最近よく感じるのだけど、
「わたしのものさし」はフラメンコだ。
なんでもフラメンコで測ろうとするのがクセだ。
わたしは他人と喋ったり、何かを伝えたりするのは苦手だ。
フラメンコで会話をしたり合図を出したりするほうがずっと楽。
目線をあわせること。
あなたが好きだという表明。
たのしいね、という表現。
こうしたいんだけど?という合図。
こうしたいのかな?と汲む事。
どれも現実的に人と関わって上手くいったと思う事は少ない。
わたしのフラメンコのものさしで測ると
わたしの日常生活は全然足りてない。
わたしのフラメンコのものさしは
色々なことが測れる。
人生も、人との関係も、音楽も、料理も、
「それはフラメンコと同じ!」と思う事がとても沢山ある。
沢山あって、そのたびにわたしは嬉しくなる。
だけど、測れない事柄もある。
人生も,人との関係も、音楽も、料理も、
「それはわたしのものさしでは測れない!」と思う事も同時に沢山ある。
沢山あって、それが魅力的かもしれないものだと、ちょっとがっかりする。
(なにせ測れないから、それが魅力的かどうかは実際はわからないのだが)
だってわたしのものさしで測れないと、わかんないんだもん。
だけど、色々探って、勉強していくうちに、わかる様になることがある。
例えばタップダンス。
2年経ってだんだん色んな事がわかってきた(出来ないけど)。
身体の使い方。重力の方向。
タップのことがわかった分だけ、
わたしのフラメンコのことも理解が深まり
フラメンコに落とし込んで話す事が出来るようになる。
(「これはフラメンコと真逆だ」という言い方で)
ものさし自体が変化するように。
そう。「わたしのものさしで測れないことが、わかるようになった」瞬間に
「わたしのものさしで測れるようになっている」のだ。
その時「わたしのものさし=わたしのフラメンコ」は進化している。
「測れなかったことが測れるようになっているものさし」は
便利で使い勝手がよく、ますます愛着のあるものになっている。
わたしのものさしは、やはりあくまでもフラメンコだ。
だけど、わたしのものさしは日々変化して進化している。
色々なものが測れるようなものさしになれたら、
わたしのフラメンコはずっとずっと良くなるはずだ。
精進精進!
「わたしのものさし」はフラメンコだ。
なんでもフラメンコで測ろうとするのがクセだ。
わたしは他人と喋ったり、何かを伝えたりするのは苦手だ。
フラメンコで会話をしたり合図を出したりするほうがずっと楽。
目線をあわせること。
あなたが好きだという表明。
たのしいね、という表現。
こうしたいんだけど?という合図。
こうしたいのかな?と汲む事。
どれも現実的に人と関わって上手くいったと思う事は少ない。
わたしのフラメンコのものさしで測ると
わたしの日常生活は全然足りてない。
わたしのフラメンコのものさしは
色々なことが測れる。
人生も、人との関係も、音楽も、料理も、
「それはフラメンコと同じ!」と思う事がとても沢山ある。
沢山あって、そのたびにわたしは嬉しくなる。
だけど、測れない事柄もある。
人生も,人との関係も、音楽も、料理も、
「それはわたしのものさしでは測れない!」と思う事も同時に沢山ある。
沢山あって、それが魅力的かもしれないものだと、ちょっとがっかりする。
(なにせ測れないから、それが魅力的かどうかは実際はわからないのだが)
だってわたしのものさしで測れないと、わかんないんだもん。
だけど、色々探って、勉強していくうちに、わかる様になることがある。
例えばタップダンス。
2年経ってだんだん色んな事がわかってきた(出来ないけど)。
身体の使い方。重力の方向。
タップのことがわかった分だけ、
わたしのフラメンコのことも理解が深まり
フラメンコに落とし込んで話す事が出来るようになる。
(「これはフラメンコと真逆だ」という言い方で)
ものさし自体が変化するように。
そう。「わたしのものさしで測れないことが、わかるようになった」瞬間に
「わたしのものさしで測れるようになっている」のだ。
その時「わたしのものさし=わたしのフラメンコ」は進化している。
「測れなかったことが測れるようになっているものさし」は
便利で使い勝手がよく、ますます愛着のあるものになっている。
わたしのものさしは、やはりあくまでもフラメンコだ。
だけど、わたしのものさしは日々変化して進化している。
色々なものが測れるようなものさしになれたら、
わたしのフラメンコはずっとずっと良くなるはずだ。
精進精進!