樹の事務所から、1年後に出る新曲のパッケージデザインの製作の依頼があった。
所属してるデザイン事務所ではなく、私を名指しで。
それを受けて、営業の田中さんと彼の事務所に向かった。
田中さんは、7歳年上のベテランの営業の人。
今回は、パッケージ全体を手掛ける、私のマネージャーのような形で、同行してくれた。
大手音楽事務所。
そう聞いてはいたけれど、都心にある中規模のビルの3フロアだと聞いて、意外だった。
受付に予定を告げると、プロデューサーとチーフマネージャーである、なつきが迎えに来てくれた。
「今回は、引き受けて下さってありがとうございます」
なつき…いえ、チーフマネージャーからていねいに挨拶され、3階の会議室に案内された。
エレベーターを降りて、案内された会議室に入ろうとした時。
「あ、岡本さんは、ちょっとこちらへ。田中さんはこの会議室で少々お待ち下さい」
なつきに導かれ、『第4会議室』と書かれたドアの前に止まった。
「さ、入って。済んだらまたさっきの会議室に来てね」
さっさと行ってしまったなつきを見送り、ドアを開けた。
そこには、そうだろうと思っていた人が、私を待っていた。
「裕子、久しぶり」
「樹…」
腕を伸ばし、私の腕を掴み、引き寄せられる。
久しぶりのはずなのに、彼の香りに包まれると、一瞬で樹の恋人に戻れた。
「裕子、俺の願いを叶えてくれてありがとう」
「…ううん、私の夢を樹が叶えてくれたの。樹の言葉を信じて、ここまで来られたの」
樹の胸に頬を擦り寄せ、目を瞑る。
このまま、樹にずっと甘えていたい。
でも…
「樹、まだ、これからだよね。これから始めるの、樹の願いが叶うように」
顔を上げてそっと樹の胸から離れた。
「うん、分かった。要望は遠慮無く出しますよ、岡本さん」
「分かりました、何なりとどうぞ、西山さん」
顔を見合わせて笑い合う。
会議室に戻ったら、たぶん、こんな二人ではいられないと思うと、笑っていても胸がきゅっとして苦しい…
「裕子…分かってると思うけど、俺と裕子の関係は高山さんしか知らないんだ。だから…」
「分かってる…私と樹は、ミュージシャンとデザイナー、ってことは。高校の同級生なんて、誰も掘り起こしてないことだし」
「うん…気になることがあるかもしれないけど、気にするなよ」
私の頬と唇にそっと指で触れてからドアを開け、樹が出て行く。
私もついて行き、スタッフが集まる会議室に向かった。
顔合わせ、何回もの打ち合わせ。
樹の要望を聞いてデザインのプランを練る。
CDのパッケージデザインの仕事は、初めてじゃない。
前回手掛けたものは、それなりに評価されたから、樹の事務所も依頼してくれたそうだ。
そうでないと、いくら樹の希望があっても無理だっただろう。
今回は、ベースになる絵を私が描くことになってる。
だから、自分の事務所に持ち帰って、納得行くまで描いた。
樹に見て決めて貰うため、何パターンか準備て。
持参する前に田中さんにも見せた。
田中さんは営業だけれど、今までかなりのアート作品を見てる人。
田中さんは、どんな目で見るんだろう…
「岡本さんは、西山さんとは初対面だったの?」
じっと絵を見ながら、田中さんに聞かれた。
「え…?どうしてそんなこと聞くんですか」
「…質問には、答えてくれないの?仮に違ったとしても、誰かに言うつもりはないよ」
田中さんの穏やかな顔を見て、警戒した言葉を発したことを、後悔した。
田中さんには、事情を話しておいたほうがいいかもしれない…
「初対面じゃないんです…彼は、高校の同級生だった人で」
「それで、恋人だった?いや、今もそうかな。」
「…なんで?そんな…」
「やっぱりね」
出来上がったこの絵から、そんなことが読み取れるんだろうか。
それとも、私の態度が不自然だった?
「そんな、慌てなくていいよ。顔合わせの時の別行動と…この横顔への視線は恋人だと思ったから」
「そうなんですか…」
田中さんには隠しても無駄だと思って、樹とのいきさつを、全て話した。
ライブハウスでの活動、一度遠ざかってまったこと、樹の希望を叶えたくてデザイナーになったこと。
「岡本さん、すごいね。彼の希望を叶える為に大手の広告代理店を飛び出すなんて」
「…私の夢でもあったんです」
「分かった」
「え?」
「俺が出来ることなら、協力するから。なんでも言って。」
「ありがとうございます」
有難い。
一緒に動く田中さんが分かってくれてたら、ずいぶん違う。
それからは、打ち合わせ、持ち帰りの繰り返し。
手を加えると、その都度彼に見せて修正していく。
樹の言葉は的確で、でも押し付けがましくなくて、すごくやり易い。
そのせいか、絵自体はわりと早い段階でOKが出た。
後は他のデザインとのバランスや配色。
裏には樹の画像も入れたいから、撮影もしなければならない。
新曲のリース前だから、樹もパッケージデザインにばかりに関わっていられない。
でも1度も、急かしたりしなかったし、そんな態度も取らなかった。
撮影の時間が短くて、集中して撮らなければならなくても、決して慌てない。
落ち着きはらってポーズをとる樹を見て、私は思わずふーっと大きく息を吐いた。
「岡本さん、どうしたの。おっきなため息ついて」
「あっ田中さん、すみません…つい」
「何か気になることでも?」
「いえ、つくづく彼の集中力ってすごいと思って」
「ああ…分かるよ。時間が無いのに、焦りもせずに要求に応えていってるよね。売れてる人って時間の使い方がうまい人が多いと思うよ」
「そうですね。タイトなスケジュールをこなすには、集中力がないと。でも、そんな忙しいのにいつも穏やかなんです」
「苛立ったりすると、まわりもピリピリするからねえ」
「あ~それを言われると…私、時間が押すとつい現場でイライラしてしまうので…ほんとにすみません」
私がぺこっと頭を下げると、田中さんはニヤッと笑ってみせる。
「そうだね、時々アシスタントに指示する声が、低くなってるよ」
あぁ、やっぱり。
デザインで賞を貰ったりもしたけれど、まだまだ悩むことばっかり。
彼の前でこんなキリキリした顔、見せたくなかったのに…
仕事なんだからぼーっとした顔ではいけないという気持ちと、彼の前ではおっとりした私でいたい気持ち。
こんなことで悩むなんてと、自分の余裕の無さに落ち込んだ。
「岡本さん」
撮影が終わり、衣装のまま彼が近づいて来た。
スッキリとスーツを着こなしていて、一瞬立場を忘れて見とれてしまった。
「…どうしたの?」
田中さんが離れてしまって、私1人だったからかふだんの樹の声。
「…なんでもないの…スーツに見とれてた」
小さな声で言うと、くしゃっと嬉しそうな笑顔になった。
「…照れるな…じゃ、今日はこれで終わり?」
「…終わりです。お疲れさまでした」
その時、スタッフの女性が近づいて来たから、彼に目配せする。
「お疲れさまでした。じゃ、」
彼の指が、私の手に一瞬触れる。
けれどすぐに離れて、スタッフの女性の方へ行ってしまった。
ほんの一瞬、彼の指の熱が私の指に移る。
近くにいるのに触れることが出来ない日々。
だから、こんな風に少しでも触れられたら、嬉しくて顔が緩んでしまう。
スタッフの女性は、樹に近寄って短く言葉を交わすと、私の方に近づいて来た。
「…まりちゃん」
「裕子ちゃん、お久しぶり。もう、裕子ちゃんなんて呼んじゃいけなかったかな」
「そんなこと…まだ、彼のスタッフを?」
「そうね。アシスタントのアシスタントみたいな、雑用ばっかりだけどね」
「そう…」
「樹くんが一緒にやらないかって、誘ってくれたの」
樹くん…
そう言ったまりちゃんの顔は、私を睨んでいるように見えた。
「裕子ちゃん、樹くんの近くに戻って来たのね」
「近くって訳ではないけど…仕事だし」
「彼の邪魔じゃなくて、お仕事してるのってことね。」
まりちゃんの言葉のトゲに、ハッとして彼女を見ると口をきゅっと結んでる。
「まりちゃん、私は…」
「今さら戻って来ても無駄よ。噂になってる人のこと、知らないの」
…まりちゃん、なんでこんなに苛立ってるの。
私、何か悪いことでもした?
まりちゃんの顔を見つめて固まっている私に、
「広告だけ作ってればよかったのに」
そう言って、ぷいと行ってしまった。
…今、何があったの。
まさか、まりちゃんがここにいるなんて。
噂になってる人って、誰なの。
「裕子、どうしたの。もう今日はこれで終わりでしょ」
「…なつき…今、いたスタッフの人」
「あぁ、ライブハウス時代からの人ね。ちょっと西山くんに思い入れが強そうな」
「知ってるの、私。あの人がまりちゃんなの」
「えっ…裕子に余計なこと吹き込んだ、あの?」
「うん…」
「また、余計なこと言ったんじゃないでしょうね」
「言われた。樹と噂になってる人って誰?」
言った途端、なつきが思い当たる顔をした。
「本当なの」
「本当な訳ないじゃない。西山くんと彼女とスタッフ全員が参加した、食事会の時に撮られたのよ。さも二人だけみたいな書き方で」
「そうなの…」
「この世界ではよくあることよ。西山くんと話したでしょ。後ろめたいことなんて、あるわけないじゃない」
「…うん、そうね」
「この仕事終わったら、ちゃんとゆっくり話なさいよ」
「そんな時間、あるのかな」
「…そう言われると…でもきっと、どうにかするわよ」
他のスタッフに呼ばれて、なつきはそこで行ってしまった。
まりちゃんとの再会、噂の人のこと。
モヤモヤを抱えたまま、ノロノロと帰り支度をする。
とにかく、この仕事が終わったら。
1年後、パッケージは出来上がりCDの発売日を迎えた。
参加したスタッフを集めて、樹の事務所で慰労会があったけれど、田中さんに行って貰った。
担当は、私だったのに…
まりちゃんに言われたことが引っ掛かって、きっと樹の顔をちゃんと見られないと思ったから。
これから、樹には怒涛のプロモーションが待っている。
CDが発売された、これからがまた忙しいのだ。
ようやくまた会えたけど、恋人として甘えられる時間は、樹には無い。
私の仕事は終わったから、仕事で会う理由も無い。
お疲れさま、ありがとうのメールが来たっきり。
彼と一緒に仕事をしたことで、思い知らされたことがあった。
彼のまわりには女性が大勢いること。
スタッフ、共演者、歌番組で一緒になる女性のミュージシャンだって。
噂になった人は、CMで共演した女優さんらしい。
彼のファンだと公言していて、撮影終わりに食事会になったとか…
後でなつきが、詳しく知らせてくれた。
…そんな大勢の女性が、樹を囲んでいるような状況で。
私は、樹のそばにいられるのだろうか。
いて、いいのだろうか。
樹は、私でいいの?
慰労会の翌日、田中さんに言われた。
「昨日、なんで来なかったの?西山さん、気にしてたよ。体調でも悪いのかって」
「すみません…心配お掛けして。体調は、悪くありません…ただ、自信が無くて」
「…何の自信?」
「まだ、樹…西山さんの近くに、いていいのかなって」
「え?なんでそんなこと、考えちゃう?何かあった?」
田中さんに、まりちゃんの言ったこと、噂のことを話した。
「そう、そんなこと言われたんだ。正直、その噂とやらは、直接西山さんから聞いた方がいいと思うよ。話題を作りたくてその女優さんサイドが流したとか、よくある話だからね」
「そんなこと、するんですか」
「大丈夫、とにかく西山さんが落ち着いたら、よく話した方がいいよ。今は、プロモーション中でしょ」
新曲は幅広く受け入れられ、プロモーション効果もあって、大ヒットになった。
暮れには紅白に出場。
華やかな世界にいる彼を、テレビの画面越しに1人部屋で見ていた。
私は彼の仕事相手にはなれたけれど、恋人には戻れてない気がする。
テレビ越しに見る彼は、遠い世界の人。
今回の仕事を受けた時は、これで元通りになるって、思えたのに。
私、樹の隣にいられるのかな。
1人でいると、止めどなく涙が溢れてしまう。
本当は、彼の温もりに包まれたい。
彼の胸の中に戻りたい。
目の前にないものに焦がれて、ただ画面を見つめていた。
所属してるデザイン事務所ではなく、私を名指しで。
それを受けて、営業の田中さんと彼の事務所に向かった。
田中さんは、7歳年上のベテランの営業の人。
今回は、パッケージ全体を手掛ける、私のマネージャーのような形で、同行してくれた。
大手音楽事務所。
そう聞いてはいたけれど、都心にある中規模のビルの3フロアだと聞いて、意外だった。
受付に予定を告げると、プロデューサーとチーフマネージャーである、なつきが迎えに来てくれた。
「今回は、引き受けて下さってありがとうございます」
なつき…いえ、チーフマネージャーからていねいに挨拶され、3階の会議室に案内された。
エレベーターを降りて、案内された会議室に入ろうとした時。
「あ、岡本さんは、ちょっとこちらへ。田中さんはこの会議室で少々お待ち下さい」
なつきに導かれ、『第4会議室』と書かれたドアの前に止まった。
「さ、入って。済んだらまたさっきの会議室に来てね」
さっさと行ってしまったなつきを見送り、ドアを開けた。
そこには、そうだろうと思っていた人が、私を待っていた。
「裕子、久しぶり」
「樹…」
腕を伸ばし、私の腕を掴み、引き寄せられる。
久しぶりのはずなのに、彼の香りに包まれると、一瞬で樹の恋人に戻れた。
「裕子、俺の願いを叶えてくれてありがとう」
「…ううん、私の夢を樹が叶えてくれたの。樹の言葉を信じて、ここまで来られたの」
樹の胸に頬を擦り寄せ、目を瞑る。
このまま、樹にずっと甘えていたい。
でも…
「樹、まだ、これからだよね。これから始めるの、樹の願いが叶うように」
顔を上げてそっと樹の胸から離れた。
「うん、分かった。要望は遠慮無く出しますよ、岡本さん」
「分かりました、何なりとどうぞ、西山さん」
顔を見合わせて笑い合う。
会議室に戻ったら、たぶん、こんな二人ではいられないと思うと、笑っていても胸がきゅっとして苦しい…
「裕子…分かってると思うけど、俺と裕子の関係は高山さんしか知らないんだ。だから…」
「分かってる…私と樹は、ミュージシャンとデザイナー、ってことは。高校の同級生なんて、誰も掘り起こしてないことだし」
「うん…気になることがあるかもしれないけど、気にするなよ」
私の頬と唇にそっと指で触れてからドアを開け、樹が出て行く。
私もついて行き、スタッフが集まる会議室に向かった。
顔合わせ、何回もの打ち合わせ。
樹の要望を聞いてデザインのプランを練る。
CDのパッケージデザインの仕事は、初めてじゃない。
前回手掛けたものは、それなりに評価されたから、樹の事務所も依頼してくれたそうだ。
そうでないと、いくら樹の希望があっても無理だっただろう。
今回は、ベースになる絵を私が描くことになってる。
だから、自分の事務所に持ち帰って、納得行くまで描いた。
樹に見て決めて貰うため、何パターンか準備て。
持参する前に田中さんにも見せた。
田中さんは営業だけれど、今までかなりのアート作品を見てる人。
田中さんは、どんな目で見るんだろう…
「岡本さんは、西山さんとは初対面だったの?」
じっと絵を見ながら、田中さんに聞かれた。
「え…?どうしてそんなこと聞くんですか」
「…質問には、答えてくれないの?仮に違ったとしても、誰かに言うつもりはないよ」
田中さんの穏やかな顔を見て、警戒した言葉を発したことを、後悔した。
田中さんには、事情を話しておいたほうがいいかもしれない…
「初対面じゃないんです…彼は、高校の同級生だった人で」
「それで、恋人だった?いや、今もそうかな。」
「…なんで?そんな…」
「やっぱりね」
出来上がったこの絵から、そんなことが読み取れるんだろうか。
それとも、私の態度が不自然だった?
「そんな、慌てなくていいよ。顔合わせの時の別行動と…この横顔への視線は恋人だと思ったから」
「そうなんですか…」
田中さんには隠しても無駄だと思って、樹とのいきさつを、全て話した。
ライブハウスでの活動、一度遠ざかってまったこと、樹の希望を叶えたくてデザイナーになったこと。
「岡本さん、すごいね。彼の希望を叶える為に大手の広告代理店を飛び出すなんて」
「…私の夢でもあったんです」
「分かった」
「え?」
「俺が出来ることなら、協力するから。なんでも言って。」
「ありがとうございます」
有難い。
一緒に動く田中さんが分かってくれてたら、ずいぶん違う。
それからは、打ち合わせ、持ち帰りの繰り返し。
手を加えると、その都度彼に見せて修正していく。
樹の言葉は的確で、でも押し付けがましくなくて、すごくやり易い。
そのせいか、絵自体はわりと早い段階でOKが出た。
後は他のデザインとのバランスや配色。
裏には樹の画像も入れたいから、撮影もしなければならない。
新曲のリース前だから、樹もパッケージデザインにばかりに関わっていられない。
でも1度も、急かしたりしなかったし、そんな態度も取らなかった。
撮影の時間が短くて、集中して撮らなければならなくても、決して慌てない。
落ち着きはらってポーズをとる樹を見て、私は思わずふーっと大きく息を吐いた。
「岡本さん、どうしたの。おっきなため息ついて」
「あっ田中さん、すみません…つい」
「何か気になることでも?」
「いえ、つくづく彼の集中力ってすごいと思って」
「ああ…分かるよ。時間が無いのに、焦りもせずに要求に応えていってるよね。売れてる人って時間の使い方がうまい人が多いと思うよ」
「そうですね。タイトなスケジュールをこなすには、集中力がないと。でも、そんな忙しいのにいつも穏やかなんです」
「苛立ったりすると、まわりもピリピリするからねえ」
「あ~それを言われると…私、時間が押すとつい現場でイライラしてしまうので…ほんとにすみません」
私がぺこっと頭を下げると、田中さんはニヤッと笑ってみせる。
「そうだね、時々アシスタントに指示する声が、低くなってるよ」
あぁ、やっぱり。
デザインで賞を貰ったりもしたけれど、まだまだ悩むことばっかり。
彼の前でこんなキリキリした顔、見せたくなかったのに…
仕事なんだからぼーっとした顔ではいけないという気持ちと、彼の前ではおっとりした私でいたい気持ち。
こんなことで悩むなんてと、自分の余裕の無さに落ち込んだ。
「岡本さん」
撮影が終わり、衣装のまま彼が近づいて来た。
スッキリとスーツを着こなしていて、一瞬立場を忘れて見とれてしまった。
「…どうしたの?」
田中さんが離れてしまって、私1人だったからかふだんの樹の声。
「…なんでもないの…スーツに見とれてた」
小さな声で言うと、くしゃっと嬉しそうな笑顔になった。
「…照れるな…じゃ、今日はこれで終わり?」
「…終わりです。お疲れさまでした」
その時、スタッフの女性が近づいて来たから、彼に目配せする。
「お疲れさまでした。じゃ、」
彼の指が、私の手に一瞬触れる。
けれどすぐに離れて、スタッフの女性の方へ行ってしまった。
ほんの一瞬、彼の指の熱が私の指に移る。
近くにいるのに触れることが出来ない日々。
だから、こんな風に少しでも触れられたら、嬉しくて顔が緩んでしまう。
スタッフの女性は、樹に近寄って短く言葉を交わすと、私の方に近づいて来た。
「…まりちゃん」
「裕子ちゃん、お久しぶり。もう、裕子ちゃんなんて呼んじゃいけなかったかな」
「そんなこと…まだ、彼のスタッフを?」
「そうね。アシスタントのアシスタントみたいな、雑用ばっかりだけどね」
「そう…」
「樹くんが一緒にやらないかって、誘ってくれたの」
樹くん…
そう言ったまりちゃんの顔は、私を睨んでいるように見えた。
「裕子ちゃん、樹くんの近くに戻って来たのね」
「近くって訳ではないけど…仕事だし」
「彼の邪魔じゃなくて、お仕事してるのってことね。」
まりちゃんの言葉のトゲに、ハッとして彼女を見ると口をきゅっと結んでる。
「まりちゃん、私は…」
「今さら戻って来ても無駄よ。噂になってる人のこと、知らないの」
…まりちゃん、なんでこんなに苛立ってるの。
私、何か悪いことでもした?
まりちゃんの顔を見つめて固まっている私に、
「広告だけ作ってればよかったのに」
そう言って、ぷいと行ってしまった。
…今、何があったの。
まさか、まりちゃんがここにいるなんて。
噂になってる人って、誰なの。
「裕子、どうしたの。もう今日はこれで終わりでしょ」
「…なつき…今、いたスタッフの人」
「あぁ、ライブハウス時代からの人ね。ちょっと西山くんに思い入れが強そうな」
「知ってるの、私。あの人がまりちゃんなの」
「えっ…裕子に余計なこと吹き込んだ、あの?」
「うん…」
「また、余計なこと言ったんじゃないでしょうね」
「言われた。樹と噂になってる人って誰?」
言った途端、なつきが思い当たる顔をした。
「本当なの」
「本当な訳ないじゃない。西山くんと彼女とスタッフ全員が参加した、食事会の時に撮られたのよ。さも二人だけみたいな書き方で」
「そうなの…」
「この世界ではよくあることよ。西山くんと話したでしょ。後ろめたいことなんて、あるわけないじゃない」
「…うん、そうね」
「この仕事終わったら、ちゃんとゆっくり話なさいよ」
「そんな時間、あるのかな」
「…そう言われると…でもきっと、どうにかするわよ」
他のスタッフに呼ばれて、なつきはそこで行ってしまった。
まりちゃんとの再会、噂の人のこと。
モヤモヤを抱えたまま、ノロノロと帰り支度をする。
とにかく、この仕事が終わったら。
1年後、パッケージは出来上がりCDの発売日を迎えた。
参加したスタッフを集めて、樹の事務所で慰労会があったけれど、田中さんに行って貰った。
担当は、私だったのに…
まりちゃんに言われたことが引っ掛かって、きっと樹の顔をちゃんと見られないと思ったから。
これから、樹には怒涛のプロモーションが待っている。
CDが発売された、これからがまた忙しいのだ。
ようやくまた会えたけど、恋人として甘えられる時間は、樹には無い。
私の仕事は終わったから、仕事で会う理由も無い。
お疲れさま、ありがとうのメールが来たっきり。
彼と一緒に仕事をしたことで、思い知らされたことがあった。
彼のまわりには女性が大勢いること。
スタッフ、共演者、歌番組で一緒になる女性のミュージシャンだって。
噂になった人は、CMで共演した女優さんらしい。
彼のファンだと公言していて、撮影終わりに食事会になったとか…
後でなつきが、詳しく知らせてくれた。
…そんな大勢の女性が、樹を囲んでいるような状況で。
私は、樹のそばにいられるのだろうか。
いて、いいのだろうか。
樹は、私でいいの?
慰労会の翌日、田中さんに言われた。
「昨日、なんで来なかったの?西山さん、気にしてたよ。体調でも悪いのかって」
「すみません…心配お掛けして。体調は、悪くありません…ただ、自信が無くて」
「…何の自信?」
「まだ、樹…西山さんの近くに、いていいのかなって」
「え?なんでそんなこと、考えちゃう?何かあった?」
田中さんに、まりちゃんの言ったこと、噂のことを話した。
「そう、そんなこと言われたんだ。正直、その噂とやらは、直接西山さんから聞いた方がいいと思うよ。話題を作りたくてその女優さんサイドが流したとか、よくある話だからね」
「そんなこと、するんですか」
「大丈夫、とにかく西山さんが落ち着いたら、よく話した方がいいよ。今は、プロモーション中でしょ」
新曲は幅広く受け入れられ、プロモーション効果もあって、大ヒットになった。
暮れには紅白に出場。
華やかな世界にいる彼を、テレビの画面越しに1人部屋で見ていた。
私は彼の仕事相手にはなれたけれど、恋人には戻れてない気がする。
テレビ越しに見る彼は、遠い世界の人。
今回の仕事を受けた時は、これで元通りになるって、思えたのに。
私、樹の隣にいられるのかな。
1人でいると、止めどなく涙が溢れてしまう。
本当は、彼の温もりに包まれたい。
彼の胸の中に戻りたい。
目の前にないものに焦がれて、ただ画面を見つめていた。