2018/9/27(木) 午前 2:25
リクエスト(?)にお応えして今回は右翼による戦前の要人暗殺テロ事件をみてみることに。
今上天皇が生前退位されるために来年年号が代わりますが、明治(1868~1912年)、大正(1912~1926年)時代に日清戦争(1894~1895年)日露戦争(1904~1905年)、第一次世界大戦(1914~1918年)という大きな戦争があり、昭和(1926~1989年1月7日)に入った頃の世界と日本はどんな時代だったのか。
世界は1929年(昭和4年)米国のNYウォール街のNY株式取引所で10月24日「暗黒の木曜日」に株式が大暴落を起こしたことが引き金となって「世界恐慌」が起こってしまう。これは第一次世界大戦以後、世界最大の「債権国」となった米国で、20年代の戦後活況の中、資本・設備への過剰投機が行われ「生産過剰」となったことがきっかけといわれている。農産物も生産過剰となったため価格が下落、農業不況が起こり、農家収入が激減、国内の有効需要低下。
各国が自国産業保護のため、高関税政策(保護貿易主義)に転換したことで世界市場の拡大が阻止されたこと、アジアの民族資本の成長、ソ連などの「社会主義圏」の成立で、米国の市場縮小、企業が生産を減少させたため失業者が増大、更に生産減少へという悪循環に陥ったことなどが要因とされている。その後1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行閉鎖、経済不況が一挙に深刻化。欧州各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深めていった。
1930年米国はスム―ト=ホーレー法を成立させ農産物だけでなく工業製品でも関税の引き上げを実施。国内産業保護のため農作物や工業製品など2万品目の輸入関税を50%引き上げた。各国も保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、却って恐慌を長期化させることになったといわれている。
第一次大戦の賠償金を支払っていたドイツの窮状を救うため、フーヴァー米大統領は1931年6月に「フーヴァーモラトリアム(支払い猶予)」を発表。その後ドイツは「モラトリアム」満期前に賠償支払不能を宣言。ローザンヌで急遽開かれた国際賠償問題会議でドイツの賠償額を30憶マルクまで減額し、その後はドイツにヒトラー政権が成立して対米戦債は曖昧なものとなった。
引用:https://www.y-history.net/appendix/wh1504-001.html
日本でも1930年(昭和5年)1月11日に金解禁(金輸出解禁=金本位制度)により世界恐慌の影響が波及し「昭和恐慌」に陥ってしまう。1931年(昭和6年)の冷害で農村が疲弊。1933年(昭和8年)3月3日には「昭和三陸地震」(地震規模M8.1)が発生。
地震の規模に比べ揺れによる被害は少なかったものの、大津波が襲来し被害は甚大なものになった。全体死者は1522人、行方不明1542人、負傷者1万2053人、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及び、特に岩手県下閉伊郡田老村(現宮古市の一部。死者520名、行方不明者452名にのぼった)、これによって漁村も疲弊。更に翌1934年(昭和9年)には凶作に見舞われた。つまり、日本の場合、米国発の世界恐慌に、冷害や地震など不可抗力の自然要因が影響しての「昭和恐慌」であったのだ。
こうした時代背景を受けて、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生したのが「血盟団事件(けつめいだんじけん)」と呼ばれる連続テロ事件。この事件では政財界の要人が多数狙われ、前大蔵大臣で日銀総裁(第9,11代)の井上準之助と三井財閥総帥の団琢磨が暗殺された。「昭和金融恐慌」の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面にて立たされており、日頃から「防弾チョッキ」を着ることを周囲にすすめられていたらしい。(しかし本人が着用しなかったとか)
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E7%90%A2%E7%A3%A8
この事件の特徴として、犯行グループが「一人一殺」の要人暗殺のテロ事件を企て、「国家革新」を目指した右翼グループだったこと。この「血盟団」という命名は事件後に井上らの取り調べを行った検事によって命名された名称。「右翼運動史」の流れの中で位置づけて言及されることが多いようである。首謀者は井上日召という名の僧侶で、戦後には「護国団」という名の右翼団体の指導者を務めている。
日蓮宗の僧侶である井上日召は茨木県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めての政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てたとされている。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義に基づく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想だった。
井上はこの思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成し、政党政治家、財閥重鎮及び特権階級など20名を「ただ私利私欲にのみ没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定。配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令。暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・弊原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど政財界の大物ばかりであった。
井上はクーデターの実行を西田悦、菅波三郎らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたため、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節(神武天皇が即位したとされる日)に政財界の「反軍的巨頭の暗殺」(注)を決行することを決定。
ところが、1月28日に第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられた。このため海軍青年将校らが集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺を直ちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定。2月7日以降に決行すること、暗殺目標と担当者を以下のように決定。
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司(大洗町の小学校訓導)、西園寺公望(元老)を池袋正釟郎(東大文学部生)、弊原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘(東大文学部生)、若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄(東大法学部生)、徳川家達(貴族院議長)を須田太郎(国学院大学神道科学生)、牧野伸顕(内大臣)を四元義隆(東大法学部生)、井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正(農業、大洗町)実行しその場で逮捕、伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎(農業、大洗町)、団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二(農業、大洗町)3月5日当日の実行犯は菱沼五郎によって決行されその場で逮捕。犬養毅(内殻総理大臣)を森憲二(京大法学部生)→五・一五事件で海軍青年将校らによって実行された。
実際に殺害が決行さたのは当時日銀総裁の井上準之助と三井財閥総裁の団琢磨の2名で、団琢磨暗殺害犯の菱沼の犯行後、血盟団の団員14名が逮捕、3月11日には井上日召が自主。計画では当時の首相犬養毅ら数名の政治家も標的となっていたが、日召は二次計画の存在を警察に明かさなかった。このため、「血盟団事件」の約2ヶ月後に時の総理大臣である犬養毅暗殺事件の五・一五事件が起こってしまう。
ところで「血盟団」の構成員は農村青年と東大生、京大生(文系学部)という全く異なる階層の人間が合流している点が特徴。前者は井上日召同様茨木県大洗町をホームタウンにしているため、井上による「洗脳」というか、井上との「共感」があり団結していることがわかるが、後者はなぜこのグループに合流したのだろう。
それこそが、「昭和の初め」である当時の世相と関係があるように思える。「東大生、京大生」ということは「青雲の志」を以て「国家のために有意な人物」となるべく学業に専念していたはずなのに、「テロリスト」となってしまったということはその当時「国家」への大いなる失望と「変革」への期待を抱かざるを得ない強い「閉塞感」があったということではないだろうか。
また、陸軍将校や海軍将校が「血盟団事件」に続くの五・一五事件や二・二六事件に関与しているのは、第一次世界大戦後の「軍事費抑制」への反発もあったとされている。
学生グループの中心であった四元義隆という人物は後に戦後政治のフィクサー的役割を果たした大物で中曽根康弘、福田赳夫、大平正芳、細川護熙など数多くの首相経験者が「薫陶を受けた」と言われているそうだ。
引用:http://honz.jp/31280
この事件を第1陣として、二か月後の1932年5月15日に第2陣五・一五事件(海軍青年将校ら)、1936年(昭和11年)2月26日に第3陣として二・二六事件(陸軍青年将校ら)のような「時の総理大臣暗殺事件」が起こり、皮肉にも二・二六事件で暗殺された高橋是清(注)を失ったことを昭和天皇自らが大変激怒され、経済に明るく、また自ら若き日々に米国で苦渋の留学経験をし、米国がいかなる国家であるかをいやというほど知り抜いた高橋是清を失ったことはその後の太平洋戦争への戦火の遠因になったという意見さえあるようだ。
「血盟団事件」は三島由紀夫の「豊穣の海」の第二部「奔馬」の題材となっている。血気盛んな憂国の若者である主人公はラストシーンで要人暗殺を企て、自らも自刃するところを見事な描写で描かれている。右翼のテロはヒロイズムによる行動のきらいがあり、冷静な判断よりも「行動主義」であるがゆえに攻撃対象を見誤り独善的に陥りやすい傾向が否めない。
五・一五事件と二・二六事件で標的となった二人の人物は、総理大臣在職期間が犬養は僅か156日、高橋は212日という短期間であり、総理大臣としての成果を出すには短か過ぎるし「ただ私利私欲にのみ没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」というのは言い過ぎであり、「時の総理大臣」として象徴的に暗殺されており、右翼のヒロイズムという「行動のための行動」の標的となった「的外れ」感は否定できない。
血盟団事件の裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役の実刑判決を受け、四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯としてそれぞれ実刑判決が下されたが、1940年(昭和15年)井上・小沼・菱沼・四元らは恩赦で出獄。
五・一五事件後には当時の政党政治の腐敗に対する反感から青年将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校らのへの判決は軽いものとなったが、二・二六事件の陸軍青年将校らは「反乱軍」として首謀者らは銃殺刑で処罰された。
(注):
高橋是清:特許や商標など、日本の産業財産制度の生みの親と言われる。明治時代の制度創設期に官僚として関係立法や制度運営の指揮を執り、制度を根付かせた。昭和恐慌から日本経済を回復させるなど、財政家としての評価が高い。蔵相だった1936年、軍事費抑制をめぐり軍部と対立し、二・二六事件で殺害された。
引用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871
つづく
リクエスト(?)にお応えして今回は右翼による戦前の要人暗殺テロ事件をみてみることに。
今上天皇が生前退位されるために来年年号が代わりますが、明治(1868~1912年)、大正(1912~1926年)時代に日清戦争(1894~1895年)日露戦争(1904~1905年)、第一次世界大戦(1914~1918年)という大きな戦争があり、昭和(1926~1989年1月7日)に入った頃の世界と日本はどんな時代だったのか。
世界は1929年(昭和4年)米国のNYウォール街のNY株式取引所で10月24日「暗黒の木曜日」に株式が大暴落を起こしたことが引き金となって「世界恐慌」が起こってしまう。これは第一次世界大戦以後、世界最大の「債権国」となった米国で、20年代の戦後活況の中、資本・設備への過剰投機が行われ「生産過剰」となったことがきっかけといわれている。農産物も生産過剰となったため価格が下落、農業不況が起こり、農家収入が激減、国内の有効需要低下。
各国が自国産業保護のため、高関税政策(保護貿易主義)に転換したことで世界市場の拡大が阻止されたこと、アジアの民族資本の成長、ソ連などの「社会主義圏」の成立で、米国の市場縮小、企業が生産を減少させたため失業者が増大、更に生産減少へという悪循環に陥ったことなどが要因とされている。その後1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行閉鎖、経済不況が一挙に深刻化。欧州各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深めていった。
1930年米国はスム―ト=ホーレー法を成立させ農産物だけでなく工業製品でも関税の引き上げを実施。国内産業保護のため農作物や工業製品など2万品目の輸入関税を50%引き上げた。各国も保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、却って恐慌を長期化させることになったといわれている。
第一次大戦の賠償金を支払っていたドイツの窮状を救うため、フーヴァー米大統領は1931年6月に「フーヴァーモラトリアム(支払い猶予)」を発表。その後ドイツは「モラトリアム」満期前に賠償支払不能を宣言。ローザンヌで急遽開かれた国際賠償問題会議でドイツの賠償額を30憶マルクまで減額し、その後はドイツにヒトラー政権が成立して対米戦債は曖昧なものとなった。
引用:https://www.y-history.net/appendix/wh1504-001.html
日本でも1930年(昭和5年)1月11日に金解禁(金輸出解禁=金本位制度)により世界恐慌の影響が波及し「昭和恐慌」に陥ってしまう。1931年(昭和6年)の冷害で農村が疲弊。1933年(昭和8年)3月3日には「昭和三陸地震」(地震規模M8.1)が発生。
地震の規模に比べ揺れによる被害は少なかったものの、大津波が襲来し被害は甚大なものになった。全体死者は1522人、行方不明1542人、負傷者1万2053人、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及び、特に岩手県下閉伊郡田老村(現宮古市の一部。死者520名、行方不明者452名にのぼった)、これによって漁村も疲弊。更に翌1934年(昭和9年)には凶作に見舞われた。つまり、日本の場合、米国発の世界恐慌に、冷害や地震など不可抗力の自然要因が影響しての「昭和恐慌」であったのだ。
こうした時代背景を受けて、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生したのが「血盟団事件(けつめいだんじけん)」と呼ばれる連続テロ事件。この事件では政財界の要人が多数狙われ、前大蔵大臣で日銀総裁(第9,11代)の井上準之助と三井財閥総帥の団琢磨が暗殺された。「昭和金融恐慌」の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面にて立たされており、日頃から「防弾チョッキ」を着ることを周囲にすすめられていたらしい。(しかし本人が着用しなかったとか)
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E7%90%A2%E7%A3%A8
この事件の特徴として、犯行グループが「一人一殺」の要人暗殺のテロ事件を企て、「国家革新」を目指した右翼グループだったこと。この「血盟団」という命名は事件後に井上らの取り調べを行った検事によって命名された名称。「右翼運動史」の流れの中で位置づけて言及されることが多いようである。首謀者は井上日召という名の僧侶で、戦後には「護国団」という名の右翼団体の指導者を務めている。
日蓮宗の僧侶である井上日召は茨木県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めての政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てたとされている。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義に基づく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想だった。
井上はこの思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成し、政党政治家、財閥重鎮及び特権階級など20名を「ただ私利私欲にのみ没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定。配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令。暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・弊原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど政財界の大物ばかりであった。
井上はクーデターの実行を西田悦、菅波三郎らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたため、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節(神武天皇が即位したとされる日)に政財界の「反軍的巨頭の暗殺」(注)を決行することを決定。
ところが、1月28日に第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられた。このため海軍青年将校らが集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺を直ちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定。2月7日以降に決行すること、暗殺目標と担当者を以下のように決定。
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司(大洗町の小学校訓導)、西園寺公望(元老)を池袋正釟郎(東大文学部生)、弊原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘(東大文学部生)、若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄(東大法学部生)、徳川家達(貴族院議長)を須田太郎(国学院大学神道科学生)、牧野伸顕(内大臣)を四元義隆(東大法学部生)、井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正(農業、大洗町)実行しその場で逮捕、伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎(農業、大洗町)、団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二(農業、大洗町)3月5日当日の実行犯は菱沼五郎によって決行されその場で逮捕。犬養毅(内殻総理大臣)を森憲二(京大法学部生)→五・一五事件で海軍青年将校らによって実行された。
実際に殺害が決行さたのは当時日銀総裁の井上準之助と三井財閥総裁の団琢磨の2名で、団琢磨暗殺害犯の菱沼の犯行後、血盟団の団員14名が逮捕、3月11日には井上日召が自主。計画では当時の首相犬養毅ら数名の政治家も標的となっていたが、日召は二次計画の存在を警察に明かさなかった。このため、「血盟団事件」の約2ヶ月後に時の総理大臣である犬養毅暗殺事件の五・一五事件が起こってしまう。
ところで「血盟団」の構成員は農村青年と東大生、京大生(文系学部)という全く異なる階層の人間が合流している点が特徴。前者は井上日召同様茨木県大洗町をホームタウンにしているため、井上による「洗脳」というか、井上との「共感」があり団結していることがわかるが、後者はなぜこのグループに合流したのだろう。
それこそが、「昭和の初め」である当時の世相と関係があるように思える。「東大生、京大生」ということは「青雲の志」を以て「国家のために有意な人物」となるべく学業に専念していたはずなのに、「テロリスト」となってしまったということはその当時「国家」への大いなる失望と「変革」への期待を抱かざるを得ない強い「閉塞感」があったということではないだろうか。
また、陸軍将校や海軍将校が「血盟団事件」に続くの五・一五事件や二・二六事件に関与しているのは、第一次世界大戦後の「軍事費抑制」への反発もあったとされている。
学生グループの中心であった四元義隆という人物は後に戦後政治のフィクサー的役割を果たした大物で中曽根康弘、福田赳夫、大平正芳、細川護熙など数多くの首相経験者が「薫陶を受けた」と言われているそうだ。
引用:http://honz.jp/31280
この事件を第1陣として、二か月後の1932年5月15日に第2陣五・一五事件(海軍青年将校ら)、1936年(昭和11年)2月26日に第3陣として二・二六事件(陸軍青年将校ら)のような「時の総理大臣暗殺事件」が起こり、皮肉にも二・二六事件で暗殺された高橋是清(注)を失ったことを昭和天皇自らが大変激怒され、経済に明るく、また自ら若き日々に米国で苦渋の留学経験をし、米国がいかなる国家であるかをいやというほど知り抜いた高橋是清を失ったことはその後の太平洋戦争への戦火の遠因になったという意見さえあるようだ。
「血盟団事件」は三島由紀夫の「豊穣の海」の第二部「奔馬」の題材となっている。血気盛んな憂国の若者である主人公はラストシーンで要人暗殺を企て、自らも自刃するところを見事な描写で描かれている。右翼のテロはヒロイズムによる行動のきらいがあり、冷静な判断よりも「行動主義」であるがゆえに攻撃対象を見誤り独善的に陥りやすい傾向が否めない。
五・一五事件と二・二六事件で標的となった二人の人物は、総理大臣在職期間が犬養は僅か156日、高橋は212日という短期間であり、総理大臣としての成果を出すには短か過ぎるし「ただ私利私欲にのみ没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」というのは言い過ぎであり、「時の総理大臣」として象徴的に暗殺されており、右翼のヒロイズムという「行動のための行動」の標的となった「的外れ」感は否定できない。
血盟団事件の裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役の実刑判決を受け、四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯としてそれぞれ実刑判決が下されたが、1940年(昭和15年)井上・小沼・菱沼・四元らは恩赦で出獄。
五・一五事件後には当時の政党政治の腐敗に対する反感から青年将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校らのへの判決は軽いものとなったが、二・二六事件の陸軍青年将校らは「反乱軍」として首謀者らは銃殺刑で処罰された。
(注):
高橋是清:特許や商標など、日本の産業財産制度の生みの親と言われる。明治時代の制度創設期に官僚として関係立法や制度運営の指揮を執り、制度を根付かせた。昭和恐慌から日本経済を回復させるなど、財政家としての評価が高い。蔵相だった1936年、軍事費抑制をめぐり軍部と対立し、二・二六事件で殺害された。
引用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871
つづく
コメント
こんばんは
血盟団事件から五・一五事件や二・二六事件に繋がっていく世相があったのですね。
血盟団事件の首謀者たちは、恩赦で実刑されずに出獄してその後がどうなったのか、どうしたのか興味の湧くところです。
最近は要人ではなく一般市民や警察官を狙った無差別事件が多いです。日本社会を混乱させようと仕組まれているようなので、徹底的に捜査して裏側が垣間見えるようにしてほしいです。
2018/9/28(金) 午後 11:58 [ mymidiindex ]
> mymidiindexさん
こんばんは。コメントをありがとうございます。恩赦で出獄した人々のうちの四元義隆は戦後政治のフィクサー的存在になったそうですが他の人々はどうなったのか調べてみると、
井上日召は1956年に 右翼活動から引退し、黒幕三浦義一から経済的援助を受け老後を過ごす。1967年 脳軟化症のため死去、
三島由紀夫の「豊穣の海」2巻の主人公のモデルであろう菱沼五郎は1940年紀元二千六百年祝賀の特赦で出所、小幡家の婿養子となり、小幡五朗と改名。戦後は公職追放となり、右翼運動から離れて、大洗町で漁業会社を経営し、1959年地元漁業界などに推されて自由民主党から茨城県議に当選、以来連続8期(1973-1975年第67代県会議長)を務めた。1968年には『欧州の原子力施設をたづねて』を上梓、その後90年に亡くなっているようです。
2018/9/29(土) 午前 0:35 kamakuraboy
> kamakuraboyさん
早速調べていただきありがとうございます。
結局、井上日召や菱沼五郎は右翼運動から足を洗いましたが、四元は基本思想を変えなかったようですね。
時代の流れや、年齢も影響しているのでしょう。
2018/9/29(土) 午前 0:56 泉城
> 石田泉城さん
そうですね。四元義隆は元々実質的なリーダー格の右翼だったということでしょうか。
ですが、どうやらこの「血盟団事件」の本当の黒幕が別にいたようです。
2018/9/29(土) 午前 1:02 kamakuraboy