Feel Free ! アナログ・フォト・ライフ Diary

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白い豆のある風景

2006-07-31 10:47:08 | アート全般
 昨日は草月流生け花の合同展を見に池袋へ。先日ぼくの個展に来てくれた華道家喜苑さんも出品している。別に個展に来てくれたお返しに、というつもりではないのだが、昨年のモンゴル展、今年の個展と、こちらの「展」には二度も来てもらっているにもかかわらず、彼女の作品は今までブックの中でしかお目にかかったことはなかった。ぜひ一度実物を見てみたいというのがかねてからのぼくの思いでもあったのだ。

 DMには会場が自由学園明日館の「講堂」とあったので、展示会場としては妙なところでやるなと訝しく思っていた。だが、会場に一歩足を踏み入れるや、意外にすんなりとその意味を納得してしまった。いわゆるギャラリースペースに整然と作品が展示してあるのではない。作品である「生け花」が、窓際や柱などにまるでツタを絡めるように配置されていて、「講堂」としての機能を失わないよう、建物と作品が絶妙に一体化されているのだ。DMには「催し物」として「ソプラノコンサート」とあったけれど、なるほどそういうことだったのね、とようやく腑に落ちた次第である。

 さて、肝心の彼女の作品だが、これはもう一目でそれと分かるものだった。ブックで見せて貰っていた「白い豆」のシリーズ、その新作だ。

 「白い豆」のシリーズは、ぼくらが抱いている「生け花」のイメージとはまるでそぐわない「異形」(?)の作品群だ。何しろ作品の主体が「花」でもなければ「草」ですらなく、床面に直に敷き詰められた無数の「白い豆」の集合体なのだから。事実、ブックで見せて貰っていた作品はほぼ「白い豆」のみで構成されていて、見る人が見れば、生け花というよりも現代芸術のインスタレーションと思うだろう。

 それが今回の展示では例外的に、円形に敷き詰められた白い豆の片隅に、まるで砂漠の中のオアシスのように草花が配置されていて、それが絶妙なアクセントになっている。その草花のお陰で、「生け花」を期待して見に来る人にはより親しみを持てる風景になっており、それは必ずしも作者本人の思いと一致しているわけではないらしいのだけれど(笑)、少なくとも合同展として見る限り、その草花が、周囲の「生け花」作品と拮抗する力を「白い豆」に与えていてとても見応えのある作品に仕上がっていたように思う。何の変哲もないただの「豆」を空間的に配置しコンセプトを与えることで、そこに新たな生が吹き込まれる。そのあり方は何気ない風景をフレームで切り取ることで新しい風景を現出させる写真のあり方とどこか通じるものがあるような気がして非常に興味深かった。

 ところで、先ほどぼくは「砂漠」と書いたけれども、「写真」と「生け花」の接点についてつらつらと考えていたときにふいに思い浮かんだのが、実は砂丘を愛した写真家植田正治のことだった。植田は砂丘に人物やら静物やらを配した独特なシュールな作風で有名な写真家だが、そう言えば草月流の家元勅使河原宏は、映画『砂の女』で有名な映画監督でもあった。

  それはともかく、「生け花」と聞いて植田を連想してしまったのは、モンゴル展で喜苑さんに「白い豆」シリーズのブックを見せられていたからかも知れないし、あるいはまた最近のぼくの写真が荒野をテーマとして展開して来ていることとも関係があるのかも知れない。しかしいずれにしても、会場で彼女の作品の傍に置かれていた雅号入りのプレートの背景写真がこれまた砂丘のイメージだったことは、何かの縁というか、ある種の「流れ」のようなものを感じさせて不思議な気分だった。聞けば、そのプレートを制作したのは、ぼくが彼女に植田や砂丘のことを告げるよりもだいぶ前の話だったのだそうだ。

 喜苑さんとはその後昼食をご一緒しながらまたあれこれと話をさせて頂いたが、アートや創作活動について(ジャンルを問わず)、自分と同じ「強度」を持って話ができる相手というのは今のぼくにとってはとても貴重な存在になっている。お陰で今考えるとだいぶ失敬なことも言ってしまったような気がしているけれど(笑)、それも相手をリスペクトしているからこその物言いなのだと、まあ、多少の言い訳も含めてそう思っているわけです。

復旧しました(その2)

2006-07-28 20:27:05 | もろもろ
 あれから試行錯誤したところ、どうにかウイルスセキュリティーとホームページビルダーを共存させることができるようになった。やり方はホームページビルダーのアップロードの送信設定でパッシブモードをオンにするだけ。

 これで新しくセキュリティーソフトを導入する必要はなくなった。ウィルスセキュリティーはWindows Vistaの公式サポート終了まで更新料無料で使えるので、まあお得ではある。良かった、良かった。

復旧しました

2006-07-27 22:58:27 | もろもろ
 ここしばらく本家サイトの方がアクセスしてもブランクページになってしまっていましたね。すみません。

 もとはと言えばソースネクストのウィルスセキュリティーを入れたのが原因で、ホームページビルダーでサーバーにアクセスしようとしてもできない状態が続いていた。おまけにふとした拍子にサーバーにアップしてあったコンテンツがまるごと消えてしまい、これはサーバー側の問題なのだろうかとしばらく様子を見ていた次第である。結局、ウィルスセキュリティーを削除し、ホームページビルダーでコンテンツを再アップしたところ何とか復旧することができた。

 しかしなー、ウィルスセキュリティーのサポートページには何も書いてないというのはいかがなものだろうね。他での情報によれば、ウィルスセキュリティーをインストールした状態でも、ホームページビルダーでアップロードする際にいちいちすべての機能をオフにすれば一応共存可能ならしいが、それも面倒だし。更新料無料というのに惹かれて購入してみたのだが、他のソフトに切り替えるかどうか思案のしどころである。

プリント難民

2006-07-25 23:21:03 | 写真全般
 個展が終了して以来、プリントがうまく行かなくて困っている。

 自動現像機の現像液を入れ替えたらカラーの色設定ががらりと変わってしまい、未だに以前の色を出すことができないでいるためだ。

 そもそも、モンゴルから帰ったときにも、ハロゲンランプ変えたから設定変わったよ、と師匠に言われて慌てたのだが、その時は案外、すんなりとぴったりの色設定を見つけられた。ところが、今回は何度フィルターを操作しても以前のようにパンチのある色合いになってくれない。しかも、暗室使用は三時間と限られているから、どうしても中途半端な色合いで妥協してしまう。

 販売作品のプリントも仕上げなくちゃならないし、個展会場に置いてあったブックもまだ完成はしていない。今週末でなんとか切りをつけたいが、それまで悶々とした日々が続くのかと思うとちと気が重い……。

新潮文庫カバー写真

2006-07-12 18:06:22 | 写真全般
 まったく唐突であるが、新潮文庫のカバーにぼくの写真が使われることが決まった。

 もっとも、イラストと組み合わされての使用であるので、イラストが主、ぼくの写真の方は単なる背景のイメージとして使われるだけ。従って写真の方も、単体で作品として成立しているものではなく、恐らくは個展や写真集ではセレクトから漏れてしまうであろう、抽象的でシンプルなイメージのものが選ばれた。

 そもそも事の発端は、先日終わった個展に新潮社の装幀室の方が来廊されたことから始まっている。聞けば、井上靖のロングセラー『蒼き狼』の新装版が近々刊行されることになったので、とりあえず写真を見せて貰えないだろうか、ということだった。なんでも、インターネットの検索でたまたまぼくの個展のことを知り、わざわざ訪ねて来てくれたらしい。

 ただし、「こちらのイメージと合うものがなければちょっと、ということになるかも知れませんし、使用させて頂くにしても、イラストと組み合わせることは決定事項なので、あくまで背景のイメージとしてですが、それで良ければ……」とも言われたが、まあ『蒼き狼』と言えばロングセラー。一度カバーに使用されれば、次の新装版が出るまでぼくの写真と名前入りの文庫本が書店に並ぶわけである。しかも、ちゃんとギャラも出るし(←ここがポイントね)、デメリットはないので快諾することにした。

 で、先日何枚かベタをお渡ししたところ、その中の一枚が選ばれた、という次第。ただ、さすがにイメージとして、というだけあって、正直この写真じゃモンゴルじゃなくても撮れるよなあ、とか、別にぼくの写真じゃなくてもいいよなあ、と思わなくもなかったけれど、見せられたラフデザインそのものは確かにかっこいい。この辺はひとえにデザイナーの力によるところが大きいと思う。

 ちなみにすでに新装版が刊行されている同じ著者の『敦煌』は、カバーに野町和嘉氏の写真が使われている。もちろん、こちらは写真主体のものですけどね(笑)。
 

再春館ギャラリーの閉廊

2006-07-10 00:17:51 | 写真集・写真展
すでにご存じの方も多いと思うが、ぼくが個展をやった再春館ギャラリーが先月末で閉廊になった。予め承知していたことであったので、今さらショックというほどのことはないのだが、初個展を開催したギャラリーがなくなってしまうというのはやっぱり寂しい。

個展に来てくれた人たちは良く分かると思うのだけれど、再春館ギャラリーはとても居心地の良い空間だ。特に、ぼくは土日の昼に一番でやって来てブラインドを開ける瞬間が楽しくてならず(平日は再春館の人が開けてくれるのでその楽しみを味わうことができなかったけれど)、ほとんどその楽しみのためだけに往復900円かけて品川まで通っていたようなものだった。人気のない朝のギャラリーに、パッと電気が点り、その瞬間、自分の作品たちが急に生気を帯びたように生き生きと見え始める。それはまるでリハを終えてあとは開場を待つだけとなったコンサートホールのようで、がらんとした空間にそこはかとない緊張感が漂っている。

最初の平日はなかなか人が来てくれなくて、そんな時はこのギャラリーで個展を開いたのは間違いだったのではと思いもした。だが、いま振り返ってみると、やはり初の個展をメーカー系のギャラリーではなく、こうしたこじんまりとはしているが、落ち着いた雰囲気のある小さなギャラリーでやることができたのはとても幸運だったという気がしている。

メーカー系のギャラリーは確かに人出が多く、作品が沢山の人の目に触れるというメリットはある。だが、逆にこの人の多さというのが問題で、あまりに人が多いとほとんどの人とはろくに話もできずに終わってしまうことになる。個々の来訪者とゆっくり話そうと思えば、一日10人~15人程度入ってくれるのがベストではないだろうか。

その点、最終的に今回の個展は11日間で100名だったから、だいたい一日平均で9~10名くらい入っていた勘定になる。おまけにメーカー系ギャラリーとは違い、飲食禁止といった制限もないから、来廊者とはお茶やお菓子を食べながらゆっくりとお話しすることができた。その経験が、ぼくにとっては何よりも貴重であったし、恐らくは今後のぼくの活動にも大きな影響を及ぼしてゆくことだろう。

もちろん、前述したようにメーカー系ギャラリーの人出の多さには他の欠点に目をつぶりたくなるような魅力があることは事実だ。だから、ぼくにも、少なくとも一回はメーカー系ギャラリーで個展をやってみたいという希望はある。だが、一回だけで十分だ。あとはこじんまりとした落ち着いたギャラリーで、空間を愛でるように個展を開いてみたい。そんな夢を叶えてくれるギャラリーは本当に貴重だが、それがまたひとつなくなってゆく。

再春館ギャラリーの再開を心待ちにしている人は決してぼくだけではないはずだ。

個展を終えて(まとめ)

2006-07-08 19:04:52 | 写真集・写真展
 個展が終わってはや一週間が過ぎ、ここ数日は芳名帳に住所を残して行ってくれた人たちに向けてお礼状を書いたり、会期中に行きたくても行けなかった写真展を見たりしながら、今回の個展についてつらつらと思いを巡らせていた。

 ごくごく包括的に言ってしまえば、今回の初個展であまり悪い評価は聞かれなかった、と思う。もっとも、人の個展へ行って批判だけして帰ってくる人の方が珍しいわけで、その意味では見に来てくれた人たちの中でも沈黙こそが最大の批評だったとも言えるだろう。

 ただ興味深いのは、見に来てくれた人たちの中でもその好みにはっきりとある種の傾向が見て取れたことだ。

 例えば、全般的には比較的若い人たち(20代から30代半ば)の方が好意的な意見が聞かれたし、小サイズにまとめた冬のシリーズと大全紙に焼いた夏(もしくは春)のシリーズでは、もうまったくと言って良いほど意見は分かれた(ある人には「夏のシリーズ、いいですねえ」と絶賛され、また別の人は「小さい方が面白いですね」ときっぱり言われた)。もっとも、これは予め予想されたことであって、今回の個展ではまったく対照的な夏と冬のモンゴルを意識的にひとつの空間に押し込めてみたのだ。夏のモンゴルの陽射しはとても強烈で叙情のかけらもないが、それとは逆に冬のモンゴルの陽射しは柔らかで、どう撮っても叙情的になってしまう。だから、かなり大ざっぱな言い方をするなら、写真に叙情的な要素を求める人(写真系の人)は冬のモンゴルに共鳴するだろうし、逆に写真に情緒よりも感覚的なものを求める人(コンポラ系の人)は夏のシリーズに共鳴するのだと思う。

 さらに面白かったのは大全紙に焼いた馬の「鞍」の写真で、この写真にはかなりの男性が好意的に反応してくれたのに対し、女性にはまったく無視されるという有様(笑)。色々聞いてみると、男性は鞍の使い古された雰囲気に男心をそそられるが、女性はただの「鞍」以上にイメージを膨らませることができないのだとか。

 もっとも、じゃあ作者はどうなんだと言われれば、ぼくとしてはこの「鞍」の写真を「鞍」として撮ったつもりは毛頭なくて、ただただ馬の色と鞍の形態(パターン)に反応して撮影しただけなのだ。従って、その意味ではこの写真は風景を写したその他の大全紙シリーズと同列に論じられるべきものであって、それがこうした「異色」の反応を引き起こしてしまったのは、やっぱり展示の仕方にどこか無理があったのだと言わざるを得いないだろう。

 本当は、同じような「鞍」の写真を30枚集めて、それだけで個展をやって見ても面白いかなと思ったりしているのだが、まあ、それはだいぶ勇気がいることだよねえ。そんなわけで、とりあえずは無難なイメージを選びながら、なおかつ叙情をできる限りそぎ落とした(しかしすんでの所でほんのわずかに叙情を残した)作品で次の個展をやってみたいと思っている。