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中国共産党の一党独裁体制は世界にとって脅威そのもの~武漢市中心病院の悲劇:救急科の医師の回想インタビュー記事

2020-12-23 18:56:39 | China
「中国共産党(CCP)政府の隠蔽体質によって、結果的にCIVID-19の世界規模での感染拡大が起こり、今や世界全体が「収容所」の内側に閉じ込められてしまったような有様。


89年の「天安門事件」のときの日本政府が「中国の孤立化を防ぐべき」だのといった詭弁を弄し「黒いものもいつの日か白に変わるだろう」的な馬鹿げた認識でいたためにCCPを延命させ、肥え太らせて逆に民主化を妨げ、今日の事態を招いたのだ。


日本は歴史からの学ぶべきであり、歴史的にみて世界の平和と安全を脅かしているのは「親中派」の浸透を野放しにし、CCPの延命を助けてきた日本の対応にも責任の一端があるという事実にいい加減に気づくべき。


「超限戦」というありとあらゆる分野での手段を択ばぬ戦略や浸透工作で米国民主党議員や米メディアが腐敗し、現在どうなっているのか、もはやCCPの操り人形のような「民意ではなく不正選挙で選ばれた大統領」が誕生する寸前ではないか。


■武漢株→欧州株→感染力70%アップの変異株
12月23日現在、世界の感染者数は7791万6995人 、死者は171万4550人。しかも現在では急激に感染拡大して、出口が全く見えない。


日本国内の感染者数は20万4430人、死者数は3026人に上り、国内でも感染拡大の勢いが止まらない。


SARSやMERSなどは現在「二類感染症」とされているが、「二類感染症」の患者受け入れ可能な指定医療機関は全国に351医療機関、病床数は1758床とされている。(日本にはこれらの感染症は殆ど入ってこなかったが)


今回のCOVID-19は「指定感染症」扱いで、各都道府県の受け入れ可能な病床数には当然ながら限りがあり、例えばICUなどが満床に近づけばそれだけ、そうした病院の一般医療にしわ寄せが起こり「がん」の手術といった通常であれば助けられる命にも危険が及び、医療従事者は疲弊し地域医療の崩壊につながりかねないという怖さがある。


因みに今回の新型コロナ感染症は厚労省が「指定感染症」扱いを1年延長している。指定感染症は通常の一類から五類感染症とは違い、いままさに政府が大きな注意を払って社会防衛しなければならない感染症という意味らしい。


新型コロナウイルス感染症については、指定感染症として行使できる権限の範囲が、当時の医 学的知見を踏まえ、結核やSARS、MERSといった二類感染症以上となっている。(中略)感染症法に基づく権限の運用 について、政令改正も含め、柔軟に見直しを行っていく。
などとアナウンスされている。


例えばヨーロッパなどえは感染拡大のために、個人の自由よりも、社会防衛のために、今や厳重な外出制限が敷かれているらしい


英国では最近、「感染力が最大で70%強い」新種の「変異株」などもみつかったとされ、空便も物流も止まり「孤島」と化している状態らしい。英国では211万6573人 の延べ感染者数で、死者の数は6万8409人。


12月23日現在の世界の感染者数は7791万6995人 、死者は171万4550人だが、勢いは止まらず、次々と変異していくRNAウイルスに対してワクチンが果たして有効といえるのかどうかもわからず、出口が全く見えない。

引用:



■既にSARSの1万倍の感染拡大
去年の秋、中国の武漢で異変に気付き警鐘を鳴らし始めていた医師らをCCP当局が逮捕拘束せずにきちんと世界に正確な情報発信し、今年の春節の時期に自国民を世界に出さず、まともな防疫体制を速やかに講じていたなら、世界はこれほどまでのパンデミック拡大とはならなかったかもしれない。


例えば、中国南部の広東省を起源とした重症な非定型性肺炎の世界的規模の集団発生”SARS””(重症急性呼吸器症候群severe acute respiratory syndrome)のときをみてみると、「2002年11月16日の中国の症例に始まり、32の地域と 国に渡って8,000人を超える症例が報告され、台湾の症例を最後に2003年7月5日にWHOによって終息宣言が出されており、発生から収束まで8カ月だった。


SARSのときの感染規模と現在のCOVID-19では感染拡大の規模がまるでちがい、数字だけをみれば既に1万倍なのだ。


SARS発生当時と終息宣言当時のWHOの事務局長はノルウェー人のグロ・ハーレム・ブルントラント(在任期間1998年7月21日~2003年7月21日)という女性の事務局長で、その次の次の事務局長はSARS対策の功績から中国政府がWHO事務局長選挙において候補として推挙されてWHO事務局長に就任した香港人の陳馮富珍(マーガレット・チャン 、チャンフォン・フチャン )という人物だった。


■現在のWHOとCCPの隠蔽体質が招いた感染拡大
「アフリカ一中国に近い男」エチオピア人、テドロス・アダノム のような人物がちょうどWHOのトップに座って、発生当初「ヒト‐ヒト感染はない」「中国人の入国拒否は必要ない」などと習近平のスポークスマンのようなアナウンスをしていなければ今ほどの感染拡大までには至っていなかったかもしれない。


嘗てソ連が崩壊したのはソヴィエトの一党独裁体制による社会の閉塞感や経済の行き詰まりと、1986年4月26日 の「チェルノブイリ原発事故」が崩壊に拍車をかけたといわれている。


しかし実はチェルノブイリ原発事故よりも前にから大小様々な問題がソ連内では起こっており「チェルノブイリ、福島に次ぐ3番目に大きな原発事故」といわれる「ウラル核惨事(キシュテム事故) 」という事件が1957年9月29日 に起こっていたにも関わらず、長い間隠蔽し、89年9月20日にグラスノスチの一環として外国人(日本人5人)記者団に資料が公開されるまで真相は明らかにされず、地域住民に放射能汚染が正式に知らされたのはソ連崩壊、ロシア政府発足後の92年前後で対策は後手に回り被害を拡大させたといわれている。 



一党独裁体制の最大の問題点はそうした「隠蔽体質」によってとんでもないことが起こっていてもそれを世界に速やかに発信せずに事態を更に拡大してしまいかねないということが最大の問題点なのだ。


一党独裁体制の頂点にいる指導層は「権威」こそが力の源泉であると考えているから、失敗によって「権威」が失墜し国民の不信感を増大させることを極力恐れ、何かの事故や失敗が起こった場合、それを「糧」にするのではなく組織内で隠蔽しようとする力が働く構造となってしまう。


新型コロナで死亡した世界の感染者死亡者は12月23日現在171万4550人に上り、この数字は「アウシュヴィッツ収容所博物館」による調査結果で ホロコーストで死亡したとされる被害者の数110万人を既に大きく上回った。



引用元:



以下は、5月に別ブログに投稿した記事を再度投稿。

■「武漢市中心病院の悲劇~救急科の医師の回想インタビュー記事」
5月15日現在、新型コロナウイルスの感染者は世界全体で約437万人死者の数は約30万人。


全世界に拡散した新型コロナウイルス感染の最初の発生場所は中国湖北省の武漢市。


武漢市中心病院は感染源と見られた「華南海鮮市場」の近くにあり、医療関係者の感染が最も多い病院の一つとなったそうです。


新型ウイルスの流行拡大にいち早く警鐘を鳴らし、他の7名とともに地元公安当局から「訓戒処分」を受けた眼科の李文亮医師も、武漢市中心病院の勤務医で、その後、自身も感染して新型肺炎で亡くなり、彼が人工呼吸器を装着した姿と地元警察に無理矢理、署名させられた「訓戒書」は、“武漢で真っ先に告発した医師の悲劇”として世界で大きく報じられました。  


李医師が2019年12月30日、グループチャットで医療関係者と共有し、警告メッセージを流して「訓戒処分」の原因となった画像は、武漢市中心病院救急科主任の艾芬(アイファン)という女性医師から送られてきた画像に対して、武漢市の医師らが素早く非常事態であることを察知して医療従事者にマスクや手袋、防護服着用などの注意を促す為に拡散したものだったそうです。


原因不明の肺炎患者のウイルス検査報告を入手した艾芬医師が、「SARSコロナウイルス」と書かれた箇所を赤丸で囲み、大学同期の仲間に送信したのが、「警鐘」の発端となったようで、このことを彼女は「警笛を(自分は吹くことが出来なかったが)渡した」と表現しています。


「そもそも最初に武漢で何が起きていたのか? 武漢でこれほど感染拡大したのはなぜか?」という当時の現地の状況を知るために貴重な証言を艾芬医師がインタビューで語っており、「文春オンライン」に掲載されていました。


■回収され、ネット上から削除されたインタビュー記事
武漢市中心病院救急科主任の艾芬医師のインタビュー内容は3月10日に中国共産党系人民出版社傘下の月刊誌「人物」に記事掲載され、記事が発売と同時に雑誌は回収され、インターネットの掲載記事も2時間後に削除され、転載も禁じられたそうです。


義憤を覚えた市民たちが、外国語、絵文字、甲骨文字、金石文字、モールス信号、点字、QRコードを駆使して記事を拡散させたそうですが、その日本語版が「 文春オンライン」に全文掲載されています。時系列にざっと要約してご紹介いたします。


以下は武漢市中心病院救急科主任艾芬医師がインタビューで語った内容の抜粋です(黄色の文字は私のコメントです)

引用元:

■最初に運び込まれた患者
2019年12月16日、1人の患者が武漢市中心病院南京路分院の救急科に運び込まれた。その患者は救急科入院後も原因不明の高熱が続き、各種の治療薬を投与しても効果が現れず、体温も全く下がらなかった。  


12月22日患者は呼吸器内科に移され、気管支鏡( 内視鏡 )での検査と気管支肺胞洗浄が行われた。検体サンプルは外部の検査機関に送られ、シーケンシング(PCR)検査が行われた結果「コロナウイルス」との検査結果が口頭で報告された。


その患者は武漢市の華南海鮮卸売市場で働いていた人物だった。


12月27日、また1人、別の患者が南京路分院に運び込まれた。艾芬医師の同僚医師の甥で、40代で基礎疾患がないにも関わらず、既に肺が手の施しようのない状態で、血中酸素飽和度は90%( 血中酸素濃度の正常範囲 >95%&)。


2例目の患者は他の病院で10日間治療を受けたが、症状は全く好転せず、そのため呼吸器内科の集中治療室に移され、1例目の患者と同様に、気管支鏡検査と気管支肺胞洗浄を行い、 採取された検体がPCR検査に回された。


■海鮮市場の噂
12月30日の昼、同済病院で働く艾芬医師の同期生がウィーチャットでキャプチャ画像とともに、「しばらく華南〔海鮮市場〕には近づかない方がいいよ。最近、多くの人が高熱を発している」と知らせてきた。


その医師は艾芬医師に「本当かな」と尋ねてきたため、彼女が診断中のある肺感染症患者のCT検査の11秒ほどの動画を送信し、「午前に救急科に来た患者で、華南海鮮卸売市場で働いていた」とのメモも記した。  


その日の午後4時、同僚がPCR検査の結果が記されているカルテを彼女に見せに来た。


検査結果には「SARSコロナウイルス、緑膿菌、46種口腔・気道常在菌」と書かれてあった。


検査結果のコメント欄に「SARSコロナウイルスは1本鎖プラス鎖RNAウイルス。このウイルスの主な感染は近距離の飛沫感染で、患者の気道分泌物に接触することにより明確な感染性を帯び、多くの臓器系に及ぶ特殊な肺炎を引き起こす。SARS型肺炎」とあった。


艾芬医師は、通りかかった呼吸器内科の主任医師に「救急科を受診した患者が呼吸器内科に入院しているのだがこれを見て、これが見つかった」検査結果を示した。


その呼吸器内科医はSARS治療の経験者であり、「これは大変だ」という反応を示した。


艾芬医師は事の重大さを再認識し、同期生や救急科の他の医師グループにもウィーチャットの画像共有アプリを使って彼らに注意を喚起するため、検査結果の記されているカルテの画像を「SARSコロナウイルス、緑膿菌、46種口腔・気道常在菌」という箇所を赤い丸で囲んで送信した。



■武漢市衛生健康委員会からの譴責
その夜艾芬医師が赤丸を付けたカルテのキャプチャ画像が、様々なウィーチャット・グループに溢れるようになった。


亡くなった武漢の眼科の李文亮医師がグループ内に発信したのも、実は艾芬医師から送られてきたカルテ画像だったそうだ。  


艾芬医師は、自分が最初に仲間らに送ったカルテ画像が拡散していることを目にし、「もしかすると面倒なことになるかも」と感じたそうだ。  


午後10時20分、病院を通じて武漢市衛生健康委員会の通知が送られてきた。「市民のパニックを避けるために、肺炎について勝手に外部に情報を公表してはならない。もし万一、そのような情報を勝手に出してパニックを引き起こしたら、責任を追及する」という内容だったそうだ。


艾芬医師はすぐにこの通知も再び同期生に(画像で)転送したところ約1時間後、病院からまた通知が送られてきた。再度、情報を勝手に外部に出すなと強調してあったそうだ。


■8人の医師らに対する口封じ
新型コロナウイルスの発生源とされる華南海産物市場は1月1日に閉鎖されている。(それまでに既に約550人が新型コロナウイルスに感染し、17人が死亡していていたのだ。)


1月1日午後11時46分、病院の監察課(共産党規律検査委員会の行政監察担当部門)の課長から「翌朝、出頭せよ」という指示が送られてきた。


翌朝8時すぎ、勤務交代の引き継ぎも済まぬうちに、艾芬医師に対して「出頭せよ」との催促の電話が鳴り、そして「約談」(法的手続きによらない譴責、訓戒、警告)を受け、彼女は前代未聞の厳しい譴責を受けることになる。 


「我々は会議に出席しても頭が上がらない。ある主任が我々の病院の艾とかいう医師を批判したからだ。専門家として、武漢市中心病院救急科主任として、無原則に組織の規律を無視し、デマを流し、揉め事を引き起こすのはなぜだ?」という内容の譴責だったそうだ。


幹部はさらにこう指示した。 「戻ったら、救急科200人以上のスタッフ全員にデマを流すなと言え。ウィーチャットやショートメールじゃだめだ。直接話すか、電話で伝えろ。だが肺炎については絶対に言うな。自分の旦那にも言うな」  


艾芬医師は絶望に陥った。彼女はただまじめに仕事をするだけの人間で、規則を遵守し、道理に従ってきた。どのようなまちがいを犯したというのだろうか?あのカルテを見て、病院に報告し、同期生や同僚との間で病状について意見交換をしたが、患者のプライバシーは一切漏らさなかった。医師の間で症例に関して議論しただけだった。臨床医師として、患者が重大なウイルスに感染しているのを発見して、別の医師から尋ねられ、これについて口を閉ざしていいのか?」 


知らせるのは医師の本能と言うべきだ。私はいかなる過ちを犯したというのか? 私は医師として、一人の人間として、やるべきことをしただけだ。他の誰かが同じ立場になれば、きっと同じようにしただろう。」


「譴責されたとき、私は胸がいっぱいになった。『これは私がしたことで、他の人は関係がありません。いっそ私を逮捕・投獄してください。このような状態では、もう仕事は続けられません。しばらく休ませてください』」


だが、幹部は受け付けず「今はお前を見定めているのだ」と言った。


■院内感染の拡大
1月9日、退勤するとき、受付にいた患者が、皆がいるところで咳き込んでいるのを目撃した。来院患者にもマスクを配るよう、その日のうちに要請。


このような状況では経費節約などしてはならなかったが、まだ「ヒト―ヒト感染」について外部には知らせなかった。ただ内部だけでマスク着用など感染予防を強調。


艾芬医師は当時の病院内の状況を振り返っている。「その時期、私は気がふさぎ、本当に辛かった。ある医師が白衣の上に防護服を着用すべきだと提案したが、院内の会議で「だめだ。外から見られたらパニックを引き起こす」と却下された。


そのため、彼女は救急科全員に(目立たぬように)白衣の下に防護服を着させたのだという。


患者は増え続け、感染エリアは拡大するばかりだった。


「最初は海鮮卸売市場の付近から発生したのだろうが、その後、感染がさらなる感染を招き、その範囲は拡大していった。多くは家庭内の感染だった。初期に判明した7人の症例には、息子に食事を届けたときに感染した母親がいた。患者に注射をうった診療所の経営者も感染した。皆重症だった。」


それで、艾芬医師はヒト―ヒト感染」が起きていると確信したそうだ。「もし、そうでないとすれば、1月1日に海鮮市場はすでに閉鎖されたのに、なぜ患者が増え続けているのか?」  


彼女は絶えずこう考えた。「あの時、あのように譴責を受けずに、この経緯について穏やかに話し合い、呼吸器内科の専門家との意見交換もできていたならば、状況は少しはましになっていたかもしれない。少なくとも、私は院内でコミュニケーションをもっとよくとれたはずである。」


「もし1月1日の時点で皆が危機意識を持てたならば、あのような悲劇は起きなかっただろう」 


最前線の現場にいて直接感染患者の治療に当たっていた艾芬医師のこの言葉は重い意味をもつと思う。中国共産党の幹部はこの声を真摯に受けとめるべきであろう。


つづき
1月3日、南京路分院の泌尿器外科で、ベテラン主任医師の功績を振り返る会が開かれ、医師たちが集まった。参加した43歳の胡衛峰医師は、今は危篤状態で、集中治療を受けている。

8日午後、南京路分院の第22棟で、江学慶主任医師が武漢市の甲状腺・乳腺疾患の患者の快復を祝う会を開いた。  


李医師はその後、1月10日に咳をし始め、翌日には発熱、2日後には入院することになったと、「微博」に経緯を綴っており、彼の両親も体調を崩し病院へ搬送。


11日の朝、救急科の緊急治療室の胡紫薇看護師が感染したという報告を受けた。おそらく彼女は中心病院で感染した看護師の第1号だった。艾芬医師はすぐに医務課の課長に電話で報告し、院内で緊急会議が開かれた。だが、報告書の「両肺下葉の感染、ウイルス性肺炎?」というタイトルは「 両肺に肺炎が散在」に変えるように指示された。  


1月16日、週の締めくくりの会で、ある副院長が「皆にはちゃんとした医学常識が必要だ。ベテラン医師はこんなことでやたらにパニックを引き起こしてはいかん」と発言。別の幹部は「ヒト―ヒト感染などない。防げるし、治せるし、コントロールもできる」とまで言った。  


その翌日、江学慶医師は入院し、10日後、体外式膜型人工肺(ECMO)での治療を開始するに至ったがその後、死去。


■警鐘を鳴らした8名の医師が譴責されたニュース画像 (文春オンライン記事より)



1月20日、鐘南山博士(国家衛生健康委員会専門家グループ長で感染症研究の第一人者)が「ヒトーヒト感染」を発表してから、ようやく艾芬医師は夫にこれまでのことを打ち明けた。それまでは、家族にさえ、人が多いところを避け、出かけるときはマスクをつけるようにと注意するのが精一杯だったそうだ。  


1月20日、中国政府は新型ウイルスのアウトブレイクについてようやく緊急事態を宣言した。


艾芬医師は彼女も訓戒を受けた8人の医師の1人ではないか、と多くの人が心配してくれたが、実はそうではなかったという。


後日、親友から「君は“警笛”を吹いたのですか?」とたずねられたが、私は「いいえ、警笛を吹いてはいません。警笛を最初に提供しただけです」と答えた。それでも、私は「約談」で大きな衝撃を受けた。心身ともに打ちのめされた。むりやり元気を奮い起こして一所懸命に仕事に打ちこんだが、質問されると、いつも答に窮した。


「私にできたことは、まず救急科の200名以上の医療関係者に予防の注意を喚起することだった。1月1日から一人一人に予防を強化させた。全員にマスク、帽子を着用させ、手洗い消毒を徹底させた。ある日、勤務交代のときに男性看護師がマスクをしていなかったので、『マスクをしないなら、もう仕事にこなくていい』と、その場で叱責した。」


1月22日、中国・湖北省武漢の当局は、生鮮市場での生きた動物の販売を禁止。 


1月23日に約1,100万人が暮らしている武漢市を中国政府は封鎖し、すべてのバスと列車、飛行機、フェリーの運行を停止。


武漢中心病院がこれほど大きな代償を払ったのは、初期段階で医療スタッフに情報が適切に公開されなかったからである、と彼女は振り返っている。


実状を見れば歴然としている。救急科や呼吸器内は予防を喚起したからである。それに病気に罹るとすぐに休ませ、治療に専念させたのだそうだ。


皮肉にも、救急科や呼吸器内科よりも他の診療科は深刻だったようだ。


例えば李文亮は眼科で、江学慶は甲状腺・乳腺科だった。


「江学慶は本当にすばらしい医師で、その医療技術は卓越し、私たちの病院で「中国医師賞」を受賞した2人の中の1人だった。しかも私のご近所で、私は40数階、彼は30数階に暮らしていた。ふだんは超多忙で、打ち合わせや病院のイベントのときしか顔を合わせなかったけれど、仲が良かった。彼はワーカホリックで、常に手術室か外来の診察室につめていた。彼に向かって「江主任、気をつけて、マスクを着けてください」とアドバイスする者はいなかった。彼も注意する余裕もエネルギーもなかった。同僚に「大丈夫さ。たかが肺炎だろう」という態度だった。  


1月30日李医師は中国のソーシャルメディア「微博(ウェイボ)」上で、中国の公安の書類のコピーを公開し、その後自分の身に何があったのかを説明している。


李医師によると、コロナウイルスの検査を複数回受けたが、そのいずれも陰性だったが最後に「今日の核酸増幅検査(=PCR検査)で陽性反応が出た。一件落着した。やっと診断が出た」と書き残し、2月7日に入院先の病院で死亡したと報じられている。


艾芬医師は繰り返し自問自答している。「もし、医師たちに適切に注意喚起がなされていたら、あのようにならなかったかもしれない。当事者の私としては、本当に悔しい。こうなると初めから分かっていたら、譴責など気にかけず『“おれ様(老子(ラオズ))”は』と、お構いなしにあちこち注意を喚起しただろう」


これを契機に「おれ様はお構いなしにあちこち言ってやるぞ」が流行語になったそうだ。


艾芬医師は李文亮医師とは同じ病院で働いていたが、亡くなる前まで彼のことは知らなかったそうだ。4000人以上が勤務しており、いつも超多忙だから。彼が亡くなる夜、ICUの主任医師から救急科に、李医師を助けるためAEDを借りたいという電話がかかってきた。彼女は非常に驚いた。「彼に関するいきさつは詳しく知らないが、彼の病状と訓戒を受けたことによる憂鬱な心理的状況は無関係だろうか?疑念を抱かざるを得ない。訓戒されるということがどういうことか、私自身が身を以て経験したからである」  


その後の状況は、李医師の正しさを実証した。「彼の気持ちは分かる。きっと私と同じだろう。感激したり、喜んだりせず、むしろ悔しくてたまらないだろう。ずっと続けて大声で注意すればよかった、聞かれたらきちんと答えるべきだった、と。私は何度も何度も考えている。もし、時間を後戻りさせられれば」、と。  


1月23日に武漢市が封鎖される前夜、政府の関係部門に勤める彼女の知人から電話があり、救急科の患者の本当の状況について尋ねられた。 


艾芬医師「個人を代表しているのですか? それとも政府を代表しているのですか?」 
知人「個人です」 
艾芬医師「それなら、私も個人として真実を話しましょう。1月21日、救急科は1523名の患者を診察しました。通常の最も多いときの3倍です。その中で発熱している患者は655名です」 


「この時期、救急科の状況を体験した者は、それを生涯忘れないだろう。自分の人生観が根底からひっくり返されたはずだ。



武漢市内の病院には多くの患者が詰めかけた(1月25日撮影)(文春オンライン記事より)


■「死亡原因」を診断することもままならないほど患者であふれかえった現場
「戦争に例えるならば、救急科はまさに最前線。ところが、あの時、病棟は飽和状態になり、原則として患者を受け入れなくなった。ICUも未感染の患者のために1人も受け入れなくなった。そのため、患者は次々に救急科に押し寄せて来た。他に行く道は閉ざされたので、皆、救急科の前に折り重なっていった。  


患者は診察を受けるため数時間も並んで待たなければならず、私たちも残業しなければならなかった。発熱外来も救命救急も区別なく、ホールは患者で満杯になり、緊急治療室も点滴・輸血室も患者で溢れた。  


家族が介助する患者もいた。ある患者の家族が「担架を貸してください。車の中にいる父はもう危篤です」と言ってきた。地下の駐車場は閉鎖され、車は入れなくなっていた。  


仕方なく、私はスタッフと医療機器を持って駆けつけた。だが、一目で患者はすでに息を引き取っていることが分かった。その時の気持ちは、とても、とても受け入れがたい、つらいとしか表しようがない。この患者は車の中で死ななければならなかった。車を降りる機会すら与えられなかった……。  


もう1人、老齢の重症患者がいた。連れ合いが金銀潭病院で亡くなったばかりだった。点滴で治療を受けていて、その息子や娘も感染したので、娘婿が付き添っていた。一目で症状が極めて悪いと分かり、すぐさま呼吸器内科に連絡し、入院させることにした。彼は教養のある人物で、「先生、本当にありがとうございます」と挨拶に来た。私は胸が刺されるようで、「早く連れて行ってください。時間をむだにしてはいけません」と急がせた。だが、入院したとたん、患者は息を引き取った。「ありがとう」の一言で数秒の手遅れになってしまった。この感謝の言葉は、私をとても打ちのめした。  


他の多くの人たちにとっても、家族を入院させた時が最後の別れになり、永遠に再会できなくなった。


「大晦日の朝(旧暦で、2020年は1月24日)、私は勤務交代の引き継ぎの時、全員で記念写真をとろうと呼びかけた。その写真を画像共有アプリで発信したが、お互いに『(春節)おめでとう』などの言葉は交わさなかった。生きていれば、それだけでいいと心で噛みしめていた。」


「しばらく前までは、時間通りに注射してもらえないなど、ちょっとしたミスでも、トラブルを引き起こす患者や家族がいた。ところが、今や、そのようなことはなくなった。皆、突然襲ってきた打撃に意気消沈し、呆然としていた。 」 


「患者が死んでも、家族は嘆き悲しまなくなった。死者があまりにも多かったからだ。「お医者様、どうか助けてください」という代わりに、「早く解脱させて(楽にして)あげてください」という家族さえいた。」 


「もはやこのような段階に至ったのだ。皆、自分が感染することが恐くてたまらなかった。」  


「ある日、発熱外来診察の入口で皆が5時間も順番待ちしていた。すると1人の女性がパタッと倒れた。毛皮付きの服、ショルダーバッグ、ハイヒールというファッションでなかなかおしゃれだった。ところが誰も助けなかった。ずっと床に横たわっていた。やむを得ず、私は看護師と医師を呼び、助けた。 」 


「1月30日朝、病院に来ると、銀髪の老人がいた。32歳の息子が亡くなったので、死亡証明書を受けとりに来たのだ。老人は渡された死亡証明書をじっと見つめ、目には涙が一滴も浮かんでいなかった。」


「どう泣けばいいのか? どうしようもない様子だった。身なりから、よそから出稼ぎに来たような感じだった。はっきりした診断のないまま、息子は死亡証明書という1枚の紙きれになってしまった。」  


「これも私が訴えたいことだ。救急科で死亡した患者は、診断や病状の確定さえできなかった。 」 


「この新型コロナウイルスの嵐が終息したら、遺族に説明したい。少しでも慰めになれたら、と。患者はかわいそうだった。あまりにもかわいそうだった。」


急遽、病院に改造された武漢市内の施設(文春オンライン記事より)
 

■「忙しさ」の意味の違う医療現場
「自分自身の経験や性格から、長年、私は医師としてどんな困難にも挫けないと思ってきた。9歳のとき、父が胃がんで亡くなった。それで大きくなったら人の命を助ける医師になろうと決心した。大学入試では医学部しか志望せず、同済医学院に合格した。1997年に卒業し、中心病院に勤めることになった。まず心臓血管内科に配属され、2010年から救急科の主任医師になった。 我が子のように救急科を大切にし、スタッフを増やし、協力しあって一致団結するように育てた。多くの苦労があったが、だからこそ、このチームをいとおしく思っている。」  


「数日前、ある看護師は、SNSに『前の超多忙な救命救急の仕事が懐かしい』と書き込んだ。あの時の『忙しさ』と今回の「忙しさ」の意味は全く違っている。


「以前は、心筋梗塞、脳梗塞、消化器出血、外傷などで、確かに「忙しい」のだが、明確な目標があり、達成感も得られた。それぞれの患者に焦点を合わせ、練りあげたプロセスやアプローチが確立されていた。次に何をすべきか、どうすべきか、トラブルが起きたら、誰に聞けばいいかなどが明らかにされていた。」 


今回は重症患者があまりにも多く、どう対応していいか分からなかった。私たち医療スタッフもリスクにさらされていた。超多忙の中で本当にどうしようもなく、胸が張り裂けそうだった。」 


「ある朝8時、救急科に若い医師から「今日、気分が悪いので出勤しません」というメッセージが届いた。彼はちょっと個性が強かった。『私たちにはきちんとした規則があります。体調不良なら事前に申し出ねばならない。8時になってから言われても代わりをどう探したらいいのか』と私は応じた。すると彼は怒り出して、『感染が疑われる多数の患者が、あなたの率いる救急科では社会に追い返されている!これはまさに罪だ!』などと返してきた。」


「それが医者としての良心から発せられたものだと承知していた。しかし、私も焦っていたので、『じゃあ私を訴えればいいじゃない? もし、あなたが救急科の主任だったらどうするの?』と問いかけた。」


「彼は数日休み、いつものように働くようになった。彼は決して死を恐れてはいないし、疲れたなどと言おうとしたわけでもなかった。あまりにもひどい状況で、一挙に多くの患者に対応しなければならず、精神的に折れてしまったのだろう。 」 


「多くの医師や看護師が支援のために駆けつけてくれたが、やはり耐えがたい状況だった。泣き出す者さえいた。人のために泣き、自分のために泣いた。いつ自分が感染するか分からなかった。」
 

「1月中旬から下旬には、病院の幹部たちも次々に倒れていった。その中には、救急科の外来診察事務室主任や3人の副院長も含まれていた。医務課課長の娘も感染し、彼自身も家で休んだ。その時期は基本的に誰も他の人をかまうことなどできなくなっていた。それぞれ自分の持ち場で奮闘するという状況だった。」
  

「私の周囲でも、1人また1人と倒れていった。18日、朝8時半、救急科で初めて医師が倒れた。彼は私に「主任、ぼくはやられました」と言った。発熱などの症状はないが、胸部のCT検査では肺がすりガラス状(浸潤影)になっていた。」  


「まもなく、隔離病室の管理責任者の看護師も倒れた。その夜、救急科看護師長も倒れた。その時、まず私に浮かんだ思いは「運がいい」だった。早く倒れれば、それだけ早く戦場から離脱できるから。 」
 

「私はこの3人と濃厚接触していたので、いつかは自分にも番が回ってくると思いながら、毎日仕事に励んだ。しかし、結局、感染しなかった。病院のスタッフは皆、奇跡だと言った。考えてみると、私は喘息の持病があるので、吸入ステロイド薬を使っていて、もしかしたら、それが新型コロナウイルスの肺部での沈殿を抑えたのかもしれない。 」 


(注)COVID-19は無症状もしくは軽度の発熱や上気道炎症状のみで自然に軽快することも多いが,肺炎が悪化し致死的な急性呼吸窮迫症候群 acute respiratory distress syndrome (ARDS)へと進展することもある。ステロイド薬の全身投与は,炎症に伴う肺傷害を抑制する効果が期待されるが、ウイルスクリアランスの遅延,二次感染や長期合併症などの問題も指摘されており,COVID-19 患者に対する効果に関して一定の見解は得られていない。


もしかしたら、艾芬医師は、喘息の持病に対する吸入ステロイド薬を 局所的に絶えず使用していたことで、重症化でみられる血中サイトカインの上昇が抑えられ、COVID-19による上気道炎からARDS化することなく抗体を獲得したというケースなのかもしれない・・



このインタビュー記事は更に続いています。

1月31日にようやくWHOより、新型コロナウイルス関連肺炎の発生状況が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC: Public Health Emergency of International Concern)」と宣言されました。


■救急科スタッフの怒り
「私たち救急科のスタッフは、皆ヒューマニズムの精神を持っている。ところが、中国の病院では救急科の地位が低い。救急科は他の専門科への「通路」にすぎないと見なされている。患者を受け入れるだけだと。今回の災禍でもそうで、このような軽視は前々からあった。」


「当初、新型コロナ関連の医療物資が不足し、救急科の看護師には、質の低い防護服しか配給されなかった。私のチームの看護師がそのひどい防護服で仕事をしているのを見て私は怒りを覚え、週の締めくくりの会のウィーチャット・グループで怒りを爆発させた。その後、少しだけ状況はよくなり、多くの部門の主任たちは自分の部門にあった防護服を私たちに回してくれた。 」 


「食事の問題もあった。患者が多い時期、管理も混乱し、救急科は食べ物さえ不足した。他の診療科では勤務を終えた後の食べ物や飲み物がずらりと用意されていたが、救急科はそうではなかった。発熱外来の医師は、ウィーチャット・グループで「救急科には紙おむつしかない」と不満をもらした。私たちは最前線で闘っているのに、この有り様だった。時に、何とも言い表しようのない怒りが湧くことさえあった。 」 


「救急科では40名以上の感染者が出た。私は感染したスタッフを集め、ウィーチャット・グループを作った。「『救急科発症グループ』と名づけたが、看護師長が「ちょっと不吉です」といったので、「救急科頑張れグループ」に改めた。


感染しても、ことさら悲しまず、絶望せず、恨み言などこぼさなかった。お互いに前向きに助けあい、全員でこの難局を乗り切ろうという気風だった。  


若き医師や看護師たちは本当に『よい子』だった。でも、私に付いてきたために、時に不当に扱われ、やりきれない思いを抱かせられた。今回の災禍を踏まえて、国にはもっと救急科にリソースを回してほしい。多くの国の医療体制では、救命救急の専門家は非常に重視されている」



「2月17日、画像を最初に受け取り他に転送した同済医学院の同期生から『すみませんでした」というメッセージが送られてきた。私は「いいえ、あなたが発信したおかげで、一部だが、即時に注意喚起できました。李文亮たち8人がいなければ、あの状況を知る人はもっと少なかったでしょう」』と答えた。」  


「今回のことで、私たち救急科では、3人の女医の家族全員が感染した。そのうちの2人は夫、夫の両親が感染し、もう一人は自分の両親、姉、夫、それに自分自身も感染した。皆、あれほど早く、初動の段階で察知できたのに、甚大な被害に見舞われてしまった。」


代償はあまりにも大きく、しかも各方面に及んでいる。このような結果になってしまい、皆やりきれない思いだ。亡くなった方々だけでなく、生き残った患者も代償を払っているのだから」。  


「私たち「救急科頑張れグループ」では、皆がいつも体調を知らせ合っている。例えば、心拍数が毎分120回になる人には、「大丈夫?」と声をかける。それはまちがいなく深刻な状態だから。少し動いただけで動悸が激しくなるのであれば、一生の健康に影響しかねない。歳をとると心肺機能が一般よりも早く衰えてしまうかもしれない。」


「たとえ今のところ何ともないとしても、後になり、山に登ったり、旅行に出かけたりする時、自分だけできなくなるかもしれない。そのような後遺症のリスクは常にある。 」 


「武漢もそうだ。武漢はにぎやかな街だと皆が言う。ところが、今や大通りのどこでもひっそりとしている。買おうと思っても多くの品物が手に入らず、全国から支援を受けるという状況になってしまった。 」 


「数日前、広西〔チワン族自治区〕から支援に来た看護師が、仕事中、突然意識を失った。緊急処置し、何とか心拍数は回復できたが、まだ昏睡状態が続いている。彼女は、ここに来なければ、こんなひどい目にあわず、自宅で平穏に過ごせただろう。私たちは申し訳ないと思っている。 」 


このウイルス禍は、病院の多くの人々に深い傷跡を残した。私の部下、特にチームの中堅クラスの医師を含む数人の医療関係者が辞職したいと言ってきた。考え方や常識が揺らいだことは否めない。まじめに働くことが正しいのだろうか? 」


「亡くなった江学慶もそうだった。彼は仕事に対して非常にまじめで、患者に対しても一所懸命だった。毎日、毎年の正月や祝日でさえ、いつも手術していた。今日、彼の娘のメッセージが転送されてきた。「お父さんは、自分の時間のすべてを患者に捧げました」と書いてあった。私自身、いっそのこと家に戻り、主婦になろうかなどと数え切れないほど考えた。」  


「このウイルスが蔓延し始めてから、私は一度も帰宅せず、夫と外泊を続けた。子供たちは、私の妹が面倒を見て、2番目のおちびちゃんは私を忘れてしまった。ビデオ通話しても、私が母だとは分からない様子だった。私は落ち込んでしまった。おちびちゃんは、出産時に5キロもあったので、とても難産だった。私自身も妊娠糖尿病になった。そして、まだ授乳中だったが、このウイルス禍で断乳しなければならなくなった。それを決心したとき、とても辛かった。でも、夫はこう言った。 『一生のうちでこのような災禍にめぐり合わせ、しかも、君は単なる参加者ではなく、チームを率いて闘う身だ。これはとても有意義なことだ。時間を経て、すべてが元に戻った後、皆でこのことを思い出すとき、きっと非常に貴重な体験だったと思えるだろう』」


「2月21日、朝、病院の幹部に呼び出された。私にはいくつか聞きたいことがあった。例えば、あの時、譴責したことは間違いだと思わないかなど。私は謝罪を期待した、しかし、口に出す勇気はなかった。そして、誰からも、どのような場でも、私に対する謝罪はなかった。 」 


「しかし、今回の出来事を通して、私は、一人一人が自分の独立精神を持つべきだということが証明されたと考える。立ち上がり真実を語る者が必要なのだ。誰かがそうしなければならない。この世界では、異なる声が必要とされている。」  


「一人の武漢市民として、私はこの街を愛している。以前の普通すぎる生活を思うと、それがどんなに贅沢で幸福だったかが分かる。おちびちゃんを抱いて、一緒に遊びに出かけ、滑り台から滑り降りたり、夫と一緒に映画を観に行ったりすること。それは、以前は特別なことではなかったが、今では幸せだったとかみしめている。今では、手の届かない至福だったと。」

 文春オンライン/中国政府に口封じされた……武漢・中国人女性医師の手記〈幹部はこう指示した。「肺炎について絶対言うな」〉/アイ・フェン――文藝春秋特選記事」(劉燕子訳)より

貴重な体験談ですので、ご紹介させていただきました。




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2 コメント

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良い年を迎えたいが (泉城)
2020-12-25 07:41:08
おはようございます。
CCPの隠蔽体質とは対照的にチャイナには艾芬のように健全な感覚を持つ人々がいることを忘れてはいけませんね。
ただ、習隠蔽が登場してからますます情報操作などが顕著になったように思います。
これまでのところ菅政権は、依然としてチャイナなどからの入国を厳しくしていませんが、来年の春節に日本政府はどう対応するのでしょうか。
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問題なのはCCP (kamakuraboy)
2020-12-25 09:22:30
私もその点を忘れてはならないと思います。

「艾芬のように健全な感覚を持つ人々」も中国にはおり、だからこそ30年前、西側諸国が経済制裁などの圧力をかけ続けて、厳しい視線を送りつづけていれば、徐々に民主化の方に力が再び起こってまともな国になっていたかもしれません。


現在でも日本などにやってくる富裕層は概ねCCPの家族で、CCP幹部の妻子は国を捨て大金を持って米国やカナダになどに移民していたそうですが、米国やカナダは今後の受け入れは、流石に緩めずに厳しくなりそうですから、「千人計画」の工作員や留学生などが日本に今まで以上に押し寄せてきそうで困った問題です。政府や官僚の中に親中派がうようよいますし・・・

10月以降の外国人の入国に関する数字が法務省のHPになかなか記載されなくなっているのが非常に怪しいと思っております。
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