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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

旧優生保護法はなぜできたか②

2019-05-26 22:32:01 | 時事
「旧優生保護法被害者の会」の人々が、旧優生保護法(1948~96年)下で不妊手術を受けた障害者らが国に賠償を求める裁判を起こし、それに対し国会の与党ワーキングチーム(WT)と超党派の議員連盟が救済法案として「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律」を成立させ被害者に一律320万円が支払われることなった。

「一時金の請求期間は5年間で専門家によって受給権があるかの調査が行われ、認定が必要となる」ようだ。

「現在20人ほどの被害者が国を相手に訴訟を起こしており、一連の訴訟の最初の判決は5月28日に下される予定となっている」のだそうだ。

ところで、この「旧優生保護法(1948~96年)」が出来た背景については表向きは主に以下の様な説明がなされている。

「敗戦によって旧植民地を失った日本は、大勢の引揚者、復員者を迎えた。続く第一次ベビーブームにより、人口増加が問題となり、人口増加を抑制する必要が認識されていた。その一方で、食糧難や住宅難などを背景に、違法かつ不衛生で危険な堕胎が頻繁に行われ、女性の健康被害が生じていた。」

「闇の堕胎による女性の健康被害への対応、急増する人口の抑制政策が必要とされるなか、1948年に制定されたのが、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すると謳った優生保護法である」(東洋経済 2018/04/26 9:30)



厚労省の人口動態統計の年間推計(2016.12.22公表)をみてみると確かに1947年~49年にかけて「第一次ベビーブーム」が起こっており、合計特殊出生率は4を超えている。


しかし実は、人口千人当たりの出生数は戦後の第一次ベビーブームよりも、戦前の1920年の36.2人をピークとして、1910年~1925年頃までの方が、スペイン風邪(1918年~19年)で減少した時期を除いて、千人当たりの出生数が大きかったことがわかる。(下のグラフ参照)


■人工妊娠中絶の適応基準
「一定の理由がある場合(適応)の人工妊娠中絶を合法化する適応規制型」につい適応の種別としては、
①医学的適応(母体保護)
②胎児適応(障害)
倫理的適応(強姦等)
④医学・社会的適応(多産等)
⑤社会的適応(貧困、経済的理由による保育困難)


優生保護法成立(1948年)後の1949年も一人の女性が生涯で授かる子供の数(=特殊出生率)も4以上であったし、当初普通の夫婦間の妊娠の⑤に適応することが目的ではなく、つまり「食糧難だの住宅難などを背景に、違法かつ不衛生で危険な堕胎が頻繁に行われ、女性の健康被害が生じるために『産児制限』を行う必要性からうまれた法律」では決してなかったのだ。


法律が出来た時代背景として、同年GHQによって戦後唯一の「非常事態宣言」が布告されるほどの治安の悪化で③の倫理的適応(強姦被害)が急増したことこそが時代背景にあったことは事実である。


しかし1950年以降は制度的な問題(法律による処罰)がなくなったことで「優生保護法」が拡大運用され、⑤を理由にするものが実際には増えたことも事実で「優生保護法」が拡大運用されて特殊出生率が減少。


「日本は適応規制型であり①③を条件としているが①に⑤を重ね合わせているので拡大解釈により、『現実には法律の規定する範囲を越えて多数の人工妊娠中絶が行われ、刑法の堕胎罪規定は空文化している』といわれ、経済的理由の削除が国会でも議論された」



「母体保護法」の前身である「優生保護法」がもともとは目的としていた②の理由は1996年の改正によって削除。つまり、妊娠中のNIPTで胎児が21トリソミーであることがわかったとしても、②を理由にするのではなく、①を(表向きの)理由として現在は人工妊娠中絶が行われているのが現実。但し京大病院など多くの大学病院では、トリソミーでの堕胎手術を嫌う病院では、そのためNIPTは敢えて行われていない。


2つ下のグラフでわかるように「1960年代から1970年代前半にかけては昭41(1966)年の「ひのえうま」を除き緩やかな増加傾向となり、昭和46(1971)年~49(1974)年の第2次ベビーブーム期を境に再び減少に転じ、その後は現在まで緩やかな減少傾向。


因みに2018年の出生数は 92 万 1000 人、人口千人当たりの出生率(数)は 7.4 人であるそうでいかに少子化しているかということがおわかりいただけると思う。






戦前の昭和恐慌(1930年~31年)の時には農業恐慌まで加わり、食料事情は同様に悪かったであろうし、1910年~25年頃も千人当たりの出生数が大きかったにも関わらず、そのような法律をつくるということはなかったし、「子供は国の宝」という発想であるのが日本であった。


1945年終戦当時の日本の人口は7199万人でしかなく、しかも青年男子の数が激減しており、むしろベビーブームで生まれた子供たちが育っていったことで、日本の高度経済成長を支える労働人口が形成されていったのだ。


優生保護法が成立したのが1948年で戦後の国土の荒廃で当時の実質一人当たりの国民所得は1915年の頃の水準であったことも事実だし、食糧難であったことも事実かもしれないが、日本人にほ「子は鎹」「子宝」という発想があって、そもそも国が貧困を理由に「産児制限」する法律などをつくろうはずはないのだ。


なぜなら、日清、日露戦争を経て、毎年日本の当時の国家予算の約10分の1を投じてインフラ整備しなければならない近代化以前の朝鮮半島を背負わされていた1930年(昭和5年)時点での日本の1人あたり国民所得(GNI)は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎず、その当時も十分日本は貧しかったのだから。




引用:


参照:





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