3月16日
出発日に自分の行く場所を発表されました。
「あなたは陸前高田」
被害の大きかった岩手県の陸前高田への医療班を告げられ空路で移動。
先輩たちは福島、宮城とそれぞれチームが分かれました。
東京の病院から各チームごと
点滴、薬、包帯、湿布、オムツ、ナプキン、ガーゼ、マスクetc
1万単位の数であらゆる物流手段で移送。
一万個、一万本、一万枚がこの後全然数が足りないことも知らないまま。。。
いつも仕事で着ている白衣ではなくジャージのようなスモッグにNURSE・看護師と印字されたユニフォーム。
空から見ても栃木を越えたあたりかな?
福島上空になると屋根が壊れた家や街並みが増えてくる。原発も見ました。
指揮官ドクターに「海沿いをずっと見ていくと分かるよ」「あれが仙台市内かな」
お友達が住んでいる、何回も行ったことがある仙台の街並みが一変していました。
みんなから「無事」や「大丈夫」メールをもらったけど、
大丈夫じゃないじゃんと
やるせない思いです。
上空から仙台市内の様子を教えてもらうたびに
次第に無口になってく機内。
次第に岩手の三陸地方の街並みに。
足がすくむ思いでした。
まるで水に浸かった焼け野原です。
他人事に聞こえるかも知れないけど「これが日本なんだ、東京からもそこまで離れていないのに」と
これから自分が向かう場所がすごく怖く感じました。
それと同時に
自分は足手まといにならないか不安な気持ちも強くなっていきました。
現地に到着するとそんな不安な気持ちになっていられないくらい過酷な毎日が待っていました。
現地に比べれば全然ましです。
ましてや現地の状況を細かく伝わるものは無く
生の声は伝わりにくかったのですが
細かな情報を知れるブログとして拝見させて頂いております。
まだまだ大変な状況ですが今後のご活躍とご検討をお祈りいたすと共に一刻も早い復旧を目指すように心がけたいと思います。
私は薬学生です。
私も被害は屋根や塀が崩れる程度しかありませんが被災地にいました。
1の『想像以上に~迷惑や嫌味だからね』
この言葉が心に響きました。
医療従事者はどんなに辛い状況でも泣いてはいけない。本当は泣きたいですが…現地の方を考えたら強く強くならなければいけない。生半端な気持ちでは絶対にボランティアなんてできませんよね。
いま、学生の私は無力です。震災が起きてからテレビを見るたび何度も何度も無力な自分が情けなくなりました。
いま自分に資格があり、ボランティアとして薬剤師として働けたら…
あなたのような方々は本当にかっこよく誇りに思います。
私もこの震災を経験して…今までなんとなく進んできた医療従事者への道への考えを改めました。絶対に薬剤師となり、今を生きている人達の役に立ちたい。
3.11のことは絶対に忘れません。
前を向いても絶対に忘れません。
医療従事者になりたいと思っていてもなれなかった学生や若い人達もたくさんいると思います。
その気持ちをバネにしてどんな辛い壁も乗り越えて行きたいです。
瑠奈ちゃんのようにこれから頑張る子も一緒に
新しい日本をたて直しましょう。
今
一生懸命読んでる途中です…
又後で感想送りますね
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March 16
I was told where I will be heading.
"You will be sent to Rikuzentakata."
I was assigned to join the medical team heading for Rikuzentakata in Iwate Prefecture, where the damage was severe, and traveled by air.
The other nurses from my hospital were sent to Fukushima and Miyagi, all in different teams.
Each team sent along intravenous drips, medicine, bandages, wet packs, diapers, pads, gauze, masks, etc.―tens of thousands of each from the hospitals in Tokyo using various means of transportation. We didn't know at this time that these tens of thousands of medical objects won't even come close to being sufficient.
We will not be wearing our usual white coats, but rather a sort of a smock that looks like a sweat suit, a uniform printed with the words NURSE/Kangoshi.
Watching the ground from the airplane, I could guess that we were passing Tochigi. When we were above Fukushima, I could see more and more houses and towns with fallen roofs. I could see the nuclear power plant, too. The leading doctor said, "You can tell if you keep an eye on the coast." "That looks like Sendai over there."
The landscape of Sendai, where I have visited friends many times before, had changed completely.
Everyone sent me messages saying that they're "fine" or "okay," but they aren't fine or okay. It's so heart-wrenching.
As we learn up in the sky more and more about what the situation is in Sendai, the whole plane gradually became silent.
Eventually, we could see the landscape of the Sanriku region in Iwate. I felt weak at my knees. It looked like burnt-out ruins immersed in water.
This might sound like I'm thinking about this as someone else's problem, but I thought, "This is Japan, too―it's not even that far away from Tokyo," and I felt truly afraid of where I was heading.
At the same time, I also became strongly worried about whether I might just get in everyone else's way.
Once we arrived, each day was so full of hardships that I couldn't even bother to feel worried any more.
本当にありがとうございました。
本当にあなたがいてくれた事に感謝です。
始めてコメントします。
私は石巻出身で都内で看護師をしています。
災害当日、都内の病院にいて自宅の千葉には帰れない帰宅難民でした。
その後両親、弟の安否確認がとれない日々が1週間も続くとはその時は考えもしませんでした。
すぐに被災地に入りたくて、あらゆるところに手段はないか?探しまくりました。
でも、どこも答えは同じ「特別に教育されている者が現地に入っています。お気持ちはお察ししますが、今は無理です。」と。
泣きながら、何の為に看護師になったのかと悔しくて悔しくて・・・。
日赤に入っていれば行けたのか???
災害すぐに入られたあなたの様子は、生々しくとてもテレビでは伝わらない部分。
現場の過酷な状況は目を閉じても想像ができません。
平常に戻りつつある都内。
当り前は当り前じゃない。
まだまだ、被災地は被災地のままです。
仕事を辞めて被災地に入る事にしました。
私は手を握り、一緒に泣いてこようと思います。それは、心の包帯になるかな・・・と。
『傾聴』
薬、点滴では治せないものが大きいはずです。
私は心理士でも、精神保健福祉士でもありませんが、知人のカウンセラーに特別にレクチャーを受けて現地に向かいます。
友人らと共の「東北救済プロジェクト」を立ち上げ、石巻の中規模の病院を救済すべく、看護師仲間のネットワークを駆使し必要物資を送っています。幸いにも、現地で動いてくれる者がいるので、届けたいところに物資を届ける事が出来るのです。
また、石巻に来てくださるボランティアの方の宿泊についてもアシストできるよう活動しています。
石巻サンプラザホテルは、5月を目途にボランティアの受け入れをしてくださるそうです。
石巻の底力「東北魂」
今!みせます。
明日は今日より素晴らしい!!
私のブログで支援活動を報告しています。
お時間があったら覗いてみてください。
YAHOOブログ「絹の音」です。
お待ちしています。
これから、もっとたくさんの心のケアが必要になるはずです。
瑠奈ちゃん、負けないでほしいですね。
蛍の墓を思い出しました。
被災者の方のことを思えば、今自分の中で日常感じている絶望感なんてお話にならないことだなと思いました。
自分も負けないでリスタートですね。
テレビや新聞から伝わる何倍もの悲惨さに
心が震えました。
今一度、この現実を心に焼き付け、
関西に住む私たちにできることをしっかりやっていきます。
私どものブログを読んでいただいている方にも
このことを知っていただきたく、勝手ですが
リンクさせていただきました。
貴重な体験をお疲れの所、よく掲載して下さいました、本当にありがとう。
メディアというフィルターを通さない現実。
あなたが私の娘なら、背中からギュッと抱きしめたいです。
よく頑張りましたね。
地上に舞い降りた天使かもしれない。
あなたも瑠奈ちゃんも。
水も電気もない分娩室で誕生した赤ちゃんも。
また、被災地に旅立たれるのでしょうね。
泣きたい時は泣いてくださいね!
カンゴンさん、応援してます。
本当にお疲れ様でした。
貴重な記録を残していただき感謝します。
TVでは判らない被災された方々の
ご苦労、悲しみ、いろんな感情が伝わって
涙が出ました。
被災していない私達は、何かできることを一つずつ。
心から思いました。
私も紹介させていただきます。ご了解下さいね。
看護士としての仕事ご苦労様でした。私も5日後市内に入り、一面黒い泥に覆われた場所が慣れ親しんだ市内には思えなかったです。涙もない言葉もない ただの更地が広がってました。現実に起きてるようには思えない、夢でも見てるような気持ちです。
これから市民は進まなければならないです。そのときは またいつか 手を差し出してください。あなたがしてくれたのは微力ではないです。新聞で記事を見ました。少なくとも私はありがたい気持ちがたくさんあります。またいつか 来てください。会いに来てください。
ありがとうございます
被災地の方々の生き方、考え方、人間性を垣間見れた気がしました。
震災後は自分に何が出来るか?を考えていますが。。。取り合えず、普通に生活できる事に感謝し、元気に暮らしていく事が自分に出来る事と思ってきました。
こちらのブログを拝見し、この震災をいつまでも忘れずにいる事も私に出来る事だと、思いました。
いつか、旅行で行きます。
ありがとうございました。
私のブログにも紹介させて頂きます。
ブログ読ませていただきました。
何とも言葉ではいえないものがありますね・・。
私は医療職でもないし、実際に出来ることは限られていますが、それでも少しでも何か出来ることをしていきたいと思います。
このブログを読めて良かったです。
決して風化させてはいけないと改めて思いました。
当たり前の生活がこんなに幸せなコトだなんて、改めて考えさせられました。
今だけの募金ではなく、出来る限りの継続的な募金に努めたいと、そして世の中の皆様がそう思ってくれたらと心から願います。
ありがとうございます。
本当に本当にお疲れ様でした。
そしてありがとう。
読んで行くうちに、私も陸前高田の方たちを家族のように思い始めました。
そして復興が進み、いつかなんのとりえもないわたしでも行けるようになったら、絶対訪れたいです。
そして、沢山の無残に奪われてしまった尊い命に手を合わせたい。
そう思いました。
今回の地震のこと、深く心に刻みました。
絶対!忘れません。
私のブログでも紹介させていただきますね。
これからも私にできることを探しながら
少しでも被災地の皆さんの何かお役にたてる
よう、努力したいと思います。
大変な中、貴重な記録を残していただき
本当にありがとうございました。
私は横浜で看護師をしています
貴重な記録、本当にありがとうございます
1人でも多くの人たちに読んでもらいたくて
私のブログにリンクさせてもらいました。
東京でもがんばってください。
微力ですが、自分の出来る範囲で協力していきたいと思います。
有難うございました。
有難うございました。
瑠奈ちゃん、壊れるぐらいに抱きしめてやりたいです。
孤児になった子が100人ほど居るみたいですね。
皆で守らねば…。
何時までも忘れません。
出来る事から協力しています。
私もブログにリンクさせてもらいました。
ありがとうございました。
被災された方々がどれだけ心のより所になったことでしょう。
微力ですけど、了解も得ずにブログに転記させていただきます<(_ _)>
たくさんの方から連絡がきました
今回の地震には驚きました。
マンションの部屋の中の瓶や家具や置物・・etc
大半が倒れてしまいました
マンション自体は大丈夫でした
日が経つにつれ、被害が拡大していることに胸が傷みます。
幸い、自分の工場・自宅・クラブハウスは無傷でした
クラブハウスの会員メンバー大半がサーファーです。
今回の地震や原発の影響で海の汚染が深刻です。
そのため波乗りすることが出来ません。
毎年、北海道・神戸・山口県から泊まりに来てくれるメンバーもいますが今回は
キャンセルになると思います。
でも、クラブハウスは本業ではないので ゆっくり休もうと思います。
余談ですが、自分の知っている情報をお知らせします。
福島県では、津波と原発のダブルパンチになってしまいました。
帰りたくても帰れない・・福島県出身の人は、そう言ってます。
自分の工場で働いている女の子の彼氏は福島県南相馬市に住んでいます。
今、原発の影響で避難生活をしています。
どうしても家を見たくて禁止区域内に入ったそうです。
彼が見たものは悲惨な光景でした。
家が倒壊しただけでなく、カラスが群がっているという事実です。
あちこちに死体があるそうです。
津波で行方不明になっている死体は茨城県沖に流れています。
テレビではこの事実を公にしません。
復興のニュースばかり目立ちますが、実際は想像以上に悲惨な事実があるという
ことです。
千葉県浦安市では・・
自分の中学生時代は、浦安市の隣に住んでいました
漁師町で魚介類が豊富でよく釣りに行ったりしていました。
アサリ・蛤・赤貝も捕れた自然豊富の町でした。
しかし、突然の埋め立て建設ラッシュ
浦安は2倍以上の広さを確保し、綺麗な街に変貌してしまいました。
綺麗な街とは外観のみで、基礎的部分すなわち土台は柔らかい砂の上での住宅地
・鉄鋼団地・マンションを作ってしまいました。
浦安市は、震度5の地震で液状化現象が起き、ガス・上下水道が使用出来ません
。
特に大半の世帯で下水道が機能していないため、トイレの利用が出来ません。
復興のメドは全くたっていないとのことです。
人工的に造られた高級住宅街。
自然の前で廃墟となりました。
千葉県沖の津波は、4メートルくらいありました
津波により潮位が上がり太東海岸(千葉県いすみ市)の堤防全てをのみこみ駐車場
も消えました
(仕事中、太東を走っていましたpm3時半頃)
それから2時間後(pm5時半)、大津波が観測されました
漁船は流されたり横転したり、
一宮川河口付近では、潮位が上がり浸水。
千葉県旭市では7メートル以上の津波が観測されています。
便利な世の中になった反面、電気・ガス・水道が出ないと暮らしていけない時代
になりました。
海が見える小高い丘で井戸水を利用し、牧を持って風呂を焚いたり米を炊いた
り
野菜を作ったり
そんな自給自足の出来る生活をしたいと思いました。
新聞の報道でも信じられない光景に戸惑っていましたが、貴女のブログでもっと深い深い真実を知って心が痛みます。
7歳の孫にも読んで聞かせましたが涙で聞いていました。
被災地の皆さんに微力ながらも何が出来るか改めて考えたいと思います。
書くのも辛かったと思いますがレポートありがとうございました。
これからのご活躍お祈りしております。
泣いてしまいました。
言葉はありません。
お疲れ様でした。
みんなありがとうと言われていました。
そうですね。
ありがとうございます。
僕も医療従事者ですが
頑張る勇気がいまさらですがわいてきました。
僕は被災地に行く事はできませんが
自分の場所で医療の末端を支えていかせてもらいます。
本当にありがとう。
そしてお疲れ様。
お体に気をつけて
これからもがんばってください。
僕も神に祈りながら頑張る。
テレビでは報道されないありのままの被災現場の
様子が書かれていて…
本当に日本に恐ろしい事が起きたんだなと実感しました。
この事実をもっといろんな人に読んでもらいたいと思いました。
絶対に忘れてはいけない出来事だと思います。
http://jkts-english.blogspot.com/
This entry is specifically available here, unless I change the title at any point:
http://jkts-english.blogspot.com/2011/04/2-myself-on-day-one.html
仕事半分で被災地応援に出向いております。
復興に向けて日ごとに前進する日本の底力には敬服します。
リンクさせていただきました。
今後のご活躍を祈ります。
血の通った文章を読んで、涙が出ました。本当にお疲れさまでした。反響の大きさに驚かれているそうですが、そういう心の柔らかさに共感される方が多いのだと思います。どうぞ、これからも、迷うことなく、お伝えください。
勝手ながら、私のブログにリンクさせていただきました。事後報告ですみません。
テレビでは見られない生の光景が目に浮かびました。
自分も製薬会社の会社員として、医療従事者の意識がありつつも、何もできない今に無力さを感じてました。
薬がいくらあっても足りない。人も足りない。
そんな状況で今何ができるか?
ただボランティア精神で行って務まるわけではない事が身にしみてわかりました。
文章を読んでいて思わず泣いてしまいましたが、本当に皆さんが言われているとおり、
今自分ができる最大限の事をしようと、思いました。
本当にありがとうございました。
16. März
Erst am Tag der Abreise wurde bekannt gegeben, in welchem Gebiet ich arbeiten sollte.
Mir wurde gesagt: „Sie werden in der Stadt Rikuzentakata arbeiten.“
Jede Krankenpflegerin und jeder Krankenpfleger wurde einer Gruppe zugeteilt. Einige meiner Vorgesetzten sollten nach Fukushima fliegen, andere nach Miyagi, und ich bin als Mitglied einer medizinischen Hilfsgruppe nach Rikuzentakata in der Präfektur Iwate geflogen, eine der Städte, die besonders großen Schaden erlitten hatte.
Jede Gruppe bekam von Spitälern in Tokio Infusionen, Medikamente, Bandagen, Umschläge, Windeln, Damenbinden, Mullbinden, Mundmasken, usw. Jeweils mehr als 10.000 Stück. Sie wurden über alle möglichen Wege ins Katastrophengebiet gebracht. Da wussten wir jedoch noch nicht, dass diese Medikamente und Arzneimittel nicht annähernd ausreichen würden...
Wir sollten keine weißen Kittel, die wir normalerweise tragen, anziehen, sondern eine Uniform, aus einem Kleid und einer Strickjacke, auf welchem „Krankenpfleger“ auf Japanisch und Englisch gedruckt war.
Vom Flugzeug aus konnte ich erkennen, dass wir wohl nun über der Präfektur Tochigi sein mussten. Als wir über Fukushima, der Nachbarregion waren, konnte man immer mehr Häuser mit beschädigten Dächern und zerstörte Städte sehen. Ich sah auch die Atomkraftwerke.
Ein Arzt, der unsere Gruppe leitete, sagte: „Wenn Sie die Küste beobachten, können Sie es erkennen.“
„Das dort ist wohl die Stadt Sendai.“
In Sendai habe ich einige Freunde. Ich habe sie früher oft besucht. Das Stadtbild hat sich jedoch komplett verändert.
Inzwischen habe ich von ihnen E-Mails erhalten, in welchen sie schrieben, dass es ihnen gut gehe und alles in Ordnung sei. Doch sah es hier alles andere als in Ordnung aus. Ich fühlte mich einfach hilflos.
Die anderen Passagiere wurden alle still, als ihnen gezeigt wurde, wie die Stadt Sendai nun aussieht.
Langsam nährten wir uns der Region Sanriku in Iwate.
Als ich die Städte sah, erstarrte ich vor Schreck. Es war wirklich eine Stadt, die im Wasser versunken und völlig niedergebrannt war.
Vielleicht klingt das etwas unbeteiligt, aber ich bekam plötzlich Angst. Ich dachte: „Der Ort, an dem ich bald ankomme, ist ein Teil Japans. Unglaublich. Er liegt zwar nicht so weit von Tokio entfernt, ist jedoch völlig anders, ist komplett zerstört...“
Gleichzeitig fühlte ich mich immer unsicherer, weil ich dachte, dass ich meinen Kollegen eher zur Last fallen könnte.
Sobald wir in dem Katastrophengebiet ankamen, mussten wir gleich beginnen hart zu arbeiten. Ich hatte daher kaum mehr Zeit, mir Sorgen zu machen.
暗い気持ちになる