水月光庵[sui gakko an]

『高学歴ワーキングプア』著者 水月昭道 による運営
※お仕事連絡メールに一両日中の返事がない場合は再送願います

「高学歴ワーキングプア」も、ご縁?

2010年06月30日 | 庵主のつぶやき
「一夜明け 侍ジャパンに 感謝する」

昨晩の試合は、まさに〝勝負は時の運〟を見せられた思いです。
しかし、落胆はしていません。

結果こそ残念でしたが、内容は素晴らしかった。

思い返せば、最初は決勝リーグがはるか遠くに見えたもの。
気がつけば、強豪をやぶりついにベスト16。
ベスト8入りだって、手のひらの上に一度はのった。

ただ、最後の最後、わずかに運がこぼれたようだ。
だが、それも縁。人間の身の上では、どうにもならない領域にある。
私たちは、ただ黙って(ご縁を)頂くしかない。

だからこそ、それは結果にかかわらず決して悪いものではないはずだ。
縁は、誰がくれるのかはわからないが、私たちへのプレゼントであることは間違いない。
なら、ありがたく頂くというのが筋だろう。

侍ジャパンは、今回も素晴らしい夢を見せてくれた。
そして、大きなお土産もくれた。

ゲーム終了後、彼らが映る画面の向こうに、くっきりと彫り込まれた「つづく」という一文字を、確かに見た人たちは少なくないだろう。

もう一度、彼らに感謝の言葉を述べたい。「本当にありがとう。勇気をもらいました」

高学歴ワーキングプア問題も、苦闘の連続だが、その向こうにきっと、それぞれの人にとって大事な何かを発見するきっかけ(ご縁?)が潜んでいるのではなかろうか。それを信じて私も微力ながら声を出し続けたいと思う。でも正直、こちらの「つづく」は、もうそろそろ勘弁して欲しいですよね・・。


----UTCP企画 【報告】学ぶこと、祈ること、信じること----より抜粋----
(水月)「私は道が開けるだろうなどとは考えていないんです。私に何かやるべきことがあれば、どこかに縁が降りてくるだろう、と信じているだけです。学問の道で縁がなければ、また別の場所にきっと別の縁があるのだろう、と。縁をひたすら信じること、それは道が開けることとは違うんです。縁のなかに含まれる自分の使命にしたがうだけです。」(文責:西山雄二)


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ゴール!の声 切望する博士たち

2010年06月29日 | 庵主のつぶやき
いよいよ来年の任期切れが見え始めた。
なに言ってる? まだ半年以上あるだろ!、との声も聞こえてきそうだが、あとたった半年ちょいである。

なんたって、これまで何年も専任へのエントリー待ちをしてきたわけで、ここにきて急に決まるなんて虫のよいことはなかなか考えられない。 べつにアカデミアの住人にこだわるわけではないが、研究を続けたいならそこにいたほうがいいのは間違いない。

たとえば、私は、「子どもの健全な発達を支えるにはどんな地域環境が必要なのか」という視点から「子どもの道草研究」に携わる一人だが、大学の人間だからこそこうした研究ができるのであって、フリーになればたぶん難しいだろう。

以前、大手新聞社の記者さんから連絡をうけたことがあった。
「子どもが通学路で遊ぶ姿をレポートしたいのですけど、フィールドを紹介してもらえませんか?」 

大学や研究機関というものに対する、世間からの信用度の高さは、こういうところにも現れる。

十年ほどかけた研究成果は、すでに、子どもの発達と地域・社会環境とのかかわりに注目する「こども環境学・保育学・環境心理学・建築学」などの分野でもぼちぼち採り上げられたが、いよいよ来年にはそれもおじゃんになるかも。なんとももったいなく、切なくも・・。

さて、日本代表、ベスト8をかけた戦いが始まった。
博士たちの背中を押す「ゴール!」の声を切望する。



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大学教員 不安を口にできない仕組み

2010年06月28日 | 庵主のつぶやき
英科学誌ネイチャーが、世界の科学研究者を対象に「待遇の満足度調査」を行ったそうだ。給与、休日、健康、年金、労働時間など8項目についての満足度を調べたらしい。欧米諸国や中国、インドなど16カ国中、日本は最低だという。(日本人科学者、待遇に不満? 満足度調査で最下位に, asahi.com, 2010年6月24日)

関係者は、このニュースを聞いて、それぞれの立場で複雑な思いを抱えていることだろう。教授・准教授・講師・助教などの間だけでも、受け止め方は大きく異なるだろうし、ここにポスドクや専業非常勤講師などが入ればもっとややこしくなるはずだ。

一番トップがもし、「そうだ、私たちの待遇は酷い」と言ったとする。すると、ただちに二番目は「私たちはさらに酷い」となるだろう。三番目は「なにを贅沢な」となり、一番下は「自分たちの待遇こそ改善してもらいたい」と続いていくのは目に見えている。きりがない、が、まだ下がいる。

ポスドクからすれば「うそでしょう、天国じゃないですか?」と映るだろうし、専業非常勤講師の口からは「私たち同じ先生やってますけど、年金とか保険とかなぜか無縁だし」とあきらめにも似た台詞がつぶやかれるかもしれない。さらに下のオーバードクターは「地獄だ」と言ったきりだまってしまうかもしれない。院生まで下がるとどうなるんだろうか。

少子化で、定員割れ大学も増えている。たとえ今、正規雇用されていても今後はどうなるか怪しい。万一、所属大学がつぶれれば、専任教員といえどただちに今度は、ポスドクや専任非常勤講師以下にまで転落する。どんよりと重い空気は積み重なるばかり。

我が国の高等教育界には、よく知られているように公的資金の投入が他国に比べて小さい。どこも金がなくてピーピー状態だ。格差も広がっている。待遇は、この先も厳しくなるばかりだろう。それをどうにかしよう、との声はあまり大きくならない。立場を超えて〝相談できる〟ような状況ではとてもないからだ。いや、他の人のことを考えると「自分だけ言えない」と、皆が互いに気を遣っているといったほうが正解か。

明日の我が身を考えると、それぞれが暗澹たる気持ちになっている。そうした不安を抱えながら、「講義+研究」という労働を等しく大学という現場で担っている。少しだけ前向きな視点でいけば「本当は仲間なんでしょう」。でも、不安が強くなりすぎて、それが分からなくなってるみたいだ。

一方、学生はそんな先生方を見てこう呟くかもしれない。「先生方も大変でしょうが、私たちも学費が高くなりすぎて大変です」。

この国の高等教育界は果たして大丈夫なのだろうか。このままだと「人を育てる」という大事な役割を果たせなくなるかもしれない。


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文科省、「高学歴ワーキングプア」 わからない

2010年06月27日 | 庵主のつぶやき
日本共産党の宮本岳志衆議院議員が提出した「大学院博士課程修了者の就職確保と研究条件改善に関する質問主意書」(2010年6月14日)と政府答弁書(2010年6月22日)を拝見。

政府は、「高学歴ワーキングプア」の意味するところが必ずしも明らかでないとして、非常勤講師の雇用問題についてはほぼ無回答。

日本の私大の講義の約6割が、非正規雇用の先生たちによってまかなわれている現状を指摘されておきながら、なぜきちんとした回答を頂けないのか不思議だ。 たとえ文科省が「(言葉の意味が)わからない」と言っても、市民や現場(アカデミア)には既に「高学歴ワーキングプア」という言葉は広く浸透しているというのに。

当局は、非常勤講師の待遇は、個々の大学の判断によって行われるべきものとして捉え、基本的に介入などは考えていないようだ。 今後のさらなる博士増産計画との絡みなのだろうか。高学歴ワーキングプア問題をスルーしたい意図が見え隠れする。

9月16日発売予定の拙書『ホームレス博士』(光文社新書)では、現場の声を拾いあげている。悲惨な状況にたいする理解が少しでも深まってくれることを祈るばかりである。


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2010年版科学技術白書の怪 高学歴ワーキングプア増産か?

2010年06月21日 | 庵主のつぶやき
6月15日発表の2010年版科学技術白書について思うところあり。
「まじですかい?」

報道各社の記事によれば、白書の内容は概ね以下のようにまとめられる。

*現在の問題 → 日本の科学技術の競争力低下 
*今後の大きな目標 → 新しい価値を創造できる人材育成を急ぐ / そのためにさらなる博士の増産
*ハードル → 研究費の政府負担比率が小さい / 博士の就職難
*対策 → 博士号取得者の社会での幅広い活用を支援
*希望的観測 → 企業における採用率のアップ / 研究に限らない道の開拓(新聞記者や高校教師など) / 博士の知を共有できる社会の実現

科学技術白書なんで「文系博士」に全く触れられていないのはまあいいとして、これまで推し進めてきた「大学院重点化」の総括もほとんどなされていないように見えるのは、一体どういうことなのか?

表面的には「博士の就職難」といった現象を採り上げてはいる。だが、なぜそういうことが起こったのか、どこに問題の本質があったのか、政策で増やしたはずの博士が十万人余りも職に就けず社会から姿を消そうとしているのはなぜなのか、それなのになぜ今また博士を増産しようとするのか、そして現在どれほどの非正規雇用状態にある博士が存在するのか。こういったことに触れず、科学技術の競争力低下を防ぐため「博士人材の育成が急務」と言われても、「すでに余りに余ってるんですけど・・」。

そもそも我が国の科学技術環境の底上げを謳って、政策として博士を増産してきたはずですよね?、この二〇年近く。 なのになぜ「日本の科学技術の競争力低下」が起こっているのか? よく「量が増えたから質が低下した」―私はこれを支持しない立場だが―などの発言も聞かれるが、「さらに増やすべし」というなら、どう答えるつもりなのか。

また、多大な税金を投入して作り上げた博士たちは、これまで国のどこにも配置されず、そのほとんどが非正規雇用に甘んじているが、博士のより一層の増産はこれをさらに悪化させるだけではないのか。 

そもそも質の低下や科学技術の競争力低下は本当なのか?言い切れるほど根拠は十分なのか? 原発や水資源開発、超高速鉄道などの我が国がNo.1とされている技術について、耳にする機会は少なくないが・・。

思うに、現在の〝本当の〟問題は、政策で作った博士を有効活用する「制度」ができていないことにあるのではないか。企業の採用枠増に期待するとは、約二〇年前から唱えられている台詞だが、現在に至るまでほとんど実現していない。企業は、初任給が上がり(人件費)コストに響く大学院修了者なぞお呼びでないのだから。

大学においても、未だに四〇代以上の教員は終身雇用で守られ、リストラはまずない。しかも、定年は平均65歳とやたら長い。少子化で定員割れ大学が増えるなか、ポストは少なくなるばかり。しわ寄せは、20代・30代の博士たちにいく。

長期にわたり安定的立場で大学に残ることができる博士は若手を中心に減少の一途をたどっている。
博士号を取得し数年経ち、油がのってきて、研究者人生で最も質の高い論文を書くチャンスに恵まれるはずの三〇代を、日々の生活や将来を憂う不安定な状態で過ごさねばならない博士たちが圧倒的に多いのだ。加えて、彼らは専任教員に採用されなかった人たちが、非正規雇用の半永久ループや、高齢ポスドクになり切り捨てされる姿など、非人間的な扱いを受けるのを繰り返し目にする。たとえどんなに優秀な人材であっても気力が萎えていくのではなかろうか?

もし、我が国の科学技術の競争力が低下しているというなら、それは雇用問題に端を発している可能性にこそ目を向けるべきだろう。正規雇用され安定した立場にいる教員の多くは四〇代以上と言われる。超一流の研究成果を国が求めていることを考えると、その芽を育てる(あるいは実現する)最も重要な時期にある三〇代以下の研究者(正規雇用)があまりに少ない今の状況はいささか不安ではなかろうか。研究能力のピークを迎えようとする世代を、おかしな雇用環境が潰しまくっている。


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政権に届け! 高学歴ワーキングプア問題 その1

2010年06月15日 | 庵主のつぶやき
管首相が所信表明演説で高等教育現場の環境整備についてこう触れた。

「我が国の未来を担う若者が夢を抱いて科学の道を選べるような教育環境を整備するとともに、世界中から優れた研究者を惹きつける研究環境の整備を進めます」

本気で進めて頂けるのであればむろん、これほど嬉しいことはない。
しかし、民主党は昨年末の事業仕分けで、研究職ポストをめぐって深刻化する雇用問題に対し、「市場原理にまかせればよい」などの無定見ぶりを発揮したばかりである。

文部科学省の「若手研究育成」事業に対し、縮減を求めた仕分け人たちのつけた理由に、あきれ果てた若手博士たちは少なくない。

集約すると、概ねこうなる。
「就職困難な若手研究者への生活支援的意味合いが強いので、税金を投入する必要性や意味をそれほど強く感じない」

現場をあまりにも知らないと批判せざるを得ない。

二〇〇九年一月十八日付の『朝日新聞』(朝刊)では、理系ポスドク(博士号を有する任期付研究員)は一万五千人(文部科学省調べ)、文系専業非常勤講師は二万六千人(首都圏大学非常勤講師組合調べ)とある。二つとも非正規雇用ポストであり、あわせると、四万一〇〇〇人にものぼる。

実は、我が国の教育や研究は彼ら非正規雇用の博士たちによって支えられているとことが大きい。大学の講義が非常勤講師の手に置き換わる率は増加し続けており、私学に至っては半数近くの講義がすでに彼らに〝外注〟されているとも言われる。理系の研究現場でも同じように、ポスドクという名の任期付ポストで半永久ループに甘んじている博士たちは少なくない。

万一、その多くが急にいなくなったりすれば、高等教育と研究、科学技術開発の全てがストップするほどの打撃を受けることは間違いない。

だが、事業仕分けでの仕分け人たちの発言を聞く限り、こうしたことの一切がわかっていないのだと思わざるを得ないのだ。

すでに、我が国の将来を担うであろう若者たちは、研究の道に進むリスクを忌避し、大学院博士課程の定員割れすら進みつつある。この国で「夢を持って研究者の道を進もう」などと責任を持って言える人は果たしているのだろうか。アカデミアに少しでも関係する人間なら良心がとがめて決して口にできない台詞であろう。

なぜ、こうした問題が起きたのか、その構造については拙書『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)にて多くを述べた。

以降では、どうすればこの泥沼の博士問題を解決に導けるのか。そんな視点から、数回に分けて本問題を論じてみたい。

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益川敏英先生 高学歴ワーキングプア問題を語る

2010年06月12日 | 庵主のつぶやき
2010年05月16日に明治大学で開催されたシンポジウム「高学歴ワーキングプアの解消を目指して」に飛び入りで参加してきた。得るものの多いシンポだった。以下に、益川敏英先生(ノーベル物理学賞 2008年受賞)のご講演を中心とした報告を行う。

まず、先生は、「いまの高学歴ワーキングプア問題は、実は新しい問題ではない」と切り出された。いつの時代にもあったことが、現代という時代のなかでいままた深く採り上げられるようになった、と。

思えば、昭和三年あたりの世界大恐慌のさなかは、「大学は出たけれど」という言葉がはやった時代だったし、1970年あるいは1980年代頃の新聞を眺めても既に博士の就職問題に関する記事がぼちぼち見つかる。確かに、高学歴者が就職できない時代というのは、過去からずっと浮かんでは消えを繰り返してきた。だが、それらと現在との間には、ひとつだけ見逃してはいけない大きな違いがある。過去に発生した同様の問題は、ある意味自然発生に近い形であったが、現在の高学歴ワーキングプア問題は完全に人為的であることだ。いわば「人災」にも等しい。

それはさておき、まあ就職問題は当時からあったそうで、大学を出たけれども勤める場所がなく、みんな苦しいといった状況。そんななか、一人だけ私大にツテをつけてそこに就職を決めるなど、抜け駆けする輩もでできたそうで、当然、やっかむ声や〝けしからん〟との声があがる。実は、ここが大事みたいで、先生はとにかく「自分が苦しければ〝声をあげる〟しかないでしょ?」、と。

この場合、たとえば、不満の〝声があがった〟ことがきっかけとなり、(就職の平等性確保のため)公募制度をつくろうなんて動きにも繋がったようで、「こういうの悪くないでしょ?」と仰るのだ。

他にも、学生がぶつぶつ言いながらもそれを前に進む力にかえた例として、「海外に展望を見いだそう」なんて盛り上がった結果、実際に、日中素粒子研究交流なるものが始まったりしたという。もちろん、流動研究員制度などを政府に作ってもらえるよう働きかけることも片方で抜け目なく進められたそうだ。

「問題が発生したなら、それに対応する形で声をあげたりして、一つ一つ解決策を導いていくしかないのではないか」。つまり、目の前に起こる出来事は予測不可能な場合が多々あるので、難題が発生したら一つずつ地道につぶしていくしかない。これが益川流の考え方の基本のようだ。長い研究者人生のなかからにじみ出てきた教訓にも見える。

学生の進路指導に対するガイダンスをそもそも大学が行っていない時代で、自分たちは、若い頃、独力で(就職先を含む進路を)探して進むべき道を決めていくしかなかったことも、影響していたかもしれないと、先生は振り返る。たとえば、素粒子やってて、ちょっとほかにも勉強の手を広げてみると「宇宙物理のほうに興味が湧いた」なんてことは普通で、そうした場合、新しい興味に従って、身軽にそういう勉強ができるところに移っていったりする人も珍しくなかったという。目の前で常に揺れ動いている物事に対し、柔軟に対応することこそが生き残るコツ、なのだろう。

博士の就職問題は根深いもので、簡単には解決できないという視点を含みつつも、先生は、「苦境にある人たちに『自分たちのことを真剣に考えてくれ、行動し、支えてくれる人が確かにいるのだ』という心の支えや信頼感を持つことができるサポートを、教員やそのほかの人たち皆ですることが大事」とも、仰る。

自らを振り返れば、奨学金を使う形での互助会のような仕組み作りも行ったそうだ。借りられる人が借りて、互いに仲間内で融通しあう。あとで、金が入るような仕事についたら、返してもらう。今の人が聞いたら腰を抜かしそうな話ではある。でも、先生はこう続ける。「そういう、仲間内の団結があったし、またそういうことを通して絆が深まりました」
利他の精神を発揮することにより、自らも力が得られるということだろうか。

もし、抜本的な解決をのぞむなら、政府なりを動かすしかない。が、それを悠長にまっている暇はない、とこちらにも力を込める。なぜなら、院生の意欲が減退し続けるからだと、先生はそこに強い懸念を示す。だから、彼らのこころが折れないように、まわりが何か動いてみせることが大事で、結局それが救いにもなるという。そうすることで、彼らは間接的に心が支えられる、とも。

「これは(高学歴ワーキングプアの問題は)基本的には、社会の決意の問題なのです」

資源に恵まれない日本にとって、人作りこそが大事であるはずだが、それには金がかかる。これまでは、国が成長するなかで個人や家庭だけで、その部分を受け持ってきた。だが、成長減退期に入った我が国で、それは不可能なところにまできている。格差が広がり、かつての中産階級も低所得層へと転落し、家庭にはもうお金がなくなってきているからだ。社会が、公的な資金を用いて人材育成を行うことについてどう考えるのか。ここが磨き抜かれなけねば、我が国の将来も危うくなるはずだ。

公的な研究資金の投入に関して、だからよく議論することが大事だと先生は持論をぶつ。「どういう研究だから、どれくらいの予算をつけて、研究を進めるのを許すか」が大事になる、とも。

現在は、「研究を進める前に『これくらいの人間が欲しい』となり、そうすると『これくらいの予算が必要(欲しい)』となるので、それは、過剰生産につながる」と、問題も指摘する。

「これをやる、この方面の研究をやることは重要なことなのだ」という社会的コンセンサスを作ることが、本来は大事なことなのにそれが出来ていないと嘆く。現状は、役人さんが喜ぶ計画書を作成し、お金をもらうことに腐心する研究者ばかり、と顔を曇らす。

また、(大学院重点化という政策で)作り出した人材(博士)に対しては、PLO法の精神にのっとって、生み出した教授に責任がある!、などの責任感とその所在をもっと明確にしていく動きが社会に広がるべきだと訴える。

自身のことで言えば、「よくポストを紹介してほしい」と大勢からお願いされるそうだ。だが、そこにも見過ごせない問題が隠されているのだという。紹介すれば、「その社会的地位があなたの今にふさわしいものですよ」、というような格付けを一方的にしてしまう危うさもあるから「悩むのです」。若い研究者はこの先、どのように変化し飛躍していくかわからないのに、下手をすると芽をつぶすことにもなりかねないと懸念するのだ。

かつて先生自身が、北陸の大学に応募したときのこと。「あなたは優秀すぎるから」と言われて断られた。今から考えると、まるで、お見合いで断りの返事がなされる時と全く同じなんだが、体よく断られたことに、気づかず、ちょっといい気になって信じてしまった。それで、次に公募に出して決まったところが、京大だったそうだ。そんなことが関係しているみたいだ。

今、自分の歩んできた道を振り返ってみると、結果的には、自分は日の当たるポストを歩んできたけど、「なんでなのか」はよくわからない、と笑ってみせる。だけど、とにかく、がむしゃらにできることに手を出し続けたことは確かだとも。公募にせよなんにせよ、とにかく一生懸命だった、と。「そういう姿が、仲間にも力を与えるんじゃないでしょうか」

今いるところが狭すぎてパイの分け前が手に入らないのなら、ほかに進路を見つけ、そこに「新しい居場所を見つけることもありだと思います」。素粒子したいから、「ぜったい素粒子!」とこだわる姿勢は「かえって危ないと思います」。

転職ということだって視野に入れてもいい、とさらりと言ってのける姿には驚くばかりだが、先生はつとめて本気である。そういう身軽さが大事だし、それもありというメッセージを上手に伝えるシステムも必要になるだろう、と。

学生は、いまいるところにこだわろうとするから、それが一番危ない。そこから離れ、精神を自由にしてあげるサポート体制だって必要だ。追い求めていた道を変更することには、ネガティブに捉えられがちだが、決してそうではない。人生にはいろんな可能性があり、どの方面でそれが開花するかは誰にもわからない。だから柔軟に変わり身(柔道でいうなら受け身)をとれるように、自由な発想と精神を若い人たちがもてるようになる「体制づくりこそが絶対に必要でしょう」。

決して、失敗したから、うまくいかないから 転職というのではないのだ。新たな可能性をみつけだすための転職という意味なのです、と先生はココを強調された。

自分はこうなるだろう、なんて勝手な思いこみが、硬直をもたらし失敗の遠因になる。自分はどうなるかわからないが、可能性を常に追いかけよう、そのときそのときに必要な対処を的確にしていこう。「そんな心がけが生き残る秘訣であると思います」

自分の考えていることは、いつも再検討する必要がある。もし、それでも正しいと信じられるのなら、行動してみる。さすればかならず、仲間があらわれる。信念をもって歩めば支持してくれる人がいる、と先生は会場にいる人たち全てを見渡して力を込める。

「私の全人生は遊びです。そもそも学問というものは肩肘はらなくても十分楽しいものです。だから、こういう成果をあげなきゃ、賞をとらなきゃ、なんて思いで学問をしたことはありません。たとえば、大学生などに伝えたいことは、レポートを提出しないといけないからなどの〝義務感でやる〟のは学問の楽しみをスポイルしているのではないかということです。そうではなくて、気がついたらやっていた、なんていうのが本当に学問する、ということではないでしょうか」

赤い糸はつながっているわけではないが、(もし、これだと思えるようなものに)出くわしてしまったなら信じて突き進むしかない、と先生は最後に仰った。自分の場合は、それが今の学問に結果的に繋がった、とも。それぞれの人には、それぞれのご縁があり、そこを大事にすることで自分なりに得心できるとのメッセージが私には伝わってきた時間だった。

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子どもたちは「博士になりたくない」、だろう

2010年06月09日 | 庵主のつぶやき
昨日の、管首相の会見で、「高学歴ワーキングプア」にとって大いに注目すべき発言がありました。

社会保障をきちんとやる必要性に触れるなかで、「従来は社会保障というと何か負担、負担という形で、経済の成長の足を引っ張るんではないかと、こういう考え方が主流でありました。しかし、そうでしょうか。スウェーデンなどの多くの国では、社会保障を充実させることの中に雇用を見いだし、そして若い人たちも安心して勉強や研究に励むことができる」と説いています。


今、我が国で、若い人たちがなぜ勉強をするのかといえば「不安」だからではないでしょうか? 生活に将来に展望が見えづらいから、どうしようもなく不安になり、それを解消するには「学歴を身につけるしかない」と信じ込み、親も子もいい大学を目指し、あるいは大学院などで高度専門技能を身につけるためにひたすら走っている。

大学生の場合は〝厳しい就活戦に勝ち抜くための勉強〟に必死のようにも見えます。講義をしていると、最近の学生さんは本当に熱心です。Aをとるレポートのコツなどを紹介すると、一段と目が輝きます。

先行きの不安は膨れあがっていますから、その恐怖感は当事者たちには決して小さくないはずです。彼らは、よく勉強しますが、決して「安心して」やっているわけではないはずです。「安心が欲しくて」やっているのが本当のところでしょう。

そうやって頑張った先によい大学に入って、就職先に恵まれたとしても、その後に、リストラなどが待ち受けていることも、もはや普通の風景となっているのにです。学歴など手に入れようとも安心などもう手には出来ません。

だけれども、「大学」はそういう大事なことを教えてはくれません。むしろ、「うちに来れば就職は間違いないですよ」とばかりに、自学の就職率が高いことをことさら強調して宣伝を行います。

現在の大学は、その先の就職市場と一本化されているからです。短大と4大をあわせると、進学率は50%にものぼります。国民の多くが大学まで行き、その後、就職するモデルです。

新雅史は『大学の専門学校化と衰退する「知」』と題する論考のなかで、ある種の就職専門学校と化した大学のあり方に疑問を唱えています(「論座」二〇〇八年六月号)。こんなものはもう大学とは呼べないんじゃない?、といったところでしょうか。

こういうわけで、客集めに必死の大学は、よその大学にではなく、一人でも自学に呼びこむために見栄えをできるだけよくしようと努めます。数字いじりと思えることさえあるようです。

それは、地方単科大学などのHPで公表されている就職率をちょいとのぞいてみれば、すぐに気がつくレベルです。限りなく100%に近い数値がいくらでも目に出来ます。でも、それっておかしくないですか? こんな就職大不況のご時世に、実感としてありえますか? 全国平均にしても、90%台で公表されています。そんなに就職してたら「就職氷河期」なんて言葉はでてこないはずです。

母数のとり方にマジックがあるようです。卒業生全員ではなく「就職希望者」だけをここに入れているというわけです。わけあってフリーターとかすることになった人は、「就職する気がなかった」とされるのですね。つまり、就職する気があったもののうちの何割が就職できたのかを示しただけですが、こうなってくるといくらでも母数はいじれます(『最高学府はバカだらけ』光文社新書、石渡嶺司)。こういうのって一般社会でいえば○装のレベルに近いんでは?

同じように、大学院修了者の就職率もかなり怪しいと考えねばなりません(拙書『アカデミア・サバイバル』中公新書ラクレ)。たとえば、博士課程修了者の就職率は全国平均で60%台ですが、現場にいる博士の誰もが違和感を感じるはずです。旧帝大であっても、就職できてない人(非正規雇用)のほうが多い状況で、なぜ全国平均のほうが過半数以上になっているのでしょう?

2010年5月11日付の読売新聞「東大は出たけれど…理学博士の任期付き雇用3割」によれば、東大で理学博士号を取得して7年後の30台半ばになっても、任期付きなどの非正規雇用に甘んじている者が約三割とあります。博士号とって、そろそろ十年が見えてくるほどの期間キャリアを積んでも、アカデミアでは平社員どころか派遣あたりの身分なのですね。東大であってもこうです。ちなみに、08年度の新卒博士(東大理学部)はどうだったかといえば、大学・研究所の終身職は5%。終わってます。


さて、管首相が大事にされようとなさる教育における「安心」のキーワードですが、安心と信頼は表裏一体の関係ではないでしょうか。公表される数値がいじられているようなことがまかりとおる高等教育界にあって、信頼などどこから得られるのかな、と心配になります。それもこれも、国が高等教育に予算を投じないことが遠因となっていることは明らかです。金がなければ、悪知恵もでてくるでしょう。貧すれば鈍する、ですよ。このへん、政治課題だと思いますが、いかがでしょう。

どんなに厳しい数字でも、大学側が進んで学生たちに現実を教えることができる環境づくりが急がれます。ちなみに、この春の大卒者の就職率は、まともに計算すると約50%程度に落ち着くようですよ。これだと実感どおりですね、うん。



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リストラなう!―私は― 来年までの「ポスドクなう!」

2010年06月08日 | 庵主のつぶやき
担当編集者のM氏からメールを頂きました。
「ブログ拝見しました。延期、本当にすみません」
わざわざのご連絡に嬉しいやら申し訳ないやら。

先日、(『ホームレス博士』)「延期」と聞いたときは気分はまさにどん底。
それは、アカデミアで何年たっても一兵卒扱いされるポスドクの心情のごとしでした。たぬきちさんのブログにも、「ゲゲゲ」の水木先生の戦争体験に触れた箇所がありましたよね。新入りが入らずいつまでも初年兵(の状態)が続くどん底地獄、のくだりです。

ポスドクの位置づけは、ほぼコレに準じますから。いつまでも、アカデミアの最下層。しかも、基本的に仲間とは思われていない。「同じ釜の飯を食う仲間」ではなく「釜の飯を食わせてやってる○隷」。ですから、当然、人として(一人前の研究者として)扱われることなどほぼないわけです。学部生や院生からも「先生とは違う人=なれない人」と冷ややかにみられてます。非常勤講師をやっている人(=先生)は多いはずなんですが・・。ま、心はささくれるわけですよ、やっぱり。早く人間になりたーい!と。

ところが、M氏は〝わざわざ〟―ここがとても大切なところです―重ねてお詫びの連絡をくださったのです。大事にされている、と久々に感じましたね。こんな人並みの扱いをうけるのはいつ以来でしょうか。嬉しくなるのも不思議ではないでしょう?

思えば、たぬきちさんと私の担当M氏は同じ会社ですから互いに顔を知ってるわけですよね。私は、ブログで初めて〝たぬきちさん〟を知っただけなので直接の関係は全くないんですけれども。でも「リストラなう!」の影響が間接的にこの身に及んだ。営業畑におられたとのことなので、もしかしたら三年前に拙書『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)でお世話になっていたのかもしれませんが―であればありがとうございました。でも本当に不思議な気分です。

ブログを媒介にしたコミュニケーションの妙にちょっと穏やかな気持ちになっていたりするのです。

しかし、来年4月以降のことをそろそろ真剣に考えないと―というか、この数年ずっとトライしてきたんだが―このままじゃ(研究者としても日々の暮らしも)終わるな、と焦ってます。

たぬきちさんは、退社二ヶ月前からブログに集中し始めたんですよね。
文面を見直してみても、やはり魂がこもってるのを感じますよね。

本ブログも気分一新、名前を変えて『来年までの「ポスドクなう!」日記』とかにしようかしら。


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リストラなう!の影響がここまで・・きちゃいました

2010年06月07日 | 庵主のつぶやき
ご無沙汰しております。
ちょっといろいろありまして・・

実は、7月刊行予定の『ホームレス博士』がまたもや延期になってしまいました。読者のみなさまには大変申し訳なく思います。少しでも状況のご説明をさせていただければと思います。

さる6月2日の夕方、携帯が鳴りました。見ると、担当編集者のM氏でした。受話器を耳にあてると、申し訳なさそうに「来月以降に刊行月を延ばしてもらえないでしょうか」との申し入れが。社内事情というやつでした。

瞬間的にピンとは来ていました。というのも、この出版社は、前日の6月1日に新たなる旅立ちを迎えていたからです。そもそも連絡はメールが主体ですから、電話があること自体が緊急事態発生を物語っています。

さて、会社に一体なにが起こったかといえば、初の大リストラです。その様子は、対象者自らが赤裸々に内部事情を語り、業界内外から大変な注目を浴びているブログ『たぬきちの「リストラなう」日記』に詳しくありますので、そちらをどうぞ。当方の問題としては、その余波が思わぬ形で降りかかってきたことにあります。

延期の理由は以下三点。
①異例の大リストラが行われた。
②結果、刊行ラインの整理・統合が行われることになった。
③加えて、夏に出さないと売れない〝季節もの〟が割り込んできた。

以上のことから、あわれ『ホームレス博士』は押し出されたのでした。アカデミアでもずっと惨めな立場でしたが――。ああ一般社会においてもこうですかい・・。野良って辛いですわね。こんなわけで、大変恐縮ですが9月16日までお待ちいただけましたらと、平に御容赦願います次第です。

ときに、私、来年3月をもって任期満了を迎えます。これで、本当にホントの最後です。。当然、次の勤め先を見つけるべく就活をしなければならないところですが、なかなかそれも出来ず!です。

任期が切れれば、ただちに定期収入がなくなりますから、すぐに家賃代にもことかくことになるでしょう。しかし、こうなったとしても、ポスドクなど、だ~れも助けてくれやしません。生きていくための社会(保障)システムからも漏れ落ちていますから、ノラ博士がほぼ確定でしょう。このあたり、「リストラなう!」の著者(たぬきち)さんとは大きく異なるところです。

たぬきちさんの会社では、早期退職者制度で退職金(約二千万円だそうだ)に上乗せ(五百万円くらい)がされるばかりか、雇用保険もすぐに支給されその額は250万円近くとのことで、凄いなとうなるばかり。とりあえず、住む家がすぐになくなるリスクなどはないみたいですし、再就職支援もあり、使い捨てが当たり前のポスドクとは世界が違いますなあ。

そういえば、先日、シンポジウムでチャーリーさんこと「鈴木謙介」さんとご一緒したんですが、出身高校が同じとわかりお互いびっくり。そのチャーリーさん曰く「大学教員になってみたものの、フリーのほうが収入がよかった」と仰っておりました。さすがです。さて、こっちはこれからどうしようか・・

今は、読者からの「早く新刊読みたい」という声だけが支えです。





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