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―熊 鍋―
「ふ~、なんとか危機を脱したわ。一歩間違えば貞操の危機だったけど……殆ど賭だったわね」
サリアの言葉通り、色々な意味で危険な状況をくぐり抜け、彼女は洞窟からの脱出に成功した。
だが、森に入って暫し進んだサリアは立ち止まる。ここが一体何処なのか、それが全く分からない。周囲は樹木が生い茂り、道らしき道も無く、下手に動き回ると遭難して状況を悪化させかねなかった。
というか、ここが一体何処なのか分からない、と既に前述してある。
「やば……道分かんないし……。これじゃあ、あの盗賊達の隠れ家にも帰れないよ……」
早速、遭難しているサリアであった。
サリアはその場所で30分ほど途方に暮れていた。遭難した時は下手に動かずに体力を温存して救助を待つ。これが鉄則である。暗い夜道を歩き回れば、更に森の深部に迷い込みかねないし、最悪、谷や沢に転落して命を落とすことだって有り得る。
幸い、これが冬ならば一刻を争う事態だが、今は凍死するほど夜の冷え込みが厳しい季節でもないし、その気になれば山菜などの食料も豊富に手に入る。長期に渡って生命を維持することは不可能ではない。
しかも辺りは既に暗く、サリアが拉致されたことをエルミが領主に報告していれば、あるいは報告していなくても、彼女が事件に巻き込まれたことが発覚してもおかしくない時間帯だ。既に捜索隊が彼女を探して森に入っているかもしれない。
ここはやはり、この場に留まって救出を待つのがベストであろう。
が、本格的に深夜になれば、二重遭難を恐れて捜索活動は一時中断されるはずで、今夜中の救出は期待出来ない。
それにまだ子供であるサリアにとっては、こんな森の中での野宿など怖くて出来るものではない。はっきり言って、夜の森は下手な心霊スポットよりも不気味な雰囲気に支配されているのだ。いや、元々、夜の森は魔物の類が出現することが多く、本当に心霊スポットと化している場合もある。
ましてや、熊や狼などの危険な動植物も少なからず生息している。木に登るなどすれば、獣の襲撃はある程度は避けられるが、それでは転落の危険が生じて睡眠を取ることが難しくなるし、木に登ることが出来る獣が皆無という訳でもない。
「…………助けを呼ぶしかないかな……?」
サリアは暫し迷った末に、自身を保護してくれる存在を呼び寄せることにした。この際、それが盗賊団の一味であっても構わない。
とりあえず行動してから後のことを考えるタイプのサリアであったが、一度思考を始めるとその判断は冷静であり、なかなか賢い少女だ。まあ、その前の行き当たりバッタリな行動のおかげで+-(プラマイ)ゼロではあるが。
「おーい! おーい!」
サリアは大声で助けを呼んだ。この声を聞きつけるのが、盗賊か、それとも捜索隊になるのかは一種の賭だが、発見してもらえるのならば、ここで一夜を過ごすよりは危険が減るだろう。
それに野生の獣は大きな音を立てている物に対しては、よほどの空腹でもない限りは警戒してあえて近づくような真似はしない。これは獣除けの意味も含まれている。
それから数分間、サリアは可能な限り大きな声で助けを呼び続けた。しかし、そんな彼女の必死の呼びかけに返事を返す者はいない。
やがてサリアの喉は、大声を張り上げすぎたことにより痛み始める。が、それ以上に周囲に誰もいないという現実を突きつけられて生じた不安が、サリアの声を小さくしていった。
「誰も、いないの――――――っ!?」
それでもサリアは最後のあがきとばかりに、今まで最も大きな声で叫ぶ。だが、やはり応える者は無い。
「ダメか……」
サリアはガックリと項垂れた。どうやら野宿を覚悟しなければいけないようだ。ところがその時、近くの茂みの葉が揺らいだ。何者かがサリアに近づいて来る。
「誰!?」
サリアは期待に満ちた視線を茂みに向けた。この際、自分を保護してくれるのならば、相手は誰だって構わない。
(しかし、待てよ?)
と、サリアは思った。仮にこの茂みを揺らしている者が救助隊で、なおかつ彼女の助けを求める声を聞きつけて来たのならば、その無事を確認する為に呼びかけてくるのが普通なのではないか? 無言で近寄ってくるこの存在が、救助隊であるということはまず有り得ないのではないか。
(うわ……それじゃあ盗賊さん……?)
サリアは揺れる茂みに不安を感じ始めた。そしてその不安はぐんぐんと増大していく。なんだか茂みの揺れが、人間が揺らすそれよりも大きいような気がしたからだ。
「は……はは……」
サリアは口元に引きつった笑いを浮かべながら、1歩2歩と後退ずさりを始める。彼女はここ数日で最大の脅威を、生命の危機を感じていた。
そんなサリアの正面に位置する茂みからは、何か黒くて巨大なものがのっそりと姿を現した。それは、体重が1tを超えようかというほどの超巨大な熊であった。
しかも猟師の仕業か、それとも他の獣にやられたのかは定かではないが、右目が大きな傷で塞がっていた。いわゆる『手負いの獣』という奴である。
最悪であった。野生の獣で最も危険なのは、『子連れ』と『手負い』の者である。前者は子を守る為に、後者は傷の痛みで著しく凶暴化している場合が多いからだ。
特に『手負い』の場合は怪我がもとでまともに狩りが出来ず、その為に腹を空かせている可能性が高い。そんな彼らにとって人間はさぞかし容易に捕らえることの出来る御馳走に見えていることだろう。
(あわわわわわわわわ……)
サリアは顔面を蒼白に染めながらも、熊の一挙一動に注意をはらいつつジリジリと後退った。彼女にその自覚があったかどうかはともかくとして、賢明である。
もしも熊と遭遇し、なおかつその距離がある程度離れていた場合、その最も理想的な対処法は熊から視線をそらさずにゆっくりと後退って距離を稼ぐことだ。視線を外したりすると熊はそれを隙だと感じ、襲いかかって来ることがある。また、みだりに大声を上げたりして熊を刺激することも同様だ。
そして熊に限らず犬等にも言えることだが、彼らには背を向けて逃げる者を追う習性があるので、走って逃走することなど以ての外である。熊は鈍重そうに見えて人間の数倍のスピードで走ることも出来るので、かなり距離が離れていないとまず追いつかれる。
だから慌てることなくゆっくりと熊から離れる。食料等の荷物を放置して熊の気をそらすことが出来ればなお良い。もしも熊に人を襲う意志がなければ、そのまま姿を消してくれるだろう。
また、一般的によく言われる『死んだフリ』は自殺行為であることを憶えておいた方がいい。熊は腹を空かしていれば死体を漁ることもあるのだ。その熊相手に死んだフリで安全が保証される訳がない。むしろ、狩りの手間が省けたと熊は喜ぶことだろう。
なお、不運にも熊と至近距離で遭遇してしまった場合、驚いた彼らが問答無用で襲いかかってくる場合が多いので、死を覚悟しよう。そしてどうしても熊との格闘戦を演じなければならない場合は、鼻が弱点なのでそこ狙って打撃を与えると良い。また、少々乱暴な手段だが、熊の口の中に手を突っ込んで舌を思いっきり引っ張ることで、熊が怯んで逃げたという例もある。まあ、さすがにこれは最終手段であろうが。
ともかく、サリアはゆっくりと後退る。しかし、これが普通の熊ならいざしらず、相手は手負いの為に凶暴化した熊である。普通の対処法が通じるはずもない。
熊は突然後ろ脚で立ち上がった。その全高は4mに届こうかというほど、いやあるいは超えているだろうか。とにかく大きい。『山の親父さん』の異名を持つ熊の直立した姿は、そりゃあもう迫力満点であった。

それはサリアにとっては怖い存在の中でもトップだった『父親』より更に恐ろしく感じた。
だが『本気で怒った母親』とは良い勝負のような気がする。そんな母の本気の怒りがサリア自身に向けられたことはまだ1度も無い為、彼女にとっての怖い物のベスト1位にはなっていないが、両親の夫婦喧嘩を見る限り、まさに鬼神の如きものであったとサリアは記憶している。……というか、何をやれば、あんなに母を怒らせることが出来るのだ、父よ……。
まあ、今はそんな過去の疑問にとらわれている場合ではないが。
「ぎぃやああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!!!!!!」
さすがのサリアも恐怖のあまり全力疾走で逃げ出した。そんな彼女の背後から熊が追いかけてくる。あまりの巨体の為に鈍重そうに見えた熊だが、事実その動作は普通の熊と比べても決して素早いとは言えないものであったが、しかし、1歩1歩の歩幅はサリアの何倍もあった。結果、その走る速度はサリアにそう劣ったものではない。
しかも運が悪いことに、そこはなだらかな斜面であった。下り斜面は熊にとっても走るのには不向きな地形ではあるが、人間にとってもそれは同様である。とにかく走る勢いがつきすぎて脚の自由がきかなくなり、転倒する危険性が高いのだ。岩や倒木等の障害物の多い場所で転倒すれば、それは命に関わる。
しかし、最早そんなことを気にしてはいられない。熊に追いつかれれば非力なサリアは間違いなく助からない。もしも熊最大の武器の1つである前脚の攻撃を受ければ、子供の頭など鎌で刈り取るがごとく切断されるか、あるいは原形も留めぬほど粉砕されてしまいかねない。
サリアは全速力で走った。驚異的とも言える動体視力で木々を回避し、岩を飛び越え、その動きはまるでカモシカの如きものであった。
だが、サリアとていつまでもその速力を持続し続けることが出来るはずもなく、徐々にスピードが落ち始める。さすがに大自然の中に生きる熊の持久力には勝てなかったようで、どんどんと距離を狭まって来た。
「たっ、たっ、たす、助けてえぇぇぇぇぇ~!!」
サリアが絶叫をあげたその刹那、彼女の正面から、凄まじいスピードで何かが駆けてくる。一瞬、サリアは新手の獣かと思ったが、それはサリアの脇をすり抜け、そして――、
サリアの背後で、熊が上顎と下顎の間から真っ二つに斬り裂かれた。あの巨大な熊をたったの1撃で、である。
「嘘っ!?」
サリアは悲鳴じみた驚愕の声を上げる。今しがた熊を倒した者は、熊の死体からサリアの方へと視線を移した。
「今日の晩飯は熊鍋だなぁ、お嬢ちゃん」
熊の返り血を多少浴びつつも、平然としたようにそう言ってのけたのは、盗賊団の頭(かしら)、クロスであった。
「…………!!」
サリアはヘナヘナと地に腰を落とした。九死に一生を得た安堵感からではない。クロスが熊などよりもはるかに剣呑な相手であることを嫌がおうにも認識させられたからだ。
「馬鹿な野郎だが、一応俺の子分だ。そいつに怪我させた報いを少しは受けてもらうぜ。大人しくついてきな」
そうサリアに告げるクロスの顔は、言葉ほど怒ってはいないように見えたが、それでもサリアは彼に逆らい難い畏怖の念を覚えた。
次回へ続く(※更新は不定期。更新した場合はここにリンクを張ります)。
―熊 鍋―
「ふ~、なんとか危機を脱したわ。一歩間違えば貞操の危機だったけど……殆ど賭だったわね」
サリアの言葉通り、色々な意味で危険な状況をくぐり抜け、彼女は洞窟からの脱出に成功した。
だが、森に入って暫し進んだサリアは立ち止まる。ここが一体何処なのか、それが全く分からない。周囲は樹木が生い茂り、道らしき道も無く、下手に動き回ると遭難して状況を悪化させかねなかった。
というか、ここが一体何処なのか分からない、と既に前述してある。
「やば……道分かんないし……。これじゃあ、あの盗賊達の隠れ家にも帰れないよ……」
早速、遭難しているサリアであった。
サリアはその場所で30分ほど途方に暮れていた。遭難した時は下手に動かずに体力を温存して救助を待つ。これが鉄則である。暗い夜道を歩き回れば、更に森の深部に迷い込みかねないし、最悪、谷や沢に転落して命を落とすことだって有り得る。
幸い、これが冬ならば一刻を争う事態だが、今は凍死するほど夜の冷え込みが厳しい季節でもないし、その気になれば山菜などの食料も豊富に手に入る。長期に渡って生命を維持することは不可能ではない。
しかも辺りは既に暗く、サリアが拉致されたことをエルミが領主に報告していれば、あるいは報告していなくても、彼女が事件に巻き込まれたことが発覚してもおかしくない時間帯だ。既に捜索隊が彼女を探して森に入っているかもしれない。
ここはやはり、この場に留まって救出を待つのがベストであろう。
が、本格的に深夜になれば、二重遭難を恐れて捜索活動は一時中断されるはずで、今夜中の救出は期待出来ない。
それにまだ子供であるサリアにとっては、こんな森の中での野宿など怖くて出来るものではない。はっきり言って、夜の森は下手な心霊スポットよりも不気味な雰囲気に支配されているのだ。いや、元々、夜の森は魔物の類が出現することが多く、本当に心霊スポットと化している場合もある。
ましてや、熊や狼などの危険な動植物も少なからず生息している。木に登るなどすれば、獣の襲撃はある程度は避けられるが、それでは転落の危険が生じて睡眠を取ることが難しくなるし、木に登ることが出来る獣が皆無という訳でもない。
「…………助けを呼ぶしかないかな……?」
サリアは暫し迷った末に、自身を保護してくれる存在を呼び寄せることにした。この際、それが盗賊団の一味であっても構わない。
とりあえず行動してから後のことを考えるタイプのサリアであったが、一度思考を始めるとその判断は冷静であり、なかなか賢い少女だ。まあ、その前の行き当たりバッタリな行動のおかげで+-(プラマイ)ゼロではあるが。
「おーい! おーい!」
サリアは大声で助けを呼んだ。この声を聞きつけるのが、盗賊か、それとも捜索隊になるのかは一種の賭だが、発見してもらえるのならば、ここで一夜を過ごすよりは危険が減るだろう。
それに野生の獣は大きな音を立てている物に対しては、よほどの空腹でもない限りは警戒してあえて近づくような真似はしない。これは獣除けの意味も含まれている。
それから数分間、サリアは可能な限り大きな声で助けを呼び続けた。しかし、そんな彼女の必死の呼びかけに返事を返す者はいない。
やがてサリアの喉は、大声を張り上げすぎたことにより痛み始める。が、それ以上に周囲に誰もいないという現実を突きつけられて生じた不安が、サリアの声を小さくしていった。
「誰も、いないの――――――っ!?」
それでもサリアは最後のあがきとばかりに、今まで最も大きな声で叫ぶ。だが、やはり応える者は無い。
「ダメか……」
サリアはガックリと項垂れた。どうやら野宿を覚悟しなければいけないようだ。ところがその時、近くの茂みの葉が揺らいだ。何者かがサリアに近づいて来る。
「誰!?」
サリアは期待に満ちた視線を茂みに向けた。この際、自分を保護してくれるのならば、相手は誰だって構わない。
(しかし、待てよ?)
と、サリアは思った。仮にこの茂みを揺らしている者が救助隊で、なおかつ彼女の助けを求める声を聞きつけて来たのならば、その無事を確認する為に呼びかけてくるのが普通なのではないか? 無言で近寄ってくるこの存在が、救助隊であるということはまず有り得ないのではないか。
(うわ……それじゃあ盗賊さん……?)
サリアは揺れる茂みに不安を感じ始めた。そしてその不安はぐんぐんと増大していく。なんだか茂みの揺れが、人間が揺らすそれよりも大きいような気がしたからだ。
「は……はは……」
サリアは口元に引きつった笑いを浮かべながら、1歩2歩と後退ずさりを始める。彼女はここ数日で最大の脅威を、生命の危機を感じていた。
そんなサリアの正面に位置する茂みからは、何か黒くて巨大なものがのっそりと姿を現した。それは、体重が1tを超えようかというほどの超巨大な熊であった。
しかも猟師の仕業か、それとも他の獣にやられたのかは定かではないが、右目が大きな傷で塞がっていた。いわゆる『手負いの獣』という奴である。
最悪であった。野生の獣で最も危険なのは、『子連れ』と『手負い』の者である。前者は子を守る為に、後者は傷の痛みで著しく凶暴化している場合が多いからだ。
特に『手負い』の場合は怪我がもとでまともに狩りが出来ず、その為に腹を空かせている可能性が高い。そんな彼らにとって人間はさぞかし容易に捕らえることの出来る御馳走に見えていることだろう。
(あわわわわわわわわ……)
サリアは顔面を蒼白に染めながらも、熊の一挙一動に注意をはらいつつジリジリと後退った。彼女にその自覚があったかどうかはともかくとして、賢明である。
もしも熊と遭遇し、なおかつその距離がある程度離れていた場合、その最も理想的な対処法は熊から視線をそらさずにゆっくりと後退って距離を稼ぐことだ。視線を外したりすると熊はそれを隙だと感じ、襲いかかって来ることがある。また、みだりに大声を上げたりして熊を刺激することも同様だ。
そして熊に限らず犬等にも言えることだが、彼らには背を向けて逃げる者を追う習性があるので、走って逃走することなど以ての外である。熊は鈍重そうに見えて人間の数倍のスピードで走ることも出来るので、かなり距離が離れていないとまず追いつかれる。
だから慌てることなくゆっくりと熊から離れる。食料等の荷物を放置して熊の気をそらすことが出来ればなお良い。もしも熊に人を襲う意志がなければ、そのまま姿を消してくれるだろう。
また、一般的によく言われる『死んだフリ』は自殺行為であることを憶えておいた方がいい。熊は腹を空かしていれば死体を漁ることもあるのだ。その熊相手に死んだフリで安全が保証される訳がない。むしろ、狩りの手間が省けたと熊は喜ぶことだろう。
なお、不運にも熊と至近距離で遭遇してしまった場合、驚いた彼らが問答無用で襲いかかってくる場合が多いので、死を覚悟しよう。そしてどうしても熊との格闘戦を演じなければならない場合は、鼻が弱点なのでそこ狙って打撃を与えると良い。また、少々乱暴な手段だが、熊の口の中に手を突っ込んで舌を思いっきり引っ張ることで、熊が怯んで逃げたという例もある。まあ、さすがにこれは最終手段であろうが。
ともかく、サリアはゆっくりと後退る。しかし、これが普通の熊ならいざしらず、相手は手負いの為に凶暴化した熊である。普通の対処法が通じるはずもない。
熊は突然後ろ脚で立ち上がった。その全高は4mに届こうかというほど、いやあるいは超えているだろうか。とにかく大きい。『山の親父さん』の異名を持つ熊の直立した姿は、そりゃあもう迫力満点であった。

それはサリアにとっては怖い存在の中でもトップだった『父親』より更に恐ろしく感じた。
だが『本気で怒った母親』とは良い勝負のような気がする。そんな母の本気の怒りがサリア自身に向けられたことはまだ1度も無い為、彼女にとっての怖い物のベスト1位にはなっていないが、両親の夫婦喧嘩を見る限り、まさに鬼神の如きものであったとサリアは記憶している。……というか、何をやれば、あんなに母を怒らせることが出来るのだ、父よ……。
まあ、今はそんな過去の疑問にとらわれている場合ではないが。
「ぎぃやああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!!!!!!」
さすがのサリアも恐怖のあまり全力疾走で逃げ出した。そんな彼女の背後から熊が追いかけてくる。あまりの巨体の為に鈍重そうに見えた熊だが、事実その動作は普通の熊と比べても決して素早いとは言えないものであったが、しかし、1歩1歩の歩幅はサリアの何倍もあった。結果、その走る速度はサリアにそう劣ったものではない。
しかも運が悪いことに、そこはなだらかな斜面であった。下り斜面は熊にとっても走るのには不向きな地形ではあるが、人間にとってもそれは同様である。とにかく走る勢いがつきすぎて脚の自由がきかなくなり、転倒する危険性が高いのだ。岩や倒木等の障害物の多い場所で転倒すれば、それは命に関わる。
しかし、最早そんなことを気にしてはいられない。熊に追いつかれれば非力なサリアは間違いなく助からない。もしも熊最大の武器の1つである前脚の攻撃を受ければ、子供の頭など鎌で刈り取るがごとく切断されるか、あるいは原形も留めぬほど粉砕されてしまいかねない。
サリアは全速力で走った。驚異的とも言える動体視力で木々を回避し、岩を飛び越え、その動きはまるでカモシカの如きものであった。
だが、サリアとていつまでもその速力を持続し続けることが出来るはずもなく、徐々にスピードが落ち始める。さすがに大自然の中に生きる熊の持久力には勝てなかったようで、どんどんと距離を狭まって来た。
「たっ、たっ、たす、助けてえぇぇぇぇぇ~!!」
サリアが絶叫をあげたその刹那、彼女の正面から、凄まじいスピードで何かが駆けてくる。一瞬、サリアは新手の獣かと思ったが、それはサリアの脇をすり抜け、そして――、
サリアの背後で、熊が上顎と下顎の間から真っ二つに斬り裂かれた。あの巨大な熊をたったの1撃で、である。
「嘘っ!?」
サリアは悲鳴じみた驚愕の声を上げる。今しがた熊を倒した者は、熊の死体からサリアの方へと視線を移した。
「今日の晩飯は熊鍋だなぁ、お嬢ちゃん」
熊の返り血を多少浴びつつも、平然としたようにそう言ってのけたのは、盗賊団の頭(かしら)、クロスであった。
「…………!!」
サリアはヘナヘナと地に腰を落とした。九死に一生を得た安堵感からではない。クロスが熊などよりもはるかに剣呑な相手であることを嫌がおうにも認識させられたからだ。
「馬鹿な野郎だが、一応俺の子分だ。そいつに怪我させた報いを少しは受けてもらうぜ。大人しくついてきな」
そうサリアに告げるクロスの顔は、言葉ほど怒ってはいないように見えたが、それでもサリアは彼に逆らい難い畏怖の念を覚えた。
次回へ続く(※更新は不定期。更新した場合はここにリンクを張ります)。