備中福山城は1335年に荘兼祐が築城したといわれている。この福山城は総社市南部の福山(標高302メートル)山上に存在した山城で、南北朝時代に『太平記』に記された福山合戦の舞台となった。
1336年4月3日 新田義貞軍の先鋒の大井田氏経が足利方の荘兼祐を追い備中福山城を占領し1500名で籠城した。5月14日に足利直義軍20万に包囲され、5月15日夕刻より攻城戦が始まった。籠城軍はよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出した。しかし、大軍を前には抗しきれず17日には火をかけられ落城した。氏経は僅かに400人ばかりとなった将兵と共に足利軍の布陣を突破した。20回以上の戦闘を繰り返しながら本陣のある播磨国との国境にほど近い備前国三石城に逃れた。
太平記では足利軍は20万となっており、戦死者が2万となっているようだが、これは中国の歴史書に倣って実際の数を10倍に水増ししていると思われる。
この戦いの7日後の湊川の戦いで敗北後、大井田氏経は越後に戻る。氏経は新田義貞の遺児義宗を守って大井田城に籠城し、足利方の攻撃を防ぎ落城を免れた。以後、大井田城を拠点に大井田氏は続いていたと思われる。
戦国時代には上田長尾氏や上杉氏などに仕えた。上杉氏が米沢に移る時には一緒に米沢に移った者や、越後に戻り、越前福井の松平家に仕えたものや、そのほかの諸大名に仕えたものがいた。