てくてくだより

森のこども園てくてくの日々での雑感を、園長小菅がつづります。

学びの意欲はだれもが備えもっている

2019-02-24 22:12:39 | 日記


主体的で対話的な深い学びを合言葉に幼児教育・学校教育の改革が進んでいます。対話をし、主体的に動くことが学びに繋がっていくと捉えてこの改革を楽しみにしています。
 私は、畑で子どもたちと野菜を育てています。畑に種をまくと芽が出る様に重ねて思うことがあります。芽を出そうとする力はどの種もが備え持っているのだけれど、土や気象条件などの環境によって芽を出せるか否かは変わってきます。芽を出そうとすることを学ぶ意欲と捉えると学ぶことは誰もが望んでいることで、その意欲をずっと持ち続け、たくさんのことに興味を持って観察し、知りたいと思い、知ったことを自分の知恵としていくかどうかは、私たち大人がどんな土を用意してあげられるかなのだと考えるのです。
 肥沃過ぎると根を伸ばそうとしなくても養分をもらえるので、根が弱ります。水を与えすぎても同じで、足りなくからこそ水分や養分を求めて自ら根を広げ、深く張っていく植物の成長を見ながら、子どもたちが気持ちよく根をはっていける土をどうやって用意しようかと思い巡らせます。でも、主体は「種」であって「土」ではないのと視点を変えるととても心が軽くなります。「大丈夫、私も目の前の子も、ちゃんと学ぶ意欲と育む力を備え持っている」ということを胸におくと、足りないと不安になることもなく、必要なものを自ら求め始めていきます。

赦すということ

2018-12-02 19:50:26 | 日記
  
 
今日は子どもたちが毎日過ごしてきた森の冬じまい。

ベンチやテーブルをしまい、屋根にブルーシートをかけてながめると春からの子どもたちとの日々が浮かび上がってきました。
明日は、たいまつを持って森へありがとうを伝える火のおまつりです。
ずっと見守ってくれた森の仲間たちと空からいつも見守ってくれている地主の佐藤さんに、毎日火を炊いてきた子どもたちが、たいまつを持てるくらい成長した自分を見てもらいながら、感謝を伝える日です。

 本当に成長したなーと思える場面が数日前にもありました。

 今日が森で一日遊んですごす最後の日。でもあいにくの冷たい雨がザーザーと降っています。
最後なのでの森で集合しましたが、あまりの雨に「園舎に行きたーい」という声も出てきました。
でも一人の子はかたくなに「一日森に居たい」といいます。他の子もできるだけ長く森にいたいけど、一日は大変だし、思いっきり遊べないなーという気持ち。
ずっと森に居たい子の気持ちも大事しながら、妥協案を探りますが、なかなかです。
そのうちに「いつもそうやって自分お考えを変えないんだよな」「おれたちはいつも〇〇くんの気持ちを考えているのにさー」という声も出てきました。
ずいぶんと長い時間この問答をしていると疲れてきた子どももいて、どうなるかと思いまいたが、
最後は「わかった。そんなにここに居たいんなら、つきあってやるよ!」と一人子が言いました。すると何人かの子どもも「私も付き合う」「ぼくもいいよ」と。

そんな様子にかたくなだった子は、「いやーでもさー、お昼を食べたら園舎に行ってもいいんだよ」と言い方が変わってきました。
私が「お昼を森で食べるってことは、調理も雨の中でやれるのか」と確認すると、彼は「だーかーらー、11時まででいいよ」
となったのです。11時までは森で楽しむけど、園舎に行きたいみんなの気持ちを受け入れてくれたのです。

「わーありがとう」と何人かがハグをしに彼のそばにに集まりました。ハグされている彼の表情は忘れられません。

するともうみんなの気持ちは園舎に行こうという事になり、まだ11時にはなっていませんでしたが、みんなで園舎に移動しました。
その頃にはもう雨も弱まってきていたのですけどね、、、、。

移動する時の車の助手席は、考えを譲ってくれた彼のための特等席で取っておかれていました。

なかなか合意ができずに結末はどうなることかと思いましたが、
最後まであきらめなかったみんなと、お互いを本音で交わり合い、赦したり、攻撃したりをくり返し、
本当に互いを受入れ、赦しあったときの一体感は、なんだか数日たった今でもぬくもりとして残っています。

こんな自分の意見をぶつけ合い、互いを思い、思うようにいかないことも赦し合って最後まで関わりをあきらめない
子どもたちの成長と育っている心の芯のようなものを見せてもらった日でした。

この子たちをいつも見守ってくれた森、そして空の上のお山のお父さん、本当にありがとうです。
明日は、子どもたちの晴れ姿と共にありがとうを伝えつくしたいと思います。

そして、今年の火のおまつりはちょっといつもと違う思い入れもあります。
それは、3歳で空へ行ってしまった森の仲間も、同じく卒園の年なのです。あす主役となる子どもたちとともに入園したお子さんでした。
なので、この3年間は、彼もいっしょに森にいるんだと思いを持ってきました。
空にいる彼にも森に出会ってくれて、ともに在ったことのありがとうを伝えたいです。

明日が良い日でありますように。

心を動かす表現者たち

2018-11-24 15:30:46 | 日記
 

子どもたちの絵は、どれを見てもたのしく、面白い。ぐるぐる描いただけの絵でも、その色の配色や丸の大きさや形の重なりに、大人には真似ようとしてもできない感性を感じてしまいます。
 それは偶発性の重なりです。偶然に発生した意思の表れの重なり。偶然であっても、子どもたちは常に感覚の中で物事をとらえているので、概念ではない、感覚のままに偶然の重なりの美しさを生み出すことができる天才です。頭で考えてできることではなく、練習してできるものでもないということです。
 幼児期は、この感覚的な世界を十分に味わうことができたらどんなに素敵だろうかと思います。知的好奇心は、子どもの発達の中でこの感覚期を十分に味わえば、自ずと出てくるものです。
 いろんなものに触ると心が動きます。心がたくさん動くと次の感心や好奇心が生まれます。心で感じていることを、毎日様々な遊びの中で表しています。うたや絵、積み木や砂浴びに工作。毎日繰り広げられる様々な表現の中で、工夫したり、夢中になったりすることは、学びそのものです。
 


こどもの共感できる力と攻撃する力

2018-11-24 15:16:03 | 日記

 
 人は、他の動物と違う大きな点は、自分以外の人の気持ちに共感できる心を持っている点だというお話を聞いたことがあります。あの人はきっと悲しいに違いない、と同じように涙することは、他の動物にはないというのです。その共感性を持っているがゆえに、大切な人が傷ついてしまった時に、傷つけた人を憎く思う攻撃性もうまれるという両方を持ちあわせているのだというお話でした。
 共感性と攻撃性。子どもたちの成長の過程では、自分の物を守るために他の子をたたいたり、噛んだりということもあります。まだ言葉が未熟なので、言葉以外の何かで伝えるには、どうしても手が出たりしてしまうものです。親は、人に噛みついたり、叩いたりというのは切ないのですが、「ダメよ」という攻撃性を抑え込む言葉かけよりも、共感してあげる言葉がけをたくさん受けていくと、共感してもらえた嬉しさを味わっていき、自分以外の誰かの気持ちに共感できる心を膨らませていきます。「いやだったんだね」という言葉で共感し、「でも噛まれたあの子も痛そうだったね」という共感につながる関わり方になったら素敵です。
 大きくなるにつれ、いじめの問題も大きくなっていきますが、誰でも攻撃性は持ち合わせているし、起こりうるものとして、抑え込んだりするのではなく、攻撃してしまった子にも共感していってあげることが第一で、その上でやってはいけないことがあれば、示していってあげたいなと思います。


センス・オブ・ワンダー

2018-11-24 15:09:59 | 日記


“知ることは、感じることの半分も重要ではない”これは、環境問題を世界に提言した「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンの言葉。甥っ子ロジャーと森で過ごした時間を「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」の育みであったと世に言葉を発信したものだ。環境教育の世界でバイブル的存在だったものが、今は保育・学校教育の世界でもバイブル的なものとなり多くの人の心を動かし続けている言葉です。
自然の中では、「きれいだね」「すてきだね」という言葉だけでなく、言葉を飲み込んでしまうほどの写しい光景に出会うことがある。いくつもの条件がかみ合い、偶然のように出会う光景ですが、偶然ではない運命的なことすらも感じます。人知を超えた世界が織り成し創造したものに出会いながら、心を動かし、人間としての感性を育んでいくのは、ゆったりとした時間の流れが保障されている幼児期こそ大事なことです。幼い子どもたちの誰もにこのセンス・オブ・ワンダーを届けたいと願ってやみません。