去年のクリスマスに再び陸前高田に行くことが出来て、避難所にいた方々やずっと会いたかった瑠奈チャンにも会うことが出来ました。
今は関西方面で暮らしている瑠奈チャンはあの頃より背も高くなって随分お姉さんになったように見えました。
久しぶりの地元、お友達、知り合いに会えてずっと恥ずかしそうにしていた瑠奈チャンは
私を見つけると飛んできて、あの時みたいにずっと手を握ってきました。
おしゃべりだった瑠奈チャンは引越した当初、東北訛りがあるので新しい場所でなかなか会話に入れず、控えめな性格になってしまったけれど持ち前の明るさでだんだん馴染んできたとのこと。
でも母親のことは自分から話すことがなく、夜になると布団の中で泣いていたり、街で親子連れを見かけると立ち止まって振り返って眺めていることがあると叔母さんが教えてくれました。
子供ながらに大人に気を使い、心を閉ざしているのでは・・・と小さな手をつなぎながらとてもやるせない気持ちになりました。
避難所や診療所での健康診断の手伝いを終えて時間があいたので、ボランティアの方々が洗浄してくれた写真を保管している公民館に瑠奈チャンと一緒にお母さんの写真を探しに行くことが出来ました。
今では写真や思い出の品を探しに来る人の数もかなり減ったそうで、その日も私と瑠奈チャンがいた時間は誰も来ることはありませんでした。
アルバムにたくさんあった思い出の写真も全て流されて、瑠奈チャンとお母さんの写真はネームの裏に貼っていたプリクラだけになってしまい、どうしても写真を見つけてあげたかったけど、莫大な量の写真の中からその日は見つけることが出来ませんでした。
たくさんの洗浄された写真には、その人たちの何気ない日常が写されたものや、特別であろう日、旅行に行って笑ってるものや、モノクロの写真など、多くの方の思い出や記録の宝物ばかりでした。この写真が探している人や持ち主のもとに一枚でも多く戻ることを願いました。
避難所に指定されながら、そこに避難した200~300人が犠牲になった市民会館にも行き、献花台に手を合わせてきましたが、献花台も瓦礫がそのままの市民会館も当時のままで復興への道程は長くなることも感じました。
ずっと一緒に行動していた瑠奈チャンは平地となった陸前高田を歩いているとき笑顔はありませんでした。
瑠奈チャンは「自分の家があったところに行きたい」と言って叔母さんに案内してもらい、今は基礎しか残っていないその場所に行ったときにため息をつき泣き出す姿に、やっと感情を出せたんだねとちょっとホッとしてしまいました。
その後にたくさんのサンタさんからプレゼントをもらって嬉しそうにみんなに見せる子供らしい笑顔が、ずっと続くといいなぁと心から思いました。
被災地はきれいにはなっているけど、止まったままの時間や癒せきれない心はあのときのままです。
私たち医療チームの役割も変わってきました。
継続は力なり。
来週末にまた医療支援に伺います。
明日で3・11から一年。 行方不明者はいまだに3000人以上。
私たちは何を思い、どう過ごすのでしょうか。
JKTSさんのblogを読ませていただく度に、自分の中で風化させてはいけないなと思わされます。僕も、自分に出来る事を頑張っていこうと思います。いつもありがとうございます。
自分に何かあった時、必ず読みに来ています。
少しずつでも、前を向いて進んで行こう。
今年に入ってこのブログの更新がなかったのでちょっぴり心配していたのですが、そろそろもしかして…と思い、覗いてみてよかったです。
ずーっと気になっていた瑠奈チャンの様子も垣間見れたし。
宮城の内陸に住んでいる私は、一応被災地とはいえ、沿岸部の津波被災者の方々に比べたら被害は微々たるものでした。
それでも、明日が近づくにつれ、心がザワザワしています。
瑠奈チャンは明日をどんな思いで迎えるのでしょうか。
自分も出来る事を少しずつ続けていこうと思います。
くれぐれもお身体にはお気をつけ下さいね。
避難所のおっちゃんもその後、お元気にすごしていらっしゃるでしょうか?
JKTSさんもルナちゃんも、避難所のおっちゃんにもお会したことはないけれど、毎月11日にはこのブログをのぞいて、元気かな??とおもっています。
そして、3月11日日本で起きた出来事を、この日記をとうしてしった現状をこころに再度確認しています。
被災地を支えて、見守り、応援してくださっておられることに
とにかく尊敬の念しか言えない自分が
情けないというか…
でもとにかく有難うございます。
御自身のお心とお体も大切にしてくださいませね。
できたことは何か?
そう考えると、あまりにも早く一年が経過したような気がします。
「瑠奈チャン」
にとって、
この一年はどれほどの長さに感じたのか?
他人事で済ませてしまってはいけないはずです。