞いて植田を連想してしまったのは、モンゴル展で喜苑さんに「白い豆」シリーズのブックを見せられていたからかも知れないし、あるいはまた最近のぼくの写真が荒野をテーマとして展開して来ていることとも関係があるのかも知れない。しかしいずれにしても、会場で彼女の作品の傍に置かれていた雅号入りのプレートの背景写真がこれまた砂丘のイメージだったことは、何かの縁というか、ある種の「流れ」のようなものを感じさせて不思議な気分だった。聞けば、そのプレートを制作したのは、ぼくが彼女に植田や砂丘のことを告げるよりもだいぶ前の話だったのだそうだ。
喜苑さんとはその後昼食をご一緒しながらまたあれこれと話をさせて頂いたが、アートや創作活動について(ジャンルを問わず)、自分と同じ「強度」を持って話ができる相手というのは今のぼくにとってはとても貴重な存在になっている。お陰で今考えるとだいぶ失敬なことも言ってしまったような気がしているけれど(笑)、それも相手をリスペクトしているからこその物言いなのだと、まあ、多少の言い訳も含めてそう思っているわけです。