先日のエスペランサのライブ報告にも書いたが、最近外側への発信が出来ない状態だ。
わたしは割と饒舌で、いることもいらんことも、べらべら喋ってしまうことが多い。気がついたこと、考えていること、ひっかかっていることを、未推敲段階でもじゃんじゃん喋る。喋っているうちに「こういうことかなあ」と思ったりして整理されていく。
踊る時も、未推敲のままじゃんじゃん舞台に出してしまってから後づけで「こういうことか」と考えたりしているから、やはりそういうタチなのだろう。
その私が最近あまり発信することがない。
発信することがないということは私の場合「考えているがまだお話する段階でない」ということではなくて「考えていることがない」ということである。
めずらしい状態である。
ここ何年かは「考えてばかりいる」状態だった。「気付いてばかりいる」状態というか、ひとつの気付きがもうひとつの気付きを呼んで、それがまたはじめの気付きにフィードバックして、、というような連鎖がつぎつぎ起こり、常にそれらについて考えている、という状態が続いていた。
だからライブをやるたびにあーでもないこーでもないと饒舌になってブログでぺらぺらと(言わんでもいいようなことも含め)喋り倒す。
ところが去年の福岡ライブを境にライブ後に「喋ることがない」ということが多くなってきた。
「沸き上がる感謝の念」とか「宇宙のひろがり」とか「怠惰な自分の発見」とか「過去と現在のつながり」という言葉で表す現象を生の感覚では感じなくなってきた(無理矢理言ったりはしていたが)。
ライブの間も、定石となっていた「メンバーへの感謝」とか「死者との会話」とかを打たなくなってきた。沸き上がって来ないのだ。
ただそれは「なにも感じてない」ということではない。
なにか、脳にのぼってこないムズムズしたものが胸の奥のほうでくすぶっているのが感じる。
ムズムズしているが、それが何なのか正体がつかめない。
そしてそのムズムズの正体を、脳にあわててつきとめさせようとすると、間違った見切りをしそうだ。
なので、あまり脳で考えないようにしている。
先日のエスペランサのカネラプーラは、出が客席側からだったので、メンバーを見ながら出て行くことになるのだが、その時に普段だったらぐっとくる「あうあう、こんなひとたちと一緒にできてシアワセ!!」という感情は沸かなかった。ただ、とても静かで、凪いだ自分が、金田さんを、小原さんを、ぶちさんを、桂子さんを見ていただけだった。
なんとなく(感謝が沸かないことは)イケナイことのような気がして、もうひとつのオマジナイである「死者への想い」と揺り動かそうとしてみたが、それもしっくりいかなくてやめた。静かな気持ちのままで出て行った。
たぶんそれはよかったのだと思う。
感謝というものは「感謝御礼!!」と叫ぶことだけが感謝ではなく、尊敬も愛も後悔も、身悶えするような激しさでしか感じられないものではない。
今までの気付きを布石にして、なにかがかわるのかもしれない。
かわらないのかもしれない。
でもかわりそうではある。
急がず静かにムズムズの成長を待とう。
わたしは割と饒舌で、いることもいらんことも、べらべら喋ってしまうことが多い。気がついたこと、考えていること、ひっかかっていることを、未推敲段階でもじゃんじゃん喋る。喋っているうちに「こういうことかなあ」と思ったりして整理されていく。
踊る時も、未推敲のままじゃんじゃん舞台に出してしまってから後づけで「こういうことか」と考えたりしているから、やはりそういうタチなのだろう。
その私が最近あまり発信することがない。
発信することがないということは私の場合「考えているがまだお話する段階でない」ということではなくて「考えていることがない」ということである。
めずらしい状態である。
ここ何年かは「考えてばかりいる」状態だった。「気付いてばかりいる」状態というか、ひとつの気付きがもうひとつの気付きを呼んで、それがまたはじめの気付きにフィードバックして、、というような連鎖がつぎつぎ起こり、常にそれらについて考えている、という状態が続いていた。
だからライブをやるたびにあーでもないこーでもないと饒舌になってブログでぺらぺらと(言わんでもいいようなことも含め)喋り倒す。
ところが去年の福岡ライブを境にライブ後に「喋ることがない」ということが多くなってきた。
「沸き上がる感謝の念」とか「宇宙のひろがり」とか「怠惰な自分の発見」とか「過去と現在のつながり」という言葉で表す現象を生の感覚では感じなくなってきた(無理矢理言ったりはしていたが)。
ライブの間も、定石となっていた「メンバーへの感謝」とか「死者との会話」とかを打たなくなってきた。沸き上がって来ないのだ。
ただそれは「なにも感じてない」ということではない。
なにか、脳にのぼってこないムズムズしたものが胸の奥のほうでくすぶっているのが感じる。
ムズムズしているが、それが何なのか正体がつかめない。
そしてそのムズムズの正体を、脳にあわててつきとめさせようとすると、間違った見切りをしそうだ。
なので、あまり脳で考えないようにしている。
先日のエスペランサのカネラプーラは、出が客席側からだったので、メンバーを見ながら出て行くことになるのだが、その時に普段だったらぐっとくる「あうあう、こんなひとたちと一緒にできてシアワセ!!」という感情は沸かなかった。ただ、とても静かで、凪いだ自分が、金田さんを、小原さんを、ぶちさんを、桂子さんを見ていただけだった。
なんとなく(感謝が沸かないことは)イケナイことのような気がして、もうひとつのオマジナイである「死者への想い」と揺り動かそうとしてみたが、それもしっくりいかなくてやめた。静かな気持ちのままで出て行った。
たぶんそれはよかったのだと思う。
感謝というものは「感謝御礼!!」と叫ぶことだけが感謝ではなく、尊敬も愛も後悔も、身悶えするような激しさでしか感じられないものではない。
今までの気付きを布石にして、なにかがかわるのかもしれない。
かわらないのかもしれない。
でもかわりそうではある。
急がず静かにムズムズの成長を待とう。
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