陸前高田に降り立ったときの印象はぬかるんだ地面と瓦礫の山。
津波の被害で壊滅的の場所です。
本当に何もなくて
残っている建物も廃墟と化していました。
5階建てマンションの5階にまで泥や船の備品が突き刺さっていて何度も目を疑いました。
何の匂いだろう?
焦げ臭い匂いがつーんと鼻に抜けていきました。
あとすごく静かでした。
報道のヘリや自衛隊のヘリが上空を旋回している音だけが響いている感じ。
雪が瓦礫の山に積もっていて、ずっとしんしんと降っていたけど寒いという感覚よりも恐怖のほうが強かったです。
足が震えていたのは寒さでなく恐怖でだったと思います。
一分間黙祷をしながら
もっと早く来るべきだったと思いました。
避難所や病院に行く前に
ざっと市内を案内される。
ここは商店街でした、
ここは郵便局だよ、
ここはおいしいラーメン屋、
ここは公民館、
ここは幼稚園、、、
ただの瓦礫の山。
15mくらいの真っ黒な津波が往復して全てを飲み込んでいったとのこと。
避難勧告が出て準備をしていたり、逃げる最中にみんな流されて行って
誰かのせいにすれば少しは矛先が出来て醜い感情を出せるけど、天災だから怒りの持って行き場がないと言っていました。
年に数回海を敬うお祀りもあっていつも海に感謝をして暮らしていたんだよ、それなのに・・・と
現地の人は案内しながら涙を流していました。
もうこの時点で私も泣きそうだったけど、絶対泣かない約束だったから
現実から目を背けて曇った空ばかり見ていました。
案内する人の後ろをずっと手をグーにして肩をすくめてついていきました。
風が吹くとどこからか
セピア色の写真や赤ちゃんの写真付きの年賀状が足元に飛ばされてくる。
そして一歩二歩歩くごとに赤い旗がヒラヒラ揺らいでいる。
しかも数えきれないおびただしい数の旗。
「この赤い旗は遺体が見つかった場所に立てられています」
正直つらかったです。
ある旗の前に佇んでいるお婆さん。
私のお婆さんと同じくらいの年だったかな?
「東京の看護婦さん、
ここにおじいちゃんが戦後一生懸命働いて建てたおうちがあったんだよ、
おじいちゃん病気ひとつしなかったのに死んじゃったよ」
人間の感情があるから泣くなと言われても無理でした。
リーダーナースが飛んで来て私の耳を引っ張って車の陰に連れて行かれて
すっごくおこられました。怒られようがもう自分は素直な感情でここでやっていこうと思いました。
テレビで映されているのは報道規制のなかの範囲内でそれでもあの映像。
映されない、テレビで流せない現状をこの目で見てきましたがそれはもう地獄でした。
案内されている隣で
自衛隊の方が瓦礫や木材をどかすと泥だらけになった遺体が必ず出てきて。
この光景は一生忘れないし
忘れてはいけないと思う。
瓦礫や木材と言っても数日前は誰かの生活の一部だった家や道具や誰かの宝物です。
その下から続々見つかる遺体。
そのたびに手を合わせる自衛隊の方々。そして偶然居合わせてしまった私たちも合掌しました。
初日はあわただしく避難所をまわってお年寄りの血圧測定と健康相談でした。
無我夢中で多分、私に笑顔はなかったんじゃないかな。
高齢者が多いな、という印象でした。
電気が復旧していないので暗くなる前までに1人でも多く血圧を測ってあげたくて本当に無我夢中でした。
脈をとっていると私の手を握り返してきて
「孫と同じくらいだな、看護婦さん。あったかい手だねぇ」
とそのまましばらく目を閉じているお婆さん。
両手を合わせて拝んで
何回も何回もお礼を言うおじいさん。
寝たきりなのに飛びきりの笑顔を見せて起き上がろうとするおじいさん。
美味しそうに小さなおにぎりを食べる子供たち。
毛布に包まって眠る赤ちゃん。
健康相談では「体育館では眠れないよ」
「親類と連絡がとれなくて眠れない」
と眠れない訴えが多く
血圧も高めなかたがたくさんでした。
すっかり暗くなる頃には
私の腕が上がらなくなっていました。
10数ヶ所の避難所、それでもまだまだたくさんまわれなかった避難所と救護所だらけでした。
あとから聞いたのですが
私は初日だけでも数百人の血圧を測ったらしい。
でも全然足りないくらい、測ってあげられなかったお年寄りのほうが断然多かったです。
気付けば朝トイレに行ったきり夜更けになっていました。
反省会や明日以降の予定のミーティングを終え、移動の疲れや現地を目にしたショックと
避難所まわりであっという間で忙しく過ぎた1日でした。
避難所だってぎゅうぎゅうで
もちろん私たちは寝る場所もなく
初日の夜は遺体安置所のわきの簡易プレハブに男女関係なく雑魚寝。
疲れているのに眠れるわけがなく、
持ってきたiPodを聞きながら友達と撮った写真を見たり圏外のままの携帯にこの文章をずっと打っていたり
友達がくれたメールを読み直して
1日泣くのを我慢していたのでバスタオルに包まってずっと朝まで泣いていました。
17日
避難所の一部を救護所兼病院として救急車を受け入れているところへヘルプに入る
救護所のベッドはすでに満床で
待合室には数えきれない受診希望の患者数
全然足りない薬品と医療品
トリアージにまわると
小児の間で39℃代の熱発による受診希望が多い
うー、嫌な予感
そして嫌な予感的中、
インフルエンザ
リレンザもタミフルも持ってきていたけど備蓄が足りない
症状軽めの患者にはカロナールでなんとか解熱を期待する
抵抗力の弱い小児や高齢者、
しかも今の状況だと全ての人が抵抗力が弱っているから感染してしまう可能性が高い
救護所の中もインフルエンザの患者とその他の症状の患者を分けて対応することに
これ以上拡大しないようにと気持ちが焦っていました
先輩の管轄の避難所から救急要請が入る
下痢で脱水気味の高齢者数人搬送したいと
物資が届かずなんと生米を食べていたらしく胃腸炎を起こしているとのこと
ラジオからは物資は続々届いているけど
小さな避難所には行き届いていないことやガソリン不足による物流が困難というニュースが流れていた
自分も雪解け水を飲んでしまいお腹の調子がいまいち
でも弱音は吐かないで笑顔!笑顔!
みんなの前では元気!元気!
今日は休憩は2時間半で朝までぶっ通し
みんなはもっともっとつらくて大変なんだから
これくらいのことは頑張らないと
搬送されてきた高齢者は
みんな脱水症状と低体温
点滴のストックがもうすぐ底をつく
点滴の針もあと数箱
避難所生活のストレスで胃潰瘍からの出血なのか吐血で血圧低下のショック状態の患者さんも搬送されてきた
すぐに内視鏡と輸血!
ドクターが叫んで自分で「あぁ、ここには何もないんだ」我に返っていた
緊急処置で点滴確保してどんどん補液しながら血圧を保たせながらヘリで内視鏡や処置が出来る盛岡市内へ搬送となる
最善の治療が出来なくて申し訳ない気持ちで見送る医療チーム
明日石巻に医療機器不足の連絡がとれるといいけど向こうも同じような状況なのかも
いまだに家族と連絡がとれない被災者は増える一方
あの日から奥さんを探すおじいさん
なんとか休んで欲しい
想像以上の状況と過酷さに挫けそうになるけど、
少しずつ高速バスが再開したり途中まででも新幹線が再開するニュースも聞こえてきた
昨日よりは絶対前に進んでいる!!
18日
救急患者を受け入れている病院へ。
とにかくここの病院のドクター、ナース、薬剤師、放射線技師、検査技師、栄養士、看護助手・・・
全て震災後から不眠不休。家族や休みだったスタッフの安否さえ分からないまま、
極限の精神状態で仕事をしていたらしいです。
少しでも交代で休んでもらうようにサポートに入ることに。
地域や物品の場所は全く違っても、医療は共通。
そう思いながらも、続々搬送されてくる救急車と
受診を求めて並んでいる1000人以上の患者さんを目の当たりにして正直途方に暮れましたが
目的の「1人でも多くのかたに医療と看護を」のために気持ちを切り替えました。
救急搬送のほうのグループになり
搬送されてくる患者さんも
心筋梗塞や脳梗塞の薬を飲めていないから
再梗塞を起こしていたり
透析患者さんが透析を出来なくてカリウムの数値が上がっていたり心不全を起こしていたり
医療機材が足りていない中、現状は相当厳しかったです。
地震によるケガは免れ生き抜いたのに、地震後に病気で亡くなってしまう方の無念さと
私達医療スタッフの絶望感は文章にはあらわせないです。
東京の病院では手を伸ばせば点滴台、棚をあければ薬品etc
そして当たり前についている電気
自家発電とはいえ、バッテリーと時間との勝負で
手術が必要な患者さんはヘリで他県へ搬送の繰り返し。
採血をすると真っ黒でどろどろした血液がひけて
「お食事したりお水飲めていますか?」と聞くと
「私だけそんな飲み食い出来ないし、おにぎりと朝夕のお茶だけだよ」と力なく答える患者さん達。
点滴も足りなかった・・・
受診する患者さんをどんどん固い床に寝かせ点滴をして
様子を見て
点滴を抜いて止血して
誰が何の点滴をしてどのペースで終わるか把握するだけでも精一杯
そうこうしてるうちに救急車の受け入れ
そういえば今日もあんまり笑顔を見せてないなって時に
妊婦さんが産気づいたとの連絡。
私と同じ年くらいの初産の妊婦さん。
助産師の免許はないから
点滴の確保とベビーキャッチにまわりました。
点滴を入れていると
「重症のかたがたくさんいるこんな時に本当にすみません」と。
「何をおっしゃいますか!!
高田のみんなや全国のみんなが赤ちゃんを待ってますよ!!」と声をかけました。
赤ちゃんは明日への希望です。
元気な赤ちゃんが生まれたときは、薄暗い分娩室が
本当に明るくなったように思います。
お湯も思うように沸かせないからガスコンロであたためた湯を準備したり
支援物資で届いたアンパンマンのバスタオルに包んで。
涙を流してるお母さんが
「もうちょっと早く生まれてきてくれたらおじいちゃんとおばあちゃんに見せられたのに。
とても楽しみにしていたのに。」と言っていました。
でもこんなにスムーズに
元気な赤ちゃんが誕生したことはきっとそばで見守ってくれていたに違いないと思いました。
眉間にシワを寄せてピリピリしていた救急チームも産声に駆けつけ
一気に笑顔の空間に。
これから大変なことがたくさん待ってるけど、
絶対それ以上に嬉しいこと、幸せなこと、楽しいことだって待っています。
この赤ちゃんが大人になる頃は元の高田市に戻って笑顔が溢れる穏やかな街並みになっていることを
その場にいたみんなが願いました。
ラジオからはひっきりなしに聞こえてくるどんどん増えていく死亡者数。
こうやって生まれてくる新しい命。
どちらも尊いものです。
命の重さもみんな同じ。
改めてそう思いました。
明日も笑顔で今日よりいいことを見つけよう。
18日夜
避難所の体育館に時間制限はありますが電気が復旧しました!!
電気がついた瞬間拍手喝采で嬉しくてみんなで泣きました。
全国で節電したから予定より早く復旧したそうで
本当に本当に嬉しかったです。
優しさが伝わりました。
被災地に到着した日は
雪が降り積もっていて現地の人が
「こんなときに雪が降って神も仏もいなくなったな」とつぶやいていたけど
神も仏もいない今、
優しい気持ちの生きてる人間がたくさんいるよ!!とちょっと胸をはれたような気がします。
でも本当に大変なのはこれからです。
これからも全国の優しい気持ちが広がることを願います。
ガスや灯油が届かなくて寒いのは変わらなかったけど、
夜に電気が灯っているだけでなんだかあったかくなった気分でした。
18日午後
震災が起きた時間14:46には手を止めて黙祷をしました。
サイレンが鳴り響いて
現地の人たちの涙を見て
1週間経過した時間に対して早く感じました。
1週間経過したことでメンタル的サポートも必要になってきたようにも思う光景も増えてくる。
相変わらず救急搬送患者や入院が必要な被災者が増えていく一方、
救急車の燃料切れや
受け入れ先病院を探してもどこも満床、少なくなっていく医療物品、
新たな問題も山積みになり何度も立ち尽くしてしまいました。
そういう問題にぶつかるたびに弱気になったけど気持ちは常に強く。
救急患者対応だけでなく
避難所の血圧測定と健康相談、
現地ナースに休んでもらうために入院病棟の患者の処置や巡視、
エレベーターが止まったままなので食事の配膳時には5階建て階段の往復、
時間が少しでもあいたら火をおこしてお湯を沸かす、
1日が24時間では足りないくらいでした。
寝る時間が2時間でも
横になりながらこの時間も何か有効につかえないか考えていました。
こうして記録して現状を報告することしか思いつきませんでした。
電気がついただけなのに
全国で節電をしたみんなのことを思うと絆で結んだ電気に思えてすごく明るくあったかく電球が見えました。
頑張りがこうして形になって見えると俄然自分ももっと頑張らなくてはと背中を押された気持ちになります。
寝泊まりをした体育館で
たった三日間でかわいいお友達が出来ました。
血圧測定や点滴に走り回る私のあとを小走りについてくる
人懐っこい6歳のかわいい女の子、瑠奈チャン。
マスクが大嫌いな子だったので
マスクに全然似てないキティちゃんを書いてあげたら気に入ってくれたのがきっかけだったのかな。
夜の体育館は本当に寒いので頼るのは薄い毛布と人肌。
私の医療チームは男ばっかりだから人肌に頼ることも出来ず毎日入り口付近ですきま風と戦っていました。
電気が復旧していなかった広い体育館は例えるなら洞窟みたいでした。
ストーブも消され冷えきった真っ暗な空間。
頻繁な余震。
1人だったらどんなに怖くて心細いか。
たくさんの避難されているかたが集まっているからこんな暗闇でも朝を待つ気力に変えられるのだろうと心底思いました。
真っ暗な夜中の体育館の
寝息の中に
もちろんすすり泣きの声も聞こえています。
不安なのかな、
家族や友達と会えていないのかな、
考え出すときりがないし
私は1週間程度だけど
ここにいるみんなはこれがいつまで続くんだろうと思うと暗闇の体育館は洞窟どころか
出口の見えないトンネルのようにも思えました。
寒くて眠れないけど、そろそろ寝ないと不眠不休で倒れてしまいそう
ここで倒れて足手まといになったら来た意味がないと寝返りをうっていたら
瑠奈チャンが「お姉ちゃん!」とどこからか毛布を持ってやってきてぴったり横にくっついてきました。
「瑠奈チャンも眠れないの?」と聞いたら元気よく頷いていたので
抱き寄せるとめちゃめちゃあったかい瑠奈チャン。
「お姉ちゃん、好きな人いる?」と瑠奈チャンに聞かれたので
「いるよ!」と言ったら
「どんな人?」って(´`)
「おヒゲがはえてる人だよ(笑)」と分かりやすいように教えてあげたら
「サンタさん??」と。
かわいいなぁと思いながら「そうだね、サンタさんみたいな人だね」と頭をなでなでしながら話すと
「また冬になったらサンタさん来てくれるかな?」とニコニコした笑顔。
やっと笑顔が見れて嬉しくなって「瑠奈チャンいい子だからまたサンタさん来てくれるよ!」と言ってしまった私。
でも「瑠奈チャンね、おうちなくなっちゃったけどサンタさん、瑠奈チャンちがないからプレゼント持って帰ってしまわないように
お姉ちゃんから言っておいて」と言われて、
ごめんねって思いながらぎゅっと抱き締めてしまいました・・・
「瑠奈チャン、なにが欲しい?」の私の質問に
「おうちとママ」
いつも一緒にいるのが母親かと思っていたけど
次の日、それは叔母さんということが分かりました。
瑠奈チャンのお母さんも被災され、あんなにかわいい瑠奈チャンを残して瓦礫の下から変わり果てた姿で見つかったそうです。
瑠奈チャンは幼稚園にいて救出されたけど
お母さんは瑠奈チャンが大事にしていたお人形や絵本の入ったリュックを抱えて亡くなっていたそうです。
まだまだ小さな瑠奈チャンはお母さんが恋しくていつも私にくっついて寝ていたのかな。
別の避難所と救護所に移動のためにいつも寝ていた体育館を去るとき
瑠奈チャンが私と別れることに対して声をあげて泣いていました。
お母さんと悲しい別れをしたばかりなのに、傷は癒えてないのに、また
別の形だけど人と別れる悲しみを味わせてしまった・・・
また会おうって言っても
お手紙を書きたくてももう瑠奈チャンには住所がない
でも、きっとまた復興したら必ず会いに行く約束をして体育館を離れました。
この震災を忘れずに
強くて優しい女性になってほしい。
どうかこれから進む道が明るくて幸せであるように。
リーダーナースとの泣かない約束はあっけなく破られ手を振る瑠奈チャンを見ながら、車の中でずっと泣いていました。
なんでこんなことになったんだろうと悔しさをどこにぶつけていいか分からず
次の支援施設、救急病院へ向かいました。
みんなに笑顔と元気を届けに来たのに、瑠奈チャンを泣かせてしまって。
私のここにいる意味は何だろうとも思っていました。
19日
朝から校庭がなにやら騒がしい。
トラックが続々搬入。
聞くと仮設住宅の建設に来たとのこと。
こわもてだけどめっちゃ優しいトラックの運転手さんと思わずハイタッチ!
まだ優先順位での入居になるらしいけど、これも明るいニュースでした。
さっそく朝から昨日より良くなったこと見つけた!!
それとDOCOMOとau災害カーが来てやっとやっとやーっと携帯から圏外の文字が消えた!
避難所のみんなも続々連絡がとれている人が。
DOCOMOのスタッフとも笑顔でハイタッチ!
超ベタベタの髪と化粧水すらつけずに過ごしてる汚いすっぴんも慣れてきました。
とりあえず残り少ないウーロン茶をティッシュにつけて顔を拭いて今日も頑張るぞー!!とスタッフと気合いを入れました。
あとは水が出るといいな。
そうこうしているうちに
昨日よりいいこと発見。
あったかい。
春の日差し。
もう寒くならないで。
そして今日から盛岡~陸前高田の高速バスが1日2本だけど運転再開になった!
また朗報が入った!
昨日体育館から救急搬送されたお婆さんが元気になって避難所に戻ってきた。
「お帰りー!!」
「ただいまぁ」
避難所がひとつの家みたいでした。
ユニフォームの「NURSE・看護師」だと子供や高齢者は看護師と認識しずらいだろうと
初日の夜に前後にカラーテープで「カンゴシ」とカッティングして貼っていました。
毎日ユニフォームを着て仕事や仮眠をしているうちに「シ」の点が一個取れてなくなっていて、私の後ろ姿は「カンゴン」になっていました。
それからは子供たちや避難所のみなさんから「カンゴンさん」と呼ばれるようになり
今日はもっと短縮され「ゴンちゃん!」と気軽に声をかけられたことも嬉しかったです。
あと昨日となりの市に行って、友達に公衆電話から「公民館の避難所に物資が届いていないことを知らせて」とお願いをしたら
今日夕方にやっとやっとそこへ物資が届いたと避難所から連絡。
運んでいただいた自衛隊の方によると
「北は秋田から南は九州の人から、ここに物資が来ていない連絡が入ったんだよ。
こんな小さな避難所だけど全国からの声が来たよ」とのこと。
命のリレーです。
ご協力して下さった皆様と気に留めて下さった皆様、本当に本当にありがとうございます!!
オムツをかえられなくてお猿のお尻になってしまった赤ちゃんにたくさんの替えのオムツと
ベビースキンも届いたそうです。
あとはおいしい味噌握りやヤクルト、山崎パンからのたくさんのナイススティックも。
これから夜半過ぎ都内の大学病院からたくさんのお薬と点滴と簡易吸引器が届く。
私の滞在期間も21日から23日までに変更。
明日くらいには入院患者を他県の病院へ搬送する準備に入ります。
もう適切な医療の限界。
患者さんは入院だけでも心細いし
家族もお見舞いに行きにくくなるだろうし・・・
でもきちんとした治療を受けるのが最優先なんだよね。
考えを切り替えて頑張ろう!!
今日の反省会で気仙沼で9日ぶりに生存者発見とのことを知りました。
みんなで手を取り合って喜んだけれど、震災を逃れても避難所で体調を崩して亡くなる高齢者も増えていることも事実。
1人でも多くの命を。と思っていたけど、もう今は全員の命を救いたいとみんな思っています。
つらいのはみんな。
自分らは微力。
微力が集まって大きな力になりますように。
19日夜
今夜はちょっと休めそうだったけど熱を出している人や腹痛のかたが多いので
1人ずつ救護車の中で休むことになりました。
やっぱりみんなのいる体育館のほうが寂しくないけどそんな甘えたことは私は言っていられないですね。
運転席が明るいから電気がついているのかと見に行ったら
すごい大きなお月様の月明かり!!
今夜だけなのかな?
何かの現象なのかな?
毎晩こんなに明るかったらみんな少しは寂しくないのになぁ。
体育館からもお月様を見に、眠れない人たちが続々出てきて月明かりに照らされています。
ちょっと笑顔になってます!
被災地のすべての人に笑顔と幸せが降り注ぎますように。
絶対にこれ以上の悲しみは起こりませんように。
深夜便でそろそろ医療物品が来る頃かな?
梱包してくれた方やトラックの運転手さんにも本当に感謝感謝です。
明日は避難所から他県が用意した一時避難所に向かう方々もたくさんいるのでその準備も少し手伝えたらと思う。
今日ちょっと話したお婆さんは生まれ育った90年も過ごした高田を離れるのは死ぬほどつらいと言っていました。
海と貝博物館という施設が高田にあったらしくそこの近所に家があったので
いつもそこを訪れる観光客の笑顔を見るのが日課だったそう。
戦後貧しい思いをして
それでもおじいさんと頑張って家を建てて
漁をするのに船も買って
年老いたから仕事をやめて孫も出来て贅沢せずにゆっくり余生を過ごそうね、
そんな時にこの震災にあったとのこと。
「また戦後の時みたいにやり直せばいいけど
あの時みたいに若くはない」と涙をぼろぼろ流すおばあさん。
ここを離れたくない気持ちは痛いほどわかります。
一時避難でも高齢者には他県に行くことや高田を離れることは想像以上のストレスになると思います。
でも受け入れ先の優しい気持ちやあったかい場所とご飯が約束されているなら
少しだけの辛抱!!
なんだか私も東京に戻るのが嫌になってきました。
20日
道が整備され、陸前高田にたくさんの重機が来てくれました。
そして、瓦礫を除けるとたくさんの遺体が出てきました。
遺体はトラックに乗せて運ばれて行き
早く探している人たちと会えるといいなと思いました。
また悲しみが広がりました。
瓦礫の下から昨日から復旧して電波の入るようになった携帯の着信が聞こえました。
妊婦さんの遺体が出てきたときも本当につらかったです。
何の罪もない人たちが犠牲になる現実。
人が生きていく意味が分からなくなってしまいました。
数日前まで思い出のつまった自分の家が建っていたところが道になっているそうです。
生存者がいたときのために救急セットを用意して
重機の作業を見守っていたけれど残念ながら私たちの出番はありませんでした。
ため息と涙ばかり出てきてあとはひたすら悔しかったです。
熱と食欲不振で受診した男の子と話す。
泥だらけのドラえもんの本を見せてくれました。
ドラえもんの道具で何が好き?と聞いたら
「ずっとお座敷釣り堀が好きだったけど今はタイム風呂敷。
タイム風呂敷で地震の前の高田に戻したい」と言っていました。
純粋な子供たちの心まで傷つけた震災。
ちょっと休憩をもらえたので立ち入り禁止区域が解除されたところに行ってみると
おじいさんが必死に何かを探していて。
60年集め続けた切手のコレクションを探しているとのこと。それとアルバムも。
親の位牌を探す人、
旦那の形見を探す人、
飼っていたペットを探す人、
ランドセルを探す人、
家族を探す人・・・
瓦礫をよけると遺体が出てきそうで怖かったけど
みんなで探したけど全然見つからなくて悔しかった。
人の命や宝物までこんなふうにいとも簡単に奪っていくなんて
おじいさん以上に立ちすくんでしまって逆に励まされてしまった、情けない自分。
頑張ってとか頑張ろうって言えない。
頑張り過ぎてるくらい頑張ってるのを見ているから
「我慢しよう」「乗り越えよう」としか言えない。
これ以上頑張れとは言えないし、頑張ったところで
どうにもならないことがたくさんありすぎたから。
だけど、だんだんいい方向にむかってるよね?
今日はちょっと寒いから気持ちも弱気。
でも頑張ろう!!
たくさんのお別れもあったけど
今日やっと家族や友達に会えた人もいるんだから。
携帯が圏外で使えなくて
不便なこともたくさんあったけど
そこまで行って言葉で伝えることや
話ながら背中に手をあてたりぬくもりもたくさんあった。
連絡が取れないから待ち合わせ場所に遅れないようにみんなが早めに来たりした。
ネットも繋がらないから必要な情報が入ってこないから
みんなで相談したり仲間を信じて行動した。
知りたくもない情報は入ってこないから日常を離れた気分になれた。
お金も必要なかった。
使ったのはテレフォンカードを買っただけ。
でも被災地ダイヤル回線でお金はかからなかった。
素敵なバッグもおしゃれなコートも必要ない。
あったかければなんでもいいから羽織っていた。
頭が寒かったときはハーフパンツをかぶって寝た。
私なんかより抵抗力の弱いお年寄りが寒くないようにみんなで掛け物を提供した。
自家発電が終了する夜は小さなろうそくのもと
これからを避難所のみんなと肩を寄せて話した。
瓦礫の山とぬかるんだ地面の陸地と対象的に
真っ暗な夜空に星がいつも夜になるときれいだった。人の声を聞くとほっとした。
水が出なくて資源の大切さを実感した。
髪も顔も洗うような無駄な水はない。
お風呂に入れなくて赤ちゃんのおしり拭きで全身を拭いた。
それで出たゴミは持ち帰った。
避難所や救護所や病院で奇跡の再会ができた人もたくさんいた。
そのたびに誰彼関係なく周りは拍手。まだ自分は身内に会えてない人まで他の人の再会を祝福していた。
その光景を見て家族や友達や同僚や親類や仲間の大切さを再認識した。
ちょっとだけ早く帰りたくなった。
1人でいる人に誰か必ず寄り添っていた。
私が医療物品を1人で詰めていても必ず現地の人が話し掛けてきた。
炊き出しの時間も現地の人優先だったので
見てるとお腹がすきそうだから救急車の中にいるといつもお裾分けに来てくれた自分の母親くらいの年齢の方がいた。
「○○チャンに倒れられたら
それこそ大変だから」と私の名前を覚えてくれていつも届けてくれた。
自分の明日の食事も見通しがつなかい状況なのに
申し訳ないのと感謝の気持ちでいっぱいでいつも母のことを思い出していた。
そんなときラジオから
都内で物資を取り合いしているニュースが流れていて
震災の被災地が東京だったら絶対復興はしないだろうなとぼんやり考えていた
ラジオのありがたみも知った。
日本語って本当に素敵だと思う。
スペイン語をマスターしたかったけど日本語をもっと大切にしたくなった。
ラジオからはいつも前向きな歌が流れていたし
きっとみんながリクエストしてくれたんだと思う。
アンパンマンの歌、平原綾香の歌、岡本まよの歌、
ミスチルの歌、嵐の歌、世界にひとつだけの花はほとんど毎日流れていた。
あと懐かしいところでは
「それが大事」とか「どんなときも」とか。
ラジオからドリカムの
『何度でも』が流れてきたときは患者さんを運びながら涙が止まらなかった。
すっごく勇気をもらった。友達の顔や家族の顔が無条件に浮かんできた。
医療チームも腕まくりする人が増えたから歌に後押しされていたと思う。
眠れない夜は翼の「君となら」とか「見果てぬ夢」とか「ただ・・・」を一晩中聞いていた。
勿論曲に励まされたけど、
あの楽しくて明るい空間って当たり前じゃなくて
そこまで行けることや
みんなが元気に参加出来ることって本当に恵まれた環境だったんだと思った。
あの会場にいた震災に遭った友達のこともずっと思い出していて
早く楽しい場所で笑顔で会いたいと思った。
いくら芸能人が「頑張って」とエールを送ってたとしても
なんせ電気が思うように復旧していないし
やっと見れたテレビはすべて震災情報、ラジオも震災情報、
新聞も震災情報。
エンタメ情報なんてひとつも入ることはなかった。
避難所のみんなもニュースしか見ていないし
他の避難所がうつるたびに家族や知人がいないか必死だった。
他県や外国からの
自衛隊の方々、
企業からの支援、物流の運転手さんたち、電気会社の方々、医療スタッフetc
すごくあったかかった。
まだまだ日本は捨てたものじゃないなと思う。
こんなときになかなか笑顔になれないけど
挨拶するとき、お礼をいうとき、笑顔でいるように心がけた。
心が折れることばかりの毎日だけど
避難所のみんなの心のほうがどんなに傷ついているか。
傷に薬をつけて包帯を巻くのは簡単だけど
心に包帯を巻くのは難しい。
笑顔の薬、少しでも傷が癒せるといいけど・・・
『誰かの笑顔につられるように
こっちまで笑顔がうつる魔法のように
理屈ではないところで僕ら
通じあえる力を持ってるはず
あなたは今笑っていますか
強がりじゃなく心の底から
憎しみが入る隙もないくらい
笑い声が響く世界ならいいのに』
21日
今日は三陸の病院へヘルプに。
震災から10日が過ぎて
そろそろ気をはっていた人たちも気力の限界だったのでしょう。
かなりの数のかたが体調不良を訴えて受診しにきました。
突然の災害、寒い毎日、
固い床、プライバシーのない生活、見えない明日、
体調崩すのは当たり前の状況です。
被災から逃れたのに避難所で体調を崩して入院していた高齢者が今日も亡くなりました。
毎日たくさんの遺体を嫌というほど見ても
人が亡くなるということは決して慣れることはありません。
巡視で回ったときにただ眠っている人を見ただけでも生きてる?って思うくらい、トラウマになってしまいました。
今日は適切な医療の限界から患者さんたちを盛岡や県外の病院へ転院のお手伝いもしました。
医療器具が届いたのに
こういう転院はやっぱり悔しいけど、すべて患者さんがより良い治療を受けてもらうためだと言い聞かせて家族と一緒に見送りました。
今日はいつもとは別の避難所になっている公民館へ。
胃腸炎になっている方が多いと聞いていたので
点滴と消毒を多めに持って行ったけどそれでもギリギリのストックでした。
その避難所でベイスターズのジャンパーを着ているおじさんにも会いました。
着のみ着のまま逃げてきた中、薄いベイスターズのジャンパーを着ているなんて普段から愛用しているファンなんだろうなぁと思い、話し掛けると
「大洋の頃から大好き!横浜も俺の人生も仕切りなおしだ」と。
プロ野球の開催についても大揉めしているけど
こうして楽しみに待っているファンもいるという事実。
またみんなが好きなグループのコンサートや
スポーツ観戦に行って心から笑顔になれる時間も来たらいいなと思いました。
これらは優先順位からいうとかなり後になるかな。
帰る家があって、あったかいお布団とお風呂があって、話を聞いてくれる家族がいて、
そういう生活が基盤にあってこそ娯楽が楽しめるんだなと。
津波の恐怖や、これからの不安な気持ち、大切な人とまだ連絡がとれていない今、
そこにいる避難生活をしているみんなが不安や恐怖や今後についても話してくれました。
明日のことを考える余裕がない、10分先、今日の夜をどう過ごすか、寒くないかって考えるだけで精一杯と。
こんなふうにとにかく誰かに話す相手をもっと増やしてほしいです。
支援物資も日がたつにつれ、必要なものが変わってきたと思います。
そろそろ本や将棋やゲーム、
そういう自分の癒しをしてもいい時だと思う。
だってみんなギリギリ踏ん張っているから。
そろそろ張り詰めた糸をゆるめないと。
避難所では昨日9日ぶりに気仙沼で二名の生存者救出の新聞の記事に感動に包まれていました。
自分もつらい時に
他の人の奇跡を喜んでいて、ますますここの素敵な優しいみんなの幸せを心から願い、信じました。
22日
私たちがここにいるのも明日がラストになりました。もうすっかり家族です。
この震災で家族を失った人たちをたくさん見てきたけど
家族って血が繋がってる人だけじゃなく一緒に涙を流せたり心に少しでも寄り添ったならもう「家族」って言っちゃっていいんじゃないかな。
だから私は避難所や病院や救護所で関わったみなさんを本当の家族のように思いながら毎日接してきました。
相変わらずまだお風呂に入れない状況。
今日は天気も悪いから仮設住宅を建ててる建設業の方たちも交代で避難所をのぞきに来てくれて
どこか不備がないか見回ってくれました。
医療チームで何かお土産を置いていけないか考えて
建設業の方にも協力してもらい、足湯だけでも出来ないかという話に。
建設業の方たちも即OKをくれて材料で流しそうめん並みのたくさんの人が使えそうなのをあっという間に作ってくれました。
水が出ないから給水車まで行って水をみんなで運んで焚き火の火やコンロで湯を沸かす。
避難所のみんなを呼びに行き、足湯を見せると『えぇーっ』とびっくりした様子。
みんなで一列に並んで足湯をすると、一気に笑顔でした。
あんまりあったかいお湯じゃなかったけど喜んでもらえて良かった。
嬉しくて足湯なのにそのお湯で顔を洗っちゃったおじいさんもいました。
『これみんなの足を洗ったお湯ですよ~(笑)!』って言ったら
『いいんだよ、みんな家族みたいなものだ』と。
みんなも家族みたいって思っていたんだなぁって嬉しかったです。
またみんなの笑顔に励まされてしまいました。
足がずっとぽかぽかだよって言って
ぐっすり眠りについたみんなを見て、自分が出来るちっぽけなことがなんだか嬉しくてずっと泣いていました。
ずっとここにいたいけど
そう思えるのは私には戻る場所があるからですよね。
実際滞在延期を申請したけど、これ以上いたら医療チームが体調崩すのは明確だから一旦戻るべきと反対されてしまいました。
避難されてる方は一刻も早くここを出たいはずですよね。
気持ちはあたたかいけど体育館はとても寒い。
早くみんなの住むところが確保されることを願います。
でもこんなふうに思える出逢いをずっと大切にしたいです。
ここでの仕事は私自身の考えや今後を大きく変えたと思います。
岩手にもたくさんの『Family』がいるよって胸を張って言おうと思います。
追伸:自衛隊の方がとなりの市にテントのお風呂を作ってくれました!
1日数人限定ですがやっと避難所のみんながお風呂に入れる機会ができました!!
さっぱりして帰ってくる笑顔を見て嬉しくなりました。
23日
今日で一旦私の医療チームは東京に戻ります。
かっこいいことを言いながら強気で踏み入れたのに
来たばかりのときは想像をはるかにこえた現状に打ちのめされました。
自分に何が出来るかなんて考える時間もなく目の前で起きていることを把握して無我夢中でやるしかなかった。
毎日モノを数えるように
増えていく死亡者数をニュースを読み上げてるアナウンサーにさえ嫌気がさしました。
1日2000人以上の受診希望者
床に寝せられ点滴を受ける患者さん
泥だらけの入院ベッドに横たわる患者さん
1人任され不安だらけの救護所
避難所での夜間の急病人
水も電気もない分娩室でのお産
受け入れ先病院が見つからない救急医療体制
備蓄のない医薬品
足りない医療機器
浸水して使えなくなったAED
全部が全部思い出せないくらい、毎日が壮絶でした。
朝からずっと走り回っていて気が付くと夜中の3時、4時ってのを毎日繰り返し。
でもそれは私たちだけじゃなく、自衛隊のかたや消防のかた、警察のかた、運転手さん、自治会の会長さん、条件はみーんな一緒だったから頑張れたんだと思います。
私たちは交代でちょっと休めたけど、休めてない職種の方ばかりです。
そんなしんどさなんて被災された方々に比べたらなんてことはないと思うとへっちゃらでした。
それと何回も書いてきたけど、避難所のみなさんの笑顔と優しさと強さに何度こちらが励まされたことか。
気丈にふるまっている人こそ心の傷は深く
話を聞いてみると家族といまだに連絡が取れていないという人ばかりでした。
避難所もみんながいるから頑張れると言っている人がいっぱいいたけど
あんなかたい床で毎晩寒い思いをして不安な夜を過ごすつらさは壮絶です。
本当に大変なのはこれからです。
だんだんテレビやマスコミも震災のニュースが減っていき、みんなの脳裏から薄れていくに従って
被災地の今後の課題や病人や悲しみは増えていくと思います。
被災していない人たちが自分たちは明るく頑張ろうって元の生活にどんどんしていくのは良いことだけど
3月11日のことは決して忘れてはいけないのです。
自分に何が出来るか分からないままの人は
今あるお小遣いやお金を募金にまわすのもよし、とっておくのもよし。
とっておくなら、いずれ、交通機関が復旧して
東北地方が元気になってきたら旅行に行ってそこでお金を使うのも支援かと。
直接の被災地でない私たちの支援の形は経済効果として支障のない程度に今まで通り、飲んで、食べて、仕事して、お金が出来たら気持ちばかりの募金して
それも大事なことだと思います。
お金を動かす人、
人々を活気づける人、
目の前の仕事を精一杯する人、
支援の形はそれぞれです。そして今だけでなく、このトンネルを抜けるのは長期戦であるということを念頭に。
自分の生活や仕事に支障のない程度に節電に心がけて、きちんとした団体へやはり支障のない程度にお金を募金するのも大きな一歩です。
失恋しようが、上司に怒られようが、衝動買いしようが、ちょっと風邪をひこうが、
日常でつらいことや嫌なこといっぱいあります。
普通にいきてりゃ嫌なこと9割、いいこと1割です。
でも、被災地のみんなのつらさや悲しみに比べたら全然なんてことはないです!
そんな中、踏張って耐えてる被災地の人が少しずつ笑顔になれるように私たちは物を大事にして資源を大切にして
被災地のことを忘れないことだと思います。
医療も長期戦になることを想定しています。
また行く機会を設けてもらい、もっと成長して1人でも多くの人の力になれるように災害医療をもう一度勉強します。
また、放射能についての新たな二次災害も出てきて
今後の問題は山積みです。
放射能に関しては
適切な情報と的確な判断で。
避難所で別れの挨拶をしたときに、みんなも泣いていたけど笑顔で『今度会うときにはもっと良くなってるように頑張るね!』『復興したら旅行においで』『お嫁においで』と言ってくれて涙涙で避難所を後にしました。
助かった人たちも、自分だけ助かったことや
誰かを助けられなかったことに自責の念を話してくれたけど、誰も悪くない。
それに助かったことには絶対意味があります。
胸はって前を見て、つらいときは泣いて、1人ではないことを忘れないでほしい。
サプライズもあって
瑠奈チャンも叔母さんと手紙を持って駆け付けてくれました。お手紙には「大きくなったらおねえちゃんみたいなおしごとをします」と書いてあり、この仕事をしていて良かったと思いながら涙が止まらなかった。
陸前高田は第二の故郷になり、故郷の復興を願ってやみません。
ここで見たこと、経験したこと、感じたことは同僚や友達や家族に伝えていこうと思います。
当たり前の日常がどんなに幸せなことか。
そばにいてくれる家族や友人がどんなに大切な存在か。
水や電気の資源の供給がどれだけ恵まれていることか。
いろいろ人それぞれ感じ方も違うしきっと全く他人事に思う人もいると思うけど、
いつ自分が被災者になってもおかしくないのです。
帰りは陸路で帰ってきましたがだんだん東京が近づいてくると
どっちが現実社会なのか分からない錯覚に陥りました。当たり前についている信号、電気がついている高層ビル、きれいな身なりの道行く人。
震災にあった地域は対岸の火事のように過ぎてる都心の時間。
でもきっと本当の現実は被災地で都心は非現実社会なんだと思います。
現実社会と非現実社会はいつだって隣り合わせ。
被災地の復興を心より願っています。
また必ず行きます。
その時までどうぞお元気で。
そしてみんなが会いたい人に会えますように。
いつかみんなの努力と流した涙が報われるときが必ず来ますように。