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「縄文土器」とはどのようなものなのか

2019-03-05 21:00:48 | 古代
縄文土器とはそもそもどのようなものなのかについて。

まず、日本で初めて縄文土器が見つかったのは、1877年(明治10)年、東京品川区から大田区にまたがる大森貝塚から、アメリカ人動物学者モースが、明治政府の許可を得て発掘調査を行なって見いだされ、cord marked pottery(策文土器)として、科学雑誌「Nature」(1877年11月29日号)で報告したのが始まりだったそうです。

そのときから130年ほどになるわけです。
これまでに日本の考古学研究で積み上げられてきた内容を、谷口康浩という方の、「極東における土器出現の年代と初期の用途」という論文からの抜粋。

最終氷期における土器の用途:
   1期の北方的用途
(1)サケ・マスなど魚類の調理、(2)魚油の抽出
     (3)獣骨からの脂肪の抽出(4)獣肉の加工(5)ニカワの製造
   2期の南方的用途
(1)ドングリ(コナラ、カシワ、クリ)などの調理やアク抜き
   3期 土器の薄手軽量化が顕著となる。これは煮沸効率を高めるため。

これまでの東アジアにおける土器起源:
    日本列島、アムール川中・下流域・沿海州を含めた極東地域、
    中国北部河北省、北京市、中国南部広西壮族自治区、江西省

かつて、加藤晋平(1969)は生態系の似た北海道東部と極東地域に共通して「定着的な漁労経済の中に土器発生の要因がふくまれている」という重要な見解を示唆した。
  以上引用元:
  http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/tande_report/2004/taniguchi2004.pdf

実際、縄文人の血を強く受け継いでいるアイヌの人々と、現在ロシア極東地域の人々(ウリチ人など)は生活様式がよく似ており、気の遠くなるような1万年以上も前の人々も、やはり地域の気候風土から得られる木の実や海産資源などが共通しているからこそ、土器の製作という必然性が生まれて、東アジアにおける土器(製造)の起源があった、あるいは(必要とする)土器を分け与えた、というようにも考えられるのではないだろか。

中国南部では、いくつかの遺跡では土器の出現前後に貝塚が多数出現するなどの変化が現れ、その他のいくつかの遺跡では稲作開始との関係の可能性が指摘されている。

しかし日本では北海道から沖縄を含む全国各地で様々な種類の縄文土器が出土しており、ヤマト、アイヌいずれもが縄文土器の製作を生活の必要性から行っていたとみるべきなのに対して、ロシアは極東、中国も国土の東側の北部と南部の地域の一部からの出土であり、生活の必要性から製作が行われたにしては数が少ない。東アジアという意味でのくくりは出来るかもしれないが、日本の縄文土器と同じくくりの土器とみてよいか疑問である。

日本の初期土器群の年代は、地質編年に対比すると最終氷河期から後氷河期への移行期に相当する。

ここで、共通の問題なのは、ロシアも中国も放射性炭素14測定法を用いているが、暦年較正があるのか、炭素14濃度の測定誤差や測定資料の問題、型式編年上の錯誤などで、各期の暦年代を正確に求めるにはまだ測定値が不足。樹木年輪年代研究が及ばない(5000年以上前の資料については)高精度な年代決定はまだ無理というべきであるが、「統計的方法によって一応の年代推定は可能」という事情。

シベリア東部や中国で出土した土器の年代測定は日本の精度より正確であるとは思えない。


2018年2月9日ヤフーブログに投稿した記事より

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