えりこのまったり日記

グダグダな日記や、詩的な短文、一次創作の書き物など。

右腕の記憶⑦

2018-02-27 08:01:37 | 書き物


翌週。
どんな顔をすればいいのか自分でもドキドキしたけれど、拍子抜けするほど高橋くんはいつもの高橋くんだった。
…仕事のときは。
お昼を食べるとき、外回りから戻るとき、事務仕事の休憩中、帰宅する電車の中、初めて訪れた彼の部屋…
仕事以外の時の高橋くんは、あっという間に私との距離を詰めて来た。
私がまだちょっと及び腰なことなど、全く意に介さずに。
とにかく笑顔。
ニコニコニコニコしていて、高橋くんの笑顔に弱い私には、もはや笑顔攻撃だ。
そして、距離が近い。
顔が近い。
この人、こんな距離感の人じゃなかったはず。
なのに、
「最初の頃は用心してたから。今は…近づきたいだけです」
恥ずかしげもなく言って来る。
帰りが一緒になったある日。
地下鉄のホームで何気なく手を繋いで来るから、回りに職場の人がいないか、キョロキョロしてしまった。
あんまり急に距離を詰められるのは、お姉さん心臓に悪いのよ。
お姉さんじゃないけど。
「こんなの、急でもなんでもない」
そんな風に、真顔で言わないで。
「ちょっと、誰が見てるか分からないホームで、これはまずいよ」
「誰も見やしないよ」
離すもんかと力を込めるから、ひやひやして電車の進行方向を見た。
その先に見えたのは、目を見開いて立っている高橋くんの後輩ちゃん、宮崎さんだった。
「…お疲れさまです。いまお帰りですか」
彼女が近づいて来たから、手を離そうとした。
彼女に気づいてるはずなのに、高橋くんは離してくれない。
「宮崎、今帰り?」
「はい。営業さんは今あんまり忙しくないんですか」
「そこそこかな。ね、小山さん」
「えっ?ああ、そうね。今週は残業するほどじゃないかな」
宮崎さんの様子や目を見て、分かってしまった。
彼女の目は、幼なじみで先輩の高橋くんが好きな目だ。
ちらちらと私に向けられるのは、ショックと挑戦的な気持ちが入り交じっている目。
電車が入って来て、
「じゃあ私、もっと先で乗ります」
と言って、彼女は走っていった。
電車に乗ってつり革につかまってから、高橋くんに尋ねた。
「ねえ、宮崎さんの気持ち、知ってたの?」
「…今見てて、分かったの?」
「分かるよ。私を見る目がこの間と違ったもの」
「ちっちゃな頃から、なついてくれてたから…ふざけて彼氏になってとか、言われたこともあったなあ。でも、あの子は僕にとっては幼なじみの美緒ちゃんでしかないんだ。期待させるのは嫌だから、彼女が高校生になったら、名字で呼ぶことにしたんだ」
「…私は、幼なじみのお兄さんを盗っちゃったってことになるのかな」
「美樹ちゃん…そんな、自虐な発言しないの。僕の彼女になっただけだから」
「…彼女なのか」
当たり前のように言うから、恥ずかしくてつい、ひねくれた口をきいてしまう。
「彼女じゃないの?」
困った顔をさせてしまって、すぐ後悔する。
「…彼女です。」
ふふ、と笑う顔を見て私の頬も緩む。
仕事を一緒にしだした頃は、もう少し表情が変わらない人だと、思っていたんだけど。
それは、外側の顔だったのかな。
「それより、いつの間にか美樹ちゃんになってるのよ。外では名字で呼んでって言ったのに」
「ごめん…でも、もう会社じゃないし、誰も聞いてないと思うけどなあ」
なし崩しとは、このことだ。
彼のペースに振り回されてる。

8月に入って宮崎さんの希望を受けて、営業での研修が始まった。
各営業ペアに同行して、外回りを経験するところから。
私と高橋くんに同行するのは、週の終わりの金曜日と言うことになった。
木曜日の帰り。
用事のある高橋くんと別れ、地下鉄の駅へ向かって歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「…小山さん」
振り向くと、宮崎さんが立っていた。
デニムのギャザースカートに、明るいブルーのフレンチスリーブのシャツ。
Vネックの首もとには、ピンクの石のネックレス。
同じ石のピアスをしてロングヘアをまとめてる姿は、やっぱり清楚な雰囲気で。
高橋くんの彼女って言うなら、きっとこっちがぴったりなんだろうな、といつもの自虐ぐせがつい出てしまう。
鎖骨の辺りまであるケロイドを隠すため、しっかり襟がある自分のシャツに、なんとなく手をやった。
「いま、お帰りですか?1人ですか?」
「ええ、まあ、用事もないので。宮崎さんも?」
「はい、私もです。あ、明日は外回りよろしくお願いします」
「こちらこそ。どう、数日やってみて」
「慣れなくて戸惑いますけど、頑張っています。私、営業で高橋さんと一緒に働きたくて」
あ、なんかちょっと嫌な予感がする。
こんな時は、逃げた方がいいわ。
「ごめんね、私あっちの方で買い物があるから」
駅の反対方向へ歩き出そうとした時だった。
「待って。お願いがあるんです」
「お願い?」
立ち止まると、宮崎さんは私の真ん前に立った。
目が潤み、必死な口元が早口の言葉を紡ぐ。
「お願いします。高橋さんを…敦さんを取らないで下さい。」
ああ、言われちゃった。
やっぱり、そう思うよね。
大好きな『お兄ちゃん』なら。
「美緒って呼んでくれなくなってから、諦めようと思ったけど諦められなくて。同じ職場で一緒にいたらきっと、私のこと見てくれるって思ったんです」
どう言葉を掛ければいいか分からなくて、口をあいたまま固まってる私に、さらに畳み掛けて来た。
「そしたら、小山さんと…。小山さんは年上でしょう?他に釣り合った年の人がいるんじゃないですか。」
そんなこと言われたって…
高橋くんが望んでくれたから、そうなったのよ。
でも、そんな言い方、私には出来ないよ。
「あの…」
それでも何か言わなきゃと口を開いたら、聞きなれた声が聞こえた。
「あれ?美樹ちゃん、まだ駅に着いてなかったの?」
用事を済ませて来たらしい高橋くんが、立っていた。
宮崎さんは、高橋くんを見てかなり驚いたらしく、慌てた様子になって、
「私、失礼します。」
さっと行ってしまった。
「美樹ちゃん…固まってる。宮崎と何か話してたでしょう」
「え…」
「何かびっくりするようなこと、言われたって顔に書いてある」
「そんなこと、何も言われてないよ」
じっと見てくる高橋くんから、目を逸らせた。
高橋くんは、黙ったまま私の手を取りぎゅっと握った。
「ねえ、何度も言ってるでしょ。職場の近くでこれはダメだから」
何回も言い過ぎたのか、てんで聞いてなくて、
「今日、僕のとこでご飯食べようよ」
手を握ったまま、腕をぐっと引いて顔を近づけて言ってくる。
「…今日は帰る。もともと、そんな予定無かったし」
駅へ降りる階段は狭いので、手を離して先に降りた。
ホームに立つと、すかさず繋いで来た顔は何か言いたげだった。
「本当に帰るの?」
「…うん。週末じゃないし、1人でしたいこともあるし」
「…また何か、考え込んでる?」
「考え込んでなんか…」
高橋くんの部屋は、ついこの間初めて訪れたばかり。
居心地が良くて、好きだし行きたかったけど…
でも、今行ったらきっと、せっかく一緒にいるのに自分のことばかり考えてしまう。
私の頭の中は、さっきから宮崎さんの必死な顔と、『釣り合う』って言葉でいっぱいだった。
でも、多分それは高橋くんに見透かされてる…

最寄り駅で先に私が降りた。
軽く手を振ると、少し眉を寄せていたけれど、笑顔を向けてくれた。
…考え込んでないって言ったけど、めちゃめちゃ考え込んでる。
釣り合うって何?
何が問題なの?
五歳年上なこと、まだ腰が引けてること、大きなやけどの痕があること…
右側だけとは言え、鎖骨辺りまでケロイドになっていると、気になってないかつい考えてしまう。
綺麗な、肌のすべすべした娘の方が、いいんじゃないかってことが、頭に浮かんでしまう。
こんなこと、口に出したら怒られそうだけど。
もしかしたら、もしかしたらって気持ちは、そう簡単には消えないのだ…


右腕の記憶⑥

2018-02-25 14:42:33 | 書き物


駅に向かいながら、考えていた。
環境を変えるのに躊躇うのは、高橋くんのことが気になるからなのかもしれない。
自分に、聞いてみる。
高橋くんと一緒にいたいの?
高橋くんが気になるの?
こんな相性のいい人は初めてだから、一緒に仕事するのは楽しい。
真面目かと思えば案外お茶目で、人懐こい笑顔を見ると安心する。
これは、好きという気持ちなんだろうか。
そうなのかもしれないし、分からない…
これだけだと、姉のような気持ちなのかもしれないし、相性がいいと思うのは私からだけかもしれない。
どんなに考えても、結論なんて出なかった。

金曜日。
高橋くんと訪れたお店は、以前高橋くんが潰れてしまった店。
団体客用の個室とは別に、簾が掛かった個室っぽい4人掛けの席がある。
カップルに見られたのか、そこへ案内されて向かい合わせに座った。
高橋くんは、始めからビールをぐいっと飲み、大丈夫かと心配になった。
私は私で、勢いをつけるためにビールを呷る。
ほどよくアルコールが回ってきた頃、大好きな焼きうどんに手を付けるのを我慢して、口を開いた。
「実は、高橋くんに聞きたいことがあったから、誘ったのよ」
高橋くんを見ると、彼にしてはけっこう飲んでいるのに、酔っているように見えなかった。
「聞きたいこと、ですか」
「うん、もうまどろっこしいからストレートに聞くけど。高橋くん、私が火事に巻き込まれた時一緒だったあっちゃんだよね?」
ビールのジョッキを置いた高橋くんは、黙ったまま。
「実はこの間実家に帰って、母に聞いたの。母は覚えていて、、教えてくれた」
驚いたような目で私を見て、高橋くんはゆっくり口を開いた。
「小山さんから火事の話を聞いてから、あのお姉ちゃんなんだって気づきました。それまで漠然とお姉ちゃんに似てると思っていただけだったけど。まさか、転職した先であのお姉ちゃん会えるなんて、思ってもいなくて…」
「こんな怪我したくせに、私は大分記憶が抜けてしまってるけど…高橋くんはどのくらい火事のこと、覚えてるの?」
「五歳でチビだったけど、よく覚えてるんです。小山さんは…お姉ちゃんは、吹っ掛けてくる炎や落ちてくる材木から、僕を護ってくれて。早く逃げなさい!って消防士さんに僕を預けてくれて…お姉ちゃんは火傷をして痛かったのに」
私から火事の話を振ったのに、高橋くんの言葉を聞いて急に火事のときの炎が思い出された。
もう20年以上たつのに、こうして何かのきっかけで思い出す。
なめるような炎と、右腕にふりかかった、燃えた柱を。
怖い記憶が甦って来て、思わず自分の両腕を抱いた私に、高橋くんが向かいから急いで隣に来る。
「大丈夫ですか。思い出させちゃったんですね」
「何だろう…ちょっとしたきっかけで、パパッて思い出すの。すごく熱かったことや、逃げられなくて足が動かなくなったこととか…怖かった…」
燃えさかる炎がすぐ近くに迫った記憶が押し寄せ、それしか言えず、黙りこんでしまう。
高橋くんの手がおずおずと肩にまわり、肩と腕を擦ってくれる。
「思い出させて、ごめんなさい…」
「聞いたのは私だもの…私こそ、ごめんなさい。あっちゃんだって、思い出したくなかったでしょう」
いつの間にか、『お姉ちゃんとあっちゃん』になっている。
「…お姉ちゃんに助けてもらって護ってもらって。無傷なのに怖くてわんわん泣くしか出来なくて。なのに、お姉ちゃんは泣くことも出来ないくらい痛いのに、必死に耐えているのが僕にも分かった」
少し苦い目をしてる。
「お姉ちゃんに護られるだけで、何にも出来ない。子供だったけどそれがすごく情けなくて…。大人のお姉ちゃんに会えたって分かっても、自分から言い出せなかったんです。お姉ちゃんに会えたら伝えたいこと、いっぱいあったはずなのに…」
「…もう、何言ってるのよ。あっちゃんだって怖い目に会ったのよ。情けなくなんかないよ。」
腕をだらんと下げたまま、俯いている隣の『あっちゃん』の肩に、頭を乗せた。
高橋くんの肩が、ぴくりと揺れる。
ふと、今、こうしてる私たちはどんな関係なんだろうと思った。
頭を乗せた細身の肩は、思っていたよりがっしりしていて、私の肩に置かれた手のひらは、大きくて暖かい。
『あっちゃん』と呼んではいるものの、隣にいるのは大人の男の人なんだと、実感する。

「…じゃあ、やっぱり高橋くんは、ほんとに私の弟みたいってことだよね」
頭を肩から離して呼び方も『高橋くん』に戻して。
いつもの自分の声を出して、この微妙な雰囲気から抜け出そうとした。
このままだと、見ないでやりすごそうと思っていたことを、曝けださなきゃいけなくなりそうだ。
でも、肩から離そうとした頭はやんわりと押さえられ、大きな手のひらには、ぐっと力が込められて。
「…じゃ、ないです」
「…え?」
「…もう、五歳のあっちゃんでもないし、弟みたいでもない」
「小山さんの隣に座っているのは、大人の高橋敦だよ。もう、28歳の」
手のひらの力が緩んだから、顔を上げて高橋くんの方を向いた。
近い。
高橋くんが顔を寄せて来たから、思わず右の壁際に体を寄せようとした。
それを、大きな手のひらで阻止されて、至近距離で見合うはめになった。
「は、恥ずかしい…こんな近くで顔を見ないで」
「嫌だ」
じっと目を合わせて来るのを受けて、頬が紅潮してきたのが分かる。
「僕が大人の男だってこと、小山さんに受け止めて欲しいから。ちゃんと、僕を見て」
「分かった、分かったから。そんなじっと見なくても、一緒に仕事してれば高橋くんが大人の男の人だって、よーく分かるから」
「それだけじゃ、なくて…」
「え、まだ、ある?もうこの辺でいいじゃない」
これ以上何か言われたら、ややこしい方向へ行きそうな気がした。
高橋くんと、出来ることならややこしくなりたくなかったから、臆病な私はなんとか切り抜けようとした。
なのに。
高橋くんは、まったく視線を逸らさなかった。
「僕の気持ちも、小山さんに受け止めて欲しいんです」
「気持ち、って…」
「一緒に仕事していて楽しくて、真面目な顔で話を聞いてくれて、でも案外お茶目で。楽しそうな笑顔を見ると、安心する」
ここで、ニコって笑うのは、反則。
胸の辺りがザワザワしてきて、右手をそっと胸に当てた。
「一緒にいるとラクで、楽しくて。小山さんが笑っていると、嬉しい。辛かったり悲しい目に会ってると僕もつらくなるんです。でも、弟としてじゃない。」
「…それが僕の気持ち」
あぁ…まずい。
ほぼ、私と一緒じゃない。
こんな告白されたことないわ。
頭の中に、困惑と嬉しさがない交ぜになったものが、駆け巡った。
こうストレートに突撃してくるなんて、思ってなかった。
今日は、高橋くんがあっちゃんだってことが分かれば、姉と弟として楽しく飲めばいいと、思っていたのに。
弟じゃない、大人の男だと言われたら。
私も姉ではなくて女として、高橋くんに応えなければダメなの?
応えたい気持ちと分からない気持ち、割合を聞かれたらきっと応えたい気持ちが、高いってもう分かってる。
そう、今この状況で分かった。
でも、すぐに言葉が出て来ないよ…
一応彼だった人と少し前に別れた微妙な歳の女には、大人の男宣言は胸の辺りをぎゅっと掴まれたみたいだったから。
どうしていいか分からず、でもどうにかしたくて、ぴったりくっついて触れあってる側の手を、ぎゅっと握った。
すると、高橋くんの手がぎゅうっと握り返して来た。
顔を上げると、嬉しそうな笑顔。
「焼きうどん、冷えちゃったね」
高橋くんの声が、頭の上で響く。
「まあ、いっか。食べよ」
繋いだ手を解いたら、温もりが少し冷えた。
ふいに寂しい気持ちになってしまって手を伸ばしたら、同じように伸びてきた高橋くんの手のひらに収まった。
「これじゃあ、食べられない」
顔を見合わせて笑った。


右腕の記憶⑤

2018-02-25 01:18:53 | 書き物


ようやく週末になった。
週の半ばに深夜まで残ったりして、とても疲れていたけど、金曜の仕事帰りに実家に行くことにした。
母からたまには来いと言われたのもある。
けれど、1番の目的は火事の時の詳しい話を、聞くことだった。

独り暮らしをしている東京の下町も大好きだけれど、一年中海が見えて潮の香りをかげるのは格別だ。
東京駅から高速バスで約2時間。
駅前にバスが停まると、迎えに来てくれた母の車が見えた。
「わざわざごめんね~迎えに来てくれて助かったわ~」
「急に帰るって言って来るから、ビックリしたわよ。荷物少ないねえ」
「私の部屋も物もまだあるからね」
「いつまでいるの?」
「う~ん、明日の夜には帰る」
「日曜日までいればいいのに」
「日曜に用事があるから…バタバタ来てごめんね~」
「まあ、慌ただしいねえ。とにかく出来るだけゆっくりしたら」
私は料理も一応するけれど、やっぱり母の料理が食べられるのは嬉しい。
その晩は、私の好物の煮物や刺身、土地の名物の魚料理が出た。
「やっぱり、魚料理は美味しいなあ」
ビールをお供に、大好きな青魚をじっくり味わった。
「地元のお米も美味し」
いつもご飯はセーブているのに、こんなにご飯が進むおかずばかりじゃ、セーブなんて出来ないわ。
「それで、何の用事があるの?」
母があら汁をテーブルに置いてから、向かいに座りなおした。
早寝の父は、もう寝床に入ってしまっている。
「用事…ってなんで分かるの」
「何かなきゃ、こんな急に帰って来ないからねえ」
「あ…耳が痛い」
「責めてるんじゃないのよ。何もない方がいいに決まってるしね」
「そうね~」
「だからほら、何かあるなら言ってごらん」
「うん…簡単なことなんだけど、私が火事に巻き込まれたときのこと」
「…何か、思い出したの?」
「違うよ。何も思い出してないよ。ただ、あの時火事場に小さな男の子がいたよね」
「ああ…それは覚えてるのね」
「うん。何でだか分からないけど…それで、その子って誰?私の知ってる子だったの?」
母は少し下を向いて考えていた。
そして、顔を上げて答えてくれた。
「その子のことは覚えてないのね」
「うん」
「そうか…腕のやけどがかなりショックだったんだね」
「痛かったはずなのに忘れてるからね。忘れたかったのかな」
「きっと、その子のことも1番思い出したくない時、一緒だったから忘れたんだと思うよ」
「思い出したくない時…?」
「…その子はね、美樹と一緒に火事に巻き込まれたの。美樹は落ちてくる柱からその子を庇って、やけどを負ったのよ。」
「そうだったの…」
「その子は、小さな頃に美樹が可愛がってた、高橋さんちのあっちゃんよ」
「あっちゃんて言うと、敦くん?」
「そうそう、敦くんね。あの時は美樹が痛いのに我慢していて、あっちゃんは無事だったのにわんわん泣いててねえ…。お姉ちゃん、ごめんなさいって何回も叫んでいて、可哀想だったわ」

あの小さな男の子が高橋くんだってことは、あっさり分かった。
高橋くん、この時のこと覚えてないの?
美樹ちゃんて呼んでくれてたのに…
それとも、知ってて黙ってるんだろうか。
何かすごく寂しい気持ちになって、黙りこんだ。
「何を気にしてるの?あっちゃんなんて、引っ越してから会ってないでしょう」
「う~ん、それがねえ。いま、同じ会社なんだ」
「ええ?」
「びっくりでしょ?中途入社で入って来て、今一緒に外回りしてるんだから」
「そんなこと、あるのねえ」
「気になるのは、子供の頃に近所にお姉ちゃんがいたって覚えてるのに、私だって分かってるのかどうかってこと」
「そうね…そこは、分かりようがないかもしれないね」
母にそう言われたのでは、もう何も言えなかった。

週が開けて、通常通りの仕事が続く。
7月に入り、まわりはみんな半袖やノースリーブだけれど、私は変わりばえのしない長袖のシャツ。
高橋くんに火事のことを聞きたかったけれど、きっかけが掴めなくて悶々としてしまった。
高橋くんは高橋くんで、何か言いたそうな気配を漂わせているのを感じる。
私が悶々としてるのが、バレバレだからなのか。
それとも高橋くんも言いたいのに、きっかけが掴めない状態なのか。
そのせいなのか、そんなに口数の多くない彼が、もっと静かになっていた。
もちろん、仕事中はちゃんと営業トークをしてる。
客先を出た途端、「はい」とか「そうですね」とかばかりになって、チラッと私の方を窺ったりしてる。
せっかちではないつもりだけれど、さすがにモヤモヤが最高潮に達してしまった。
「ねえ、高橋くん明日の夜空いてる?」
「え、明日ですか」
「うん。飲みに行かない?」
「ああ、あの…明日の夜は、後輩と会う約束があるんです。金曜日なら…」
「あ、そうなんだ。じゃあ、金曜日にどう?」
「はい。行きます」
「じゃ、金曜日によろしくお願いします」
「はい」
今日は水曜日。
後は2日もモヤモヤするのか…
とりあえず雑念を振り払って、仕事しよう。

木曜日、大きな乗り換え駅にある書籍と文具を扱っている、巨大な店舗を尋ねた。
定番の文具の他に、季節限定の物などを提案するためだ。
会議室でプレゼンをして、商談がまとまったのですっきりした気分で、その部屋を出ようとした時だった。
「小山さん、ちょっとお話があるのですが…いいですか?」
「お話ですか。何でしょう」
話を聞こうと、私も高橋くんも立ちかけた席にまた座った。
「あ、高橋さんはちょっと外して貰えますか」
高橋くんは少し口角をあげ、そうですか、と言い廊下へ出て行った。
お馴染みの担当者…いつもは軽口をたたいたりする、木村さんが改まって口を開いた。
「実は、小山さんをウチにお誘いしたいと思ってまして」
「は?それは、どういう…?」
「ウチで働きませんかってことです」
「ええ!?」

会議室を出ると、廊下に高橋くんがいた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いいですよ、気にしないで。で、何の話ですか?聞いてもいいですか?」
「外に出たら話しましょう」
外の通りに出て歩きながら話した。
「あの書店で働かないか、って誘われたよ」
「…そんな誘いってアリなんですか?」
「う~ん、なくもないというか…私も、興味はあるかな」
「じゃあ、前向きに…」
「うん。考えてみようかな」
高橋くんは、しばらく何か考えているようだった。
「小山さん、ポップ書いたり販促のプラン考えるの好きですよね…」
そんなことを口にしてくれた。
「うん、そうなの。そんなところを見てくれたのかな」
「あ、そういえば。後輩に会うって今日だよね。」
「そうなんです。大学の後輩なんですけど、幼なじみでもあって。実は今総務にいるんです。」
「うちの会社なのね」
「そうなんです。最近営業に行きたいって言い出して。ちょっと話を聞こうと思って」
「へえ~いいんじゃない。やる気があるなら」

外回りから戻ってからは、事務仕事。
商品を発注して注文されたものをチェックして。
その合間には、今日のお誘いのことを考えていた。
自分には、営業よりも合っていそうな気がした。
でもなぜか、心のどこかで躊躇っている。
なぜなんだろう…
ただの不安?
それとも…
いつの間にか、手が止まっていて考え込んでいたみたいで、高橋くんに呼ばれて我に返った。
「小山さん、ちょっといいですか」
高橋くんの方へ顔を向ける。
高橋くんのデスクの脇には、まだ新人のような女の子が立っていた。
「この子が、後輩の宮崎です。いま、総務にいるんですけど」
「宮崎美緒です。よろしくお願いします」
ていねいに頭を下げたその子は、長い髪をサイドでまとめ、くりっとした垂れ目の可愛らしい子だった。
清楚な雰囲気、声。
ていうか、後輩って女の子だったのね。
「今日は話を聞いてアドバイスするだけなんですけど…総務から営業ってどう思います?」
高橋くんが親身になってあげてる。
これは、ほんとに彼女なのかな…
「やる気さえあれば、いいと思うけどな。今日はじっくり高橋くんに話を聞いて貰ったら?その上で希望を出せばいいよ」
「はい!ありがとうございます」
嬉しそうな笑顔がものすごく、感じがいい。
「じゃ、私はもうだいたい済んだから、帰るね。」
「はい、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
二人のお疲れさまに送られて、部屋を後にした。


右腕の記憶④

2018-02-24 01:17:43 | 書き物


営業部の部屋に入ると、高橋くんはPCを開けて何やら作業をしていた。
「お疲れさまです」
声を掛けると、少し緩んだ口元を上げる。
「お疲れさまです」
「はいこれ、コンビニので、申し訳ないんだけど。新作のプリンだって。」
「あ、ありがとうございます」
自分の椅子にすわり、ふう、と一息つくと高橋くんが物言いたげに、こちらを向いた。
「何が言いたいか分かるから、先に言っちゃうけど。元カレとはかる~くご飯食べて別れたので、こっちに来ました!」
高橋くんの顔が、反応していいものかどうか、困ってる。
「聞いていいのか分からないんですけど、元カレ…と待ち合わせだったんですか」
「まあ、正確に言うと会ってご飯食べて、1人になったら元カレになってたってことなんだけど」
「え?どういうことか、よく…」
「だから~別れ話してきたってことよ」
「あぁ…すぐ分からなくて、すいません…」
申し訳なさそうな顔をされると、こっちが申し訳なくなってしまう。
「気にしないで~そんな悲壮なものじゃないの」
「だったら、いいんですけど…」
高橋くんがものすごく気にしてる顔、してる。
「だって、彼がぜーぜん連絡取って来なかったのも、私が可愛く会いたいの、とか言えなかったからだし」
「大人女子なファッションが好きな彼に、ぜんっぜん合わせようしなかったし」
「甘えられるのが好きなのに、素直に甘えられなかったし」
…私は、なんで今になってこんなことを言ってるんだろう。
彼と別れてすぐは、どうでもよくなってたんだものって、サバサバしてたのに。
鳴りを潜めていた自虐ぐせなの?
高橋くんは早口で捲し立てる私を、真顔でじっと見てる…
言葉が急に出なくなって、息が苦しい時みたいに口を開いた。
「それに、、、」
高橋くんが静かに、って言うように私の唇の前に人差し指を出した。
「もう、言わなくていいから」
優しく言ってふわっと笑う。
「小山さんの元カレがどんな人か知らないけど」
「今、言ったこと全然ダメなことじゃない」
「自分のことをそんなにダメって言わないで」
まるで、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
頭の中に、自分をぺしゃんこにする言葉が渦巻いてたのに、それはすーっと引いて行った。
「ゆっくり、深呼吸して」

深呼吸をして、高橋くんを見るといつもの人懐こい笑顔。
「落ち着きました?」
「うん…なんか色々ありがとう」
「なんですか、色々って」
「色々は、色々よ。あのね、別に悲しい訳でも泣きたい訳でもないの。ただ、好きな人だったはずなのに、どうでもよくなっちゃたなんて…何がいけなかったのか、つい考えちゃって」
「そんなこと、小山さんのせいばっかりじゃないし、お互い様ですよ」
「…うん、言われてみれぱそうかって思えるんだけど、ね」
「ほら、新作のプリン食べて、この後の作業に備えましょう。こんな時は甘いものですよ」
「うん、食べようプリン。美味しそう」
仕事以外のことをだいぶ喋ってしまって、なんだか気恥ずかしい。
それと、さっきの高橋くんの急に出て来た敬語じゃない言葉、しーってやった指…
あれは、少し高橋くんの素を見せてくれたのかもしれない。
意外だけど、垣間見えた高橋くんの素は可愛い男の子じゃなくて、大人の男の人だった。
よく考えると、高橋くんのことをほとんど知らないんだな。
この間、同郷だってことは分かったけど。
「このプリン、なめらかで美味しい~」
スプーンでひとさじ食べたら、ぷるんとした食感が何とも言えなくて、思わず声を上げた。
「小山さん」
高橋くんも口角が上がってる。
だって、高橋くんが好きそうと思ったから、買って来たんだもの。
「え?何?高橋くんも、このプリン好きな味だよね?」
「好きですけど…それより、美味しそうに食べてる小山さんが、可愛いです」
「ちょっと!恥ずかしいからやめて。からかってるんでしょ」
「からかってる…けど、可愛いは嘘じゃないですよ」
めずらしくあはは、と笑ってる。
あっという間に食べ終えた頃、荷物到着の電話が入った。
「良かったね、少し早くて」
「有難いですね。」
二人でバタバタと、受取に向かった。

作業が終わったのは、ちょうど深夜0時過ぎ。
この時間に到着するはずだった荷物が、早く着いたので終わりも早かった。
会社のビルの下に降りてから、タクシーで帰ることにした。
電車はもう、終わってしまったから。
飲み会の時と同じように、タクシーの後ろに並んで座る。
違うのは、高橋くんが眠っていないこと。
「飲み会の帰り、また寄りかかってましたよね…あの日は、甘えっぱなしですみませでした」
「うん、あの日はだいぶ甘えられた気がする。姉ってこんな感じなのかって、勝手に納得してた」
「…子供の頃、近所に大好きだったおねえさんがいたんです」
「幼なじみってこと?」
「う~ん…そんな感じかな…ほんとのお姉ちゃんみたいに面倒みてくれて、遊んでくれて。僕はそのお姉ちゃんが大好きで、いつも追っかけていたんです」
「へえ…そのお姉ちゃんは、今も高橋くんの実家の近くにいるの?」
「引っ越していなくなっちゃいました。まだチビの頃、僕に何も言わずに」
「じゃあ、その人がいまどこにいるか知らないの」
「知らないんです。でも…小山さんがそのお姉ちゃんに、ちょっと似てるんです」
「え?ほんとに?」
「そうなんです。見かけって言うより、雰囲気ですけど。だから、勝手にそのお姉ちゃんに、また会えたような気がしてて」
「そうなんだ。でも、実際は高橋くんの方が、私の面倒を見てくれてるよね。立場が逆だわ~」
「この間介抱してくれたじゃないですか」
「あぁ、そうだったっけ。お酒、前からダメなの?」
「ダメです。ビール中ジョッキ1杯であんなになります」
「え~そんなで?じゃあ今度、トレーニングしてみる?」
「止めておきます…」
幼なじみのお姉ちゃんのようだと言われ、その気になって高橋くんをからかって楽しんだ。
でも 、それと同時にグラスに水滴が1滴ポタッと落ちたみたいに、私の中に違和感が広がった。
うっすらとしかない、火事の時の私の記憶。
その中に、激しく泣いている小さな男の子かいるのだ。
その子は大人になだめられても泣き止まず、ずっと「みきちゃん」と、叫んでいた。
その子がなぜ火事現場にいたのか、なんで泣いていたのか。
それは、まったく覚えていないのだけど。
高橋くんのお姉ちゃんのことを聞いて、なぜだか高橋くんとその男の子が重なった…
まさか、ね。
そうなら高橋くんから言うはずじゃない。
横にいる高橋くんをそっと伺うと、私の手元を黙って見ていた。


右腕の記憶③

2018-02-23 00:03:45 | 書き物

飲み会があった翌週。
外回りの途中、定食屋でお昼を食べながらなぜか出身はどこか、の話になった。
二人とも赤身が綺麗な鮪丼を食べながら、いつになく口数が多かった。
高橋くんは、あんまり自分からそういうことは言わない。
でも、その時はなんとなくお互いのことを、聞き合う流れになったのだ。
そこで、なんと私と高橋くんは同郷だと分かった。
「って言っても、小4で引っ越したんだけどね」
「僕は、その頃5歳ですけど」
「え…年長さん?」
「そういうことになりますね」
私が10歳の時、近い場所に5歳の高橋くんがいたのか。
「可愛かっただろうね、5歳の高橋くん。今も可愛いけど」
「可愛いですか?」
「あ、ごめん…嫌だった?その、弟みたいってことよ」
少し高橋くんのトーンが変わったので、慌てて聞いた。
私が慌てたからか、高橋くんはすぐ笑顔を向けてくれた。
心なしかそれが、安心させるような笑顔で、ホッとする。
「嫌じゃないですよ。可愛いとか弟とかあんまり言われないから、そうなのかって思っただけで。気にしないで下さい」
「そう?ありがとう」
「それを言うなら、小山さんはお姉さんみたいですよね」
「あぁ、言われると思ったよ…」
弟って言ったくせに、改めてお姉さんて言われると、それはちょっと嫌かもなんて思ってしまった。
自分勝手だなあ、私。
「…聞いてもいいですか」
「え、急に何?」
「腕の痕がついたのも…そこでなんですか?」
「腕の痕…?」
「すいません…この間、支えて貰った時に見えちゃったんです」
「ああ…あの時ね。見えてたんだ。まあ、結構袖捲れてたからなあ」
「かなり大きかったから…」
「そうね~あれは、高橋くんと近い所に住んでいた時に、火事に巻き込まれて」
「火事…だったんですか」
「そう、それで逃げようとした時に燃えた何かが、腕に当たったらしいの」
「らしい?」
「うん…実はその時のこと、ちゃんと覚えてないの。うっすらとしか。助けられて呆然としてたことは、覚えてるんだけどね」
「そうなんですか…でも、痛かったりショックだったりしたことは、覚えてますよね」
「まあ、子供の頃は覚えていたけど…だんだん薄れて来るものよ。火が怖いのは薄れないけどね」
なんとなく、深刻な雰囲気になっちゃったので、ははっと笑って見せた。
「もう、そんなしんみりしなくていいから。同郷の高橋くん」
「あ、すいません、色々聞いちゃって」
「大丈夫、このぐらいのこと、聞かれれば誰にでも話してることよ」
「そうですか…」
「じゃあ、私も一つ聞いていい?」
「いいですよ。」
「高橋くん、どうしてうちの会社に入ったの?」
「う~ん、文具が好きだったのと後輩がここにいたから、ですね」
「へえ~後輩さん、どこの部署?」
「総務です。後輩にも、うちの会社どうですかって誘われたんです」
「そうだったの。知り合いがいると心強いよね」
高橋くんの後輩…総務はあんまりわからないな~
その後、二人とも黙々と鮪丼を食べ終えた。
「美味しかったです、鮪丼。小山さんのオススメの店、ハズレがないですね」
「わ、高橋くんに褒められた。嬉しい~」
飲み会のあと、こうしてふざけたり軽口を言いあったりするようになった。
すっかり、姉のような気分になっていた。




仕事終わりにデスクで携帯を見たら、久しぶりな人からのメッセージがあった。
彼だ。
一応、彼だ。
全然連絡をくれず、私も面倒になって連絡しないでいたら、3ヶ月たってしまった。
それが、急に会おうだなんてどうしたんだ。
何、この面倒くさい感情は。
一応、付き合ってるはずの彼氏なのに…
椅子を揺らしながら自問自答していたら、高橋くんが申し訳なさそうに、言ってきた。
「小山さん、今日届く予定の荷物なんですけど…」
「え?午後に到着予定のあれ?どうかしたの?」
「数が足らなくてあちこちからかき集めたから、予定より遅れるみたいなんです」
かなり、困った顔してる…
「いったい、何時ごろになりそうなの?」
「12時近く…深夜の」
「ええ~そんな遅いの!?明日持参して納品なのに!?」
「そう、伝えられました…」
「そうか~じゃあしょうがない、待ってて受けとるしかないね。仕分けもやって置いた方がいいし。残りましょう」
しょうがない、彼と会うのは断って伸ばして貰えばいいか。
3ヶ月会わなかったんだし、ちょっと伸びても同じだわ。
頭の中で自分に言い聞かせ、椅子に座り直した。
「小山さん」
高橋くんが、まだ私の脇から動かないで見ている。
「え?まだ何か不測の事態があるの?」
「いえ、今日残るのは僕1人で大丈夫です。小山さん、予定があるんじゃないですか」
思わず、顔を上げて立っている高橋くんを見た。
「どうして、予定があるって分かったの?」
「…だって、さっきから、急だな~とか待ち合わせ、面倒くさい~とか、聞こえたから」
「えっ私口に出してた?」
「出してましたよ。独り言の声、大き過ぎですよね」
突っ込まれてしまった。
「でもほら、仕事の方が大事だから、待ち合わせは延ばせばいいし」
「いや、荷物の量はそこそこだし、仕分けも1人居れば十分です。だから、俺が残りますよ」
「そんな風に言われても…悪いじゃない」
ここで、1人残って貰うのも、気が引けるしなあ。
そこで、高橋くんがふわっと笑った。
「この前の飲み会で、介抱してもらったお礼ってことで。異議は認めませんからね」
あ、やり込められた。
真面目な高橋くんだったのに、何だか今のはお茶目だったな。
少し、雰囲気が変わったように見える。
「…そう、じゃあお言葉に甘えていいかな」
「どうぞ、どうぞ」



そんな訳で、私は定時に職場を出て待ち合わせ場所に向かった。
職場のある場所から近い、おしゃれなビル。
そのビルの前は歩道になっていて、和モダンなビルの雰囲気に合わせて、和風な意匠が彫られた石のベンチが置いてある。
そこで座って待っていると、待ち合わせ時間から10分ほどたった頃、一応彼である健二がやってきた。
「久しぶり、元気だった?」
「あ、久しぶり」
目を伏せると、長い睫毛が影になる。
濃い睫毛に縁取られた、意思の強い瞳。
「この近くに、いい店があるんだ、きっと美樹も気に入るよ」
はっきりとした、強い声。
好きなものがはっきりしていて、いつもこれがいいよって言ってくれる。
私、そんな彼に惹かれたんだった…
赤い格子窓が印象的な、エスニック料理の店に入り、円卓に座った。
スパイスの香りが店内に広がって、食欲が湧いてくる…はずだった。
でも。
彼は忘れてるのかな。
私、クセのあるスパイス苦手なんだよ。
カレーは好きだけど香草は頭痛くなっちゃうの。
よく会ってた頃はエスニックは避けてくれてたのに…
クセが無くて無難な料理を食べ終えて、フレーバーティーをゆっくり飲んだ。
この香りは、好きなんだけどな。
ボーッとお茶を飲んでいる私に、彼が口を開いた。
「美樹に謝らなくちゃいけない事があるんだ」
「謝るって、どういうこと?」
来た。
たぶんそんなことだろうと、思ったそれが。
「この春に入った、職場の後輩とすごく気が合っちゃって」
「その…俺の好きなものみんな好き、とか言われてね」
…彼にしては、歯切れが悪い言い方だな。
「3ヶ月、会って無かったのよ。私からも、連絡しなかったし…そのまま、自然消滅でも良かったのに」
「いや、いくら3ヶ月会ってなかったって言っても、ちゃんと区切りはつけないと」
「私は大丈夫よ。あなたが好きな人が出来たのなら、気にしないで」



店の前で、彼とは別れた。
私が気にしないでと言ったから、気が軽くなったみたいで軽口を叩いて、笑顔で去って行った。
彼とは2年くらい付き合った。
でも、頻繁に会ってたのは最初の1年で、彼の仕事が忙しくなってからは、すっかり間が空いてしまって。
彼から連絡がないと、自分からの連絡がどんどんしづらくなって行く。
その間に、お互いの気持ちは離れた。
彼は職場の子に気持ちが向いて、私は…
彼の事が、どうでも良くなってたことに気づく。
でも、何をするにもリードしてくれて、迷ってるとこっち、と示してくれてた。
それが、以前の私には心地良かったんだ。
そんな気持ちになれる、彼が好きだったことは確かだった。
…考え事をしながら歩いていたら、職場のビルの近くまで戻っていて、思わず立ち止まった。
時計を見たら、22時過ぎ。
高橋くん、残ってるよね。
何か、食べたかな。
携帯を出して、高橋くんを呼び出した。
思っていたより早く、5コールで出てくれた。
「もしもし、高橋くん?小山だけど」
「あれ?どうしたんですか?」
「今、下にいるの。私も一緒に残ろうと思って」
「…でも、小山さん、今日は、あの…
「いいから、いいから!ちょっとしたもの買って持って行くね。じゃ、」
今の私のザワザワとした胸の中。
高橋くんといれば、落ち着くんじゃないか。
この間の、酔って寝ちゃった高橋くんと、一緒にいたように。