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2014年3月12日
読売新聞
1945年3月13、14日の第1次大阪大空襲を9歳の時に経験し、親を奪われた大阪市東住吉区の牧野房江さん(78)が今、当時の様子を振り返る手記を書いている。あの空襲から間もなく69年。小学校にも行けず、戦後も働きづめで、昨年やっと夜間中学に入れた。覚えた漢字を使い、先生にも尋ねながら「当たり前に勉強に励める世が続くように」と願いを込めて記憶をつづる。(南部さやか)
高島屋大阪店に近い、大阪・難波の長屋に住んでいた。いつものように防空ずきんをかぶってげたを履いたまま玄関に寝ていたら、「起きんかい」と、父に揺り起こされた。飛び出すと、すでに火が迫り、
母はすでに亡く、父の梅原誠二郎さん(当時51歳)、祖母のメイさん(当時79歳)と3人暮らし。近くの防空
空腹で、空襲警報で起こされる夜が続いて疲れ切っていた。動けずにいると、兵隊さんが、竹の皮の包みを手の上にのせてくれたのに気づいた。開けたら、輝くように白い三角おにぎりが二つ。涙が出た。祖母と一つずつ、味も分からないぐらいの勢いで口に入れた。
翌日地上に出ると、空が晴れてきれいだった。見渡す限り建物は灰になり、まだ炎が上がっているところがあった。米軍のB29爆撃機274機が大量の焼夷弾を投下したこの第1次大阪大空襲で、大阪市中心部の約13万6000戸が焼け、約4000人が死亡した。
父の遺体は、防火水槽で見つかった。どうしてなのか。涙も出なかった。
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空襲後、祖母とは別々の親戚宅に引き取られた。会えないまま、祖母は3年後に亡くなった。
房江さんが身を寄せた家は裕福だったが扱いは過酷で、房江さんはおかゆを水で薄めたものを独りで食べさせられた。空腹で、「土をなめたい」と思った。栄養失調で倒れ、蒸した芋を盗んで食べたこともある。
家の手伝いばかりで学校に戻ることは許されず、同年代の子が羨ましかった。家出し、ミナミの日本料理店に住み込みで働き始めたのが18歳。すき焼きを店の人が作ってくれ、一緒に食べた。忘れていただんらんの温かさに胸が詰まった。
21歳で結婚し、夫と電気工事の自営を始め、仕事と2男1女の子育てに追われた。子どもの手が離れる頃、外国の貧困地域の子の映像をテレビで見た。かつての自分のようだった。祖母や父を思い出して泣いた。
夫が亡くなり、家業を継いだ次男家族と一昨年同居を始めて時間ができた。昨春、大阪市立文の里中学校の夜間学級に入学した。
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小学校の漢字や計算から習う。家庭科で作った手提げかばんに教科書を入れ、週5日、電動車いすで通う。覚えるのは遅いが、知らないことを知るのは新しい世界を旅するように楽しい。
若い教師に頼まれ、昨年10月、同校全日制の中学生の前で、初めて体験を語った。つらかった時期を思い出して後悔したが、感想文に「自分たちがいかに恵まれているか分かった」と書いてあった。
「聞いてもらう意味はある」。鉛筆を握り、紙に向かった。題は「おにぎり」。戦争による飢えが、どんなにつらかったか――。手記が完成したら、中学生に読んでもらおうと思う。
大阪大空襲 B29爆撃機100機以上の規模による大阪大空襲は計8回あり、第1次の被害が最も大きかった。これらを含め、大阪府域への空襲は1944年12月~45年8月に約50回。ピースおおさか(大阪国際平和センター、大阪市中央区)によると、死者、行方不明者は計約1万5000人だった。ピースおおさかは、空襲死没者の名簿9050人分(昨年3月末現在)を展示している。