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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

「表現の自由」を盾にとる政治的プロパガンダが視覚的暴力になることもあるのでは

2019-08-09 17:56:22 | 国内の反日勢力という存在
多くの日本人にとって、「昭和の記憶」とは、多くが直接的ではないにせよ間接的な「戦争の記憶」であるし、我々日本人が今日の平和を享受できているのも、無益な戦争を繰り返してはならないという誓いを守り続け、自分達一人一人が日々の自らの仕事を貴び、「信頼性の高い社会」や「技術立国としての繁栄の礎」を築いてこれたからである。


この先の日本の繁栄もこの「昭和の記憶」を一人一人の日本国民が忘れぬ限りおそらく続いてくれるであろうと私は思っている。


忘れてはならない日本人の「昭和の記憶」とは、祖国と故郷や両親兄弟を守るため自らの命を差し出して散っていった特攻隊の若者たちの痛ましい手紙であったり、苦しい生活の中「国民総動員」で軍需工場でけなげに働いた女子学生達であったり、戦況が悪化する中でも「人類滅亡の原因が我ら大和民族であってはならない」と核兵器の研究を、終戦を待たずに日本では研究禁止にするという 透徹した叡智を示された昭和天皇の苦渋の決断であったり (注)、広島・長崎で原爆で亡くなった多くの人々や、各地の空襲で家を焼け出され、身近な人々を失い生活を奪われた時代の記憶なのではないだろうか。



日本人の決意や祈りとは、現代の日本人が例えば「きのこ雲」で何も考えることもない、何も知ろうとしない米国の若者達の嘲笑を受けることによって味わう「苦さ」によって噛みしめるものでもないし、欺瞞に満ちた「平和の少女像」なるもので、本来なら朝鮮の為政者や自分らの親に向かうべき怒りの矛先を、高い金銭を支払って「買春」してしまった日本軍と現代日本に「無限の謝罪要求」されることを苦々しく噛みしめるといった類のものでもないのだ。


日本人の「昭和の記憶」、首を垂れて「その魂が今は安らかでありますように」と祈りをささげて平和を誓う対象とは、原爆で奪われた多くの普通の人々に対してであるし、学童疎開の船が被弾して海底に沈んだ少年少女達に対してであるし、「ひめゆり」の女学生達に対してなのだ。正直を申せばそれで十分なのである。


平和を誓うのは、心の平和を誓うことでもあり、勝者からの「嘲笑」や我々の道連れになった民族の「恨」によって誓うのではなく、平和の尊さを何によって学ぶことが出来たか、どんな代償を払って学んだかを噛みしめることなのだ。


つまり、正直なことをいえば、我々の心に静かに語り掛けるのは、澄んだ瞳の「ひめゆり」の女学生達や若くして散った特攻隊の若者達であって、欺瞞に満ちた「いわゆる徴用工像」や元高級売春婦であった「少女像」は何も語りかけてはこない、はっきりそう言える。


朝鮮女衒にだまされたのか、自らの性を売って親に孝行したいと思ったのかは知らないが、「朝日の捏造記事」をいいことに虚実の「少女像」で「謝れ謝れ」と言われれば、日本軍の軍人より10倍以上の高給とりの売春婦のくせに、と内心で思ってしまうのが人情というものなのだ。


「少女像」は事実を知る日本人にとって、「平和を誓う」対象ではなく、心の平和を乱され、隣国への嫌悪を煽る効果しかないのではないだろうか。


「表現の自由」は無限ではない。圧倒的多数の一般人が不愉快に思うものを公共の場で、これでもかこれでもかとみせつけられれば、それは視覚による暴力なのだ。「少女像」は多くの日本人が辟易している。だってこれは「欺瞞」だからだ。


米国を介して日韓の二国間で交わされた「慰安婦合意」後も、執拗な「謝罪要求」を繰り返されたことで、「嫌韓」に傾いている日本人にとり「醜悪な」政治的プロパガンダは「芸術」ではないし、大多数が不愉快に感じるものは「迷惑」である。


「表現の自由」を盾にとる政治的プロパガンダは視覚的暴力になり得る、という自明のことに常識が働かない人物が愛知県知事のようで、自らの姿を外から眺める視線を持たない大人は幼稚な人物だともいえようし、一点の反省もなく逆切れするのは如何なものか。


そもそも、「少女像」を量産して日韓を離間させたのは韓国に入り込んんだ北の工作員たちでもあるし、「少女像」で反日・嫌韓を扇動し続けること自体、実際のところ日韓双方にとり利益にならない。つまり愛知県知事の大村秀章氏はむしろ結果的に更に「嫌韓」を助長しただけなのである。


「表現の自由」などという言葉を馬鹿の一つ覚えのように非常識な視覚的暴力の「免罪符」として使うのは苦しい言い訳に過ぎない。芸術とは一定の技術的手法を駆使しながら見るものの心に普遍性をもって訴えかけてくる製作者の魂を表現したものであり、低俗悪趣味で悪意にみちた一方的な政治プロパガンダの展示物は芸術の名に値しない。そんなことも分からないおそ松くんの方がよっぽど「哀れ」だと思う。

参考:


(注)拙ブログ参照記事



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2 コメント

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芸術。 (jinsen99)
2019-08-17 18:49:07
今回の愛知県知事と関係者の言動に正しい芸術を理解して欲しい!
人それぞれに芸術論を持つのは自由?を認めますが公共事業としての認識が全く無い!のは一県民としても寂しい事です。

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こんばんは (kamakuraboy)
2019-08-17 23:18:11
jinsen99さんコメントをありがとうございます。

この件で、「16日の朝日新聞などによると、醍醐聡・東京大名誉教授らは前日、愛知県庁で記者会見を開き、6日から始まったあいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」展示再開を求める署名に6691人が参加したと明らかにした」などと韓国の中央日報が報じていました。

日本の中にいかに「反日的(自称)文化人」が多いかということにあらためて驚きます。

私的な芸術祭ではなく、ご指摘のように愛知県の「公共事業」なのでしょうし、あのようなものは多数の普通の市民や県民が不快感を受けるような展示物でしかないでしょうから「公共事業としての認識が全く無い」ことがまず問題ですね。
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