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核兵器開発の歴史

2019-03-14 23:36:45 | 歴史
2018/7/21(土) 午前 11:35

まず太平洋戦争で使用された原子力爆弾開発の経緯をみてみることに。


太平洋戦争当時、「マッチ箱1つの大きさで戦艦一隻を沈める」といわれていた新兵器は、今日でいう原子爆弾のことで、日本でも研究開発が進められ、海軍は京大の荒勝研究室、陸軍は理化学研究所(仁科芳雄博士)に研究を依頼していました。理研は研究では実験段階まで米国に先駆けて既に成功していたといわています。


それに先駆け、湯川秀樹博士は1934年に「中間子理論構想」を35年に「素粒子の相互作用について」を発表し、欧米から孤立しつつあって評価されなかった日本の科学者の中で、39年のソルベー会議に招かれ(実際には会議は中止)渡米してアインシュタインと親交をもっていたとされています。43年にはノーベル賞より前に文化勲章が授与されています。


湯川博士は理研に所属しており、京大の研究にも理論面で協力していました。予算はアメリカのマンハッタン計画に比べると微々たるものだったそうです。


この研究を知り、原爆の危険性を知った昭和天皇が「人類滅亡の原因が我ら大和民族であってはならない」と研究の禁止を通告し、終戦を待たずに日本では研究禁止となっていたようです。



「軍の機密に属することで早計に外部に漏らしてはならぬ」という仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。それにも関わらずそれを「米国に売り渡した」とされるのが湯川秀樹博士で、49年のノーベル物理学賞授与はその褒美だったという批判の声も一部にあるようです。


湯川博士のノーベル賞の推薦状の大半が外国の推薦者から出されていた点など「ノーベル賞の歴史の中でも稀なほど、研究成果との関係が明瞭であるように思われる」と、2000年に湯川博士のノーベル賞選考関連文書を調査した岡本拓司氏は述べています。確かに、湯川博士の研究がむしろマンハッタン計画を後押ししたことは否めないようです。



実は原爆投下は事前にごく一部の日本の研究者達には米国の研究者から知らされていたそうで、投下される3か月前の1945年5月のある日、京大冶金教室の主任教授の西村英雄氏が、当時冶金教室の学生だった永田泰次さんを呼び出し、米国学会から秘密裡にニュースが送られてきて、「原爆製作していた日本より先に米国で成功し、その第1回現地テストを広島で行う予定が決まった。出来るだけ早く両親を疎開させなさい」と告げられたそうです。


米国では広島・長崎原爆投下の半年前に「原爆使用反対」の声が一部の科学者より出て、その中心がシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトン所長だったそうですが、シカゴ大と京大の冶金研究はスイス経由で情報交換しており、湯川博士はコンプトン所長と親しく、39年にシカゴ大を訪ねており、湯川博士の原爆研究のデータがコンプトン博士に何らかのルートで流れた可能性もあり、その上で、広島への原爆投下という極秘情報をコンプトン教授から西村教授へ伝わったのではとジャーナリストの鬼塚英昭氏は推理しています。


アインシュタインの書簡発表は39年8月2日。同年湯川博士が渡米しアインシュタインを訪問した後だったのしょうか?それとも前だったのでしょうか。


米国大統領フランクリン・ルーズベルト宛のアインシュタインからの書簡の内容は、原子力とその軍事利用の可能性に触れたもので「確信は持てませんが、非常に強大な新型爆弾が作られることが十分考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことが出来るほどの威力を持っています」という内容。


ドイツ生まれのユダヤ人であるアインシュタインはその翌年の40年に米国籍を取得。43年に米国海軍省兵器局顧問に就任。


42年8月13日に米軍部主導でマンハッタン計画が発足。45年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験成功。


1945年8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下されました。これらは歴史上実戦で唯一使われた大量破壊兵器としての核兵器でした。
 

■広島と長崎での原爆の実験使用
広島に投下された「リトルボーイ」は「全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5t。ウラン235を用いており、二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、臨界量を超過させて起爆する方式(ガンバレル型)で、積載されたウラン140ポンド(約65kg)のうち、1.38%(約876.3g)が核分裂反応を起こしたと推定され、核出力はTNT換算で約15kt(5.5 × 1013ジュール)」とあります。


「広島県広島市の上空高度9,600mから投下され、細工町(現:広島市中区大手町)の島病院上空約600mで爆発。焼失面積13,200,000m2、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらしました。」


爆心地の近くにあった広島県産業奨励館は、現在原爆ドームとして96年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。「負の世界遺産」と呼ばれています。

ヒロシマ型原爆(ウラン原爆)についての詳細:


「長崎に投下された『ファットマン』はプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾で、核物質にはプルトニウム239を用いている。核出力はTNT換算22キロトンを記録。インプロージョン方式で用いられている爆縮レンズはジョン・フォン・ノイマンらによって完成した技術で、
使用されたプルトニウムはワシントン州ハンフォードにあるハンフォード・サイトのB原子炉で製造された」とあります。


長崎で実戦使用された「ファットマン」は長崎県長崎市の北部(現在の松山町)の上空550メートルで炸裂。爆弾の威力は8月6日に広島県広島市に投下されたリトルボーイより若干強いものの、長崎市は起伏に富んだ地形で、平坦な広島市に比べて威力が減殺されたようです。


破壊の度合いは広島市に比べると小さいものの、死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積670万2,300平方キロメートル、全焼全壊計約1万2,900棟という甚大な被害をもたらしました。

ナガサキ型原爆(プルトニウム型)についての詳細:


広島型「ガンバレル型」の原子爆弾は、安全性に大きな問題があるため、米国では作られなくなった、とあります。


■第二次大戦後
第二次大戦以降の核の拡散をざっくりとみてみると

その後、1949年に旧ソ連、52年に英国、60年に仏、64年に中国と国連常任理事国が次々と核実験に成功。これらの国々は大量破壊兵器の核を年製造・保有。



そこで、核保有国の増加や核拡散に歯止めをかけるために「核不拡散条約 (Treaty on the Non-Proliferaction of Nuclear Weapons :NPT」が68年7月に署名開放され、70年3月に発効。


2015年2月現在でNPT締約国は191か国・地域で、非締約国はインド、パキスタン、イスラエル、南スーダンなど。



大量破壊兵器ではないものの、湾岸戦争の際に米軍による対イラク軍への劣化ウラン弾(DU)1万4000発が対戦車砲撃に使用され、その地域での白血病の罹患率や奇形児出生の増加、米軍帰還兵の湾岸戦争症候群などの健康被害が報告されています。これも核の戦時使用例でした。


95年~96年の沖縄の鳥島で米海兵隊のハリアー攻撃機がこの弾丸を誤射して問題にも。


劣化ウランとは天然ウランから濃縮によって濃縮ウランを得た後に残された部分で、比重が約19で鉄の2.5倍、鉛の1.7倍という重金属であるため戦車砲の徹甲弾や装甲材として用いられているそうです。劣化ウランは圧力を加えると発火し1132度で燃焼、目標に着弾し発火したDUは溶解し更に鋭利化して貫通能力が高まるそうです。DUは米軍だけではなく、ロシア、英国、仏国も使用しているようです。


2018年現在、核保有国は常任理事国5か国と、インド、パキスタン、これに北朝鮮が事実上加わり、核保有が確実視されている国はイスラエル、核開発疑惑がもたれている国が、イラン、シリア、ミャンマ―とされているようです。


今回、感想はほぼ省略致しました。

引用:
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110814/1313268734

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9




コメント

核兵器開発の歴史について勉強になりました。知らないことが多かったです。
2018/8/3(金) 午前 1:06 泉城 返信する


> 石田泉城さん
こんばんは。泉城さんにそう仰って頂けたら光栄です。私も書きながら調べて初めて知りました。
2018/8/3(金) 午前 2:49 kamakuraboy

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