図書館でシュタイナー教育に関する文庫本をみかけたので借りてみました。
”シュタイナー教育を考える(子安美知子 著)”
シュタイナー教育がどのようなものであるについては、解説書や関連webサイトに譲り、ここでは後半に書かれていたカリキュラムの話題について考えてみたいと思います。
p242以下に次のような記述があります。
「本来、生命をもって生きている有機体は、自然発生的に動いているはずなのですが、それにもかかわらず、生命を持ちながら、固化してしまった状態というのはいくらでもみあたります。ところで、土や水といった無機物でも、なんらかのきっかけや、ちょっと手を加えれば動きだすことがあります。まして生命を持ったものなら動かすことができるはずです。・・・しかし現在では、むしろこの生命を持った存在が逆の方向ー動から固化へむかってしまっていることの方が多いと思うのです。・・・」
例えばテレビなどの情報に浸ってしまっていると、流れゆく情報に身をおいているので忙しそうなわけですが、心は本当に動いているといえるのかといったアンチテーゼです。教師は生徒にいっしょうけんめい授業をしますが、それは動から静への働きかけなのか、静から動への働きかけなのか、それを教師は自覚しながら授業プロセスを検証する必要があるとも述べています。
この指摘はするどいと思いました。何か実験をやらせる、自由に討論させる(動)。そのあと、しっかりじっくりまとめてみる(静)ことも必要でしょう。またある時は、固定化した生徒の心を揺り動かし、ダイナミックに魂をうちふるわせるような動の授業も必要だというわけです。 どちらもその一方に偏っていてはいけないという考え方はバランスのとれた考え方といえましょう。
またシュタイナーの言葉
「現代の学問というものが、十分輝かしい成果を挙げてきたことは認める。それにもかかわらず学問の成果だけが、大きな顔をして教育という場に入り込んでくることは、絶対歓迎できない。つまり現代の学問精神の偉大さは、人間を扱ったり、人間の心や本質を見通したりする営みとはいささか別の場所で成り立っているからだ」
という言葉にも、考えさせられる気がします。我々教師は、知識の切り売りだけをしていればいいというものではない。学問の背後に流れている哲学であるとか、精神といったものにも注意を払い、人間の心や活動にも目を向けた広い意味での学びを本来提供すべきであるという主張には賛同できるものがありました。
”シュタイナー教育を考える(子安美知子 著)”
シュタイナー教育がどのようなものであるについては、解説書や関連webサイトに譲り、ここでは後半に書かれていたカリキュラムの話題について考えてみたいと思います。
p242以下に次のような記述があります。
「本来、生命をもって生きている有機体は、自然発生的に動いているはずなのですが、それにもかかわらず、生命を持ちながら、固化してしまった状態というのはいくらでもみあたります。ところで、土や水といった無機物でも、なんらかのきっかけや、ちょっと手を加えれば動きだすことがあります。まして生命を持ったものなら動かすことができるはずです。・・・しかし現在では、むしろこの生命を持った存在が逆の方向ー動から固化へむかってしまっていることの方が多いと思うのです。・・・」
例えばテレビなどの情報に浸ってしまっていると、流れゆく情報に身をおいているので忙しそうなわけですが、心は本当に動いているといえるのかといったアンチテーゼです。教師は生徒にいっしょうけんめい授業をしますが、それは動から静への働きかけなのか、静から動への働きかけなのか、それを教師は自覚しながら授業プロセスを検証する必要があるとも述べています。
この指摘はするどいと思いました。何か実験をやらせる、自由に討論させる(動)。そのあと、しっかりじっくりまとめてみる(静)ことも必要でしょう。またある時は、固定化した生徒の心を揺り動かし、ダイナミックに魂をうちふるわせるような動の授業も必要だというわけです。 どちらもその一方に偏っていてはいけないという考え方はバランスのとれた考え方といえましょう。
またシュタイナーの言葉
「現代の学問というものが、十分輝かしい成果を挙げてきたことは認める。それにもかかわらず学問の成果だけが、大きな顔をして教育という場に入り込んでくることは、絶対歓迎できない。つまり現代の学問精神の偉大さは、人間を扱ったり、人間の心や本質を見通したりする営みとはいささか別の場所で成り立っているからだ」
という言葉にも、考えさせられる気がします。我々教師は、知識の切り売りだけをしていればいいというものではない。学問の背後に流れている哲学であるとか、精神といったものにも注意を払い、人間の心や活動にも目を向けた広い意味での学びを本来提供すべきであるという主張には賛同できるものがありました。