e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

大津皇子

2011年12月19日 | 人物
生年: 天智2 (663)
没年: 朱鳥1.10.3 (686.10.25)
謀反の罪で自殺した皇族。
天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)の子。天武1(672)年6月壬申の乱に際し,近江(滋賀県)を脱出,鈴鹿(鈴鹿市)で父からの使者に会い,続いて伊勢国朝明郡(三重県朝日町付近)において父の一行と合流した。8年5月吉野宮における誓盟に参加,天武の前で皇后(のちの持統天皇),天武・天智の6人の皇子が互いに協力し逆らうことのないことを誓った。12年2月21歳になり,初めて国政に参画。朱鳥1(686)年8月封400戸を加えられたが,同年9月天武が亡くなると,10月2日新羅僧行心らにそそのかされて謀反を企て,失敗して翌日訳語田(桜井市戒重)の家で死を賜った。時に24歳。即日,妃の山辺皇女は嘆いて殉死した。

大津の風貌はたくましく音声明瞭で,天智の寵愛を受け,長じて才学あり文筆を好み,『懐風藻』によれば度量広大で博識,詩文を得意とし,成長するにおよび腕力強く撃剣に巧みとなった。また高貴の身をおごらず人を厚く礼遇したので人気があった。
大津の謀反計画を密告したのは朋友の川島皇子(天智天皇の子)であったという。逮捕された三十余人のうち,行心ほかひとりを除きみな赦免になったことから察すると,計画が事実無根ではなかったとしても,子の草壁皇子を擁立する皇后らが事前に察知し,大津の抹殺のために利用したと考える説が有力である。大津の墓は二上山の雄岳(奈良県当麻町)にある。
『万葉集』に4首の短歌,『懐風藻』に4編の詩を遺す。死に臨んでの「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」の哀切の一首は有名。

同母姉の大伯(大来)皇女が『万葉集』に遺す歌6首はすべて大津への思いやりとその死の哀惜を表す。
1984年度飛鳥京跡調査で,「大津皇」「大来」などの木簡削片が出土した。
<参考文献>直木孝次郎『持統天皇』

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2 コメント

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Unknown (酒徒善人)
2011-12-20 17:04:33
kazuyoo60さんへ
>ごくごく血の繋がりの濃い人の間での政争ですね。
さぁ~お近くの国はどうなるのでしょうか?
そう言えば我が国も???
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Unknown (kazuyoo60)
2011-12-19 18:04:58
ごくごく血の繋がりの濃い人の間での政争ですね。止むをえなかったのかもしれなくても、可哀相な大津御子とと思います。
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