笹畝坑道の次に、訪れたのは、やはり「吹屋ふるさと村」にある広兼邸(ひろかねてい)。
まず、目につくのは、まるでお城のそれかと見間違うような、見事な石垣です。
『広兼氏は、大野呂の庄屋で、同家2代元治が、享和・文化の頃、小泉銅山とローハ(ベンガラの材料)製造を営み、巨大な富を築き、二階建ての母屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は、文化7(1810)年の建築で、庭園には水琴窟が設けられており、規模、構造とも、雄大な城郭を思わせる構えで、今もそのままに、当時の富豪を偲ばせている。
邸宅の向かいには、明治初期、天広神社が建てられ、広兼個人の神社として、祭られていた。
社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の変わった石燈籠数基がおかれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており、衆楽園と呼んでいる。
離れは、大正の建築で、お茶室、化粧部屋、客間、風呂等をそなえたお座敷で、当主の結婚式に一度使用しただけで、以後は使用されていない。
映画「八つ墓村」のロケが、昭和52年と平成8年の、二度にわたりおこなわれ、全国に放映された。』
(広兼邸パンフより:高梁市成羽町観光協会吹屋支部)
まず、目につくのは、まるでお城のそれかと見間違うような、見事な石垣です。
『広兼氏は、大野呂の庄屋で、同家2代元治が、享和・文化の頃、小泉銅山とローハ(ベンガラの材料)製造を営み、巨大な富を築き、二階建ての母屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は、文化7(1810)年の建築で、庭園には水琴窟が設けられており、規模、構造とも、雄大な城郭を思わせる構えで、今もそのままに、当時の富豪を偲ばせている。
邸宅の向かいには、明治初期、天広神社が建てられ、広兼個人の神社として、祭られていた。
社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の変わった石燈籠数基がおかれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており、衆楽園と呼んでいる。
離れは、大正の建築で、お茶室、化粧部屋、客間、風呂等をそなえたお座敷で、当主の結婚式に一度使用しただけで、以後は使用されていない。
映画「八つ墓村」のロケが、昭和52年と平成8年の、二度にわたりおこなわれ、全国に放映された。』
(広兼邸パンフより:高梁市成羽町観光協会吹屋支部)
300円を払って、チケットを購入し、ヘルメットをかぶって(天井が低いので、頭を怪我しないように)、いざ、坑道へ。
入場券の裏には、
『吹屋銅山は、大同2(807)開坑されたものと言われています。
この笹畝坑道は、江戸時代から大正末期まで、採掘されており、昭和初期以来閉山されていたもので、昭和53年度に「岡山県ふるさと村整備事業」として、坑道の一部、延長320mが、復元整備されたものです。
坑道内部は、外気温との差が、15℃もあり、夏は涼しく冬は暖かい別天地です。』
と記されています。
入場券の裏には、
『吹屋銅山は、大同2(807)開坑されたものと言われています。
この笹畝坑道は、江戸時代から大正末期まで、採掘されており、昭和初期以来閉山されていたもので、昭和53年度に「岡山県ふるさと村整備事業」として、坑道の一部、延長320mが、復元整備されたものです。
坑道内部は、外気温との差が、15℃もあり、夏は涼しく冬は暖かい別天地です。』
と記されています。