昨日の、管首相の会見で、「高学歴ワーキングプア」にとって大いに注目すべき発言がありました。
社会保障をきちんとやる必要性に触れるなかで、「従来は社会保障というと何か負担、負担という形で、経済の成長の足を引っ張るんではないかと、こういう考え方が主流でありました。しかし、そうでしょうか。スウェーデンなどの多くの国では、社会保障を充実させることの中に雇用を見いだし、そして若い人たちも安心して勉強や研究に励むことができる」と説いています。
今、我が国で、若い人たちがなぜ勉強をするのかといえば「不安」だからではないでしょうか? 生活に将来に展望が見えづらいから、どうしようもなく不安になり、それを解消するには「学歴を身につけるしかない」と信じ込み、親も子もいい大学を目指し、あるいは大学院などで高度専門技能を身につけるためにひたすら走っている。
大学生の場合は〝厳しい就活戦に勝ち抜くための勉強〟に必死のようにも見えます。講義をしていると、最近の学生さんは本当に熱心です。Aをとるレポートのコツなどを紹介すると、一段と目が輝きます。
先行きの不安は膨れあがっていますから、その恐怖感は当事者たちには決して小さくないはずです。彼らは、よく勉強しますが、決して「安心して」やっているわけではないはずです。「安心が欲しくて」やっているのが本当のところでしょう。
そうやって頑張った先によい大学に入って、就職先に恵まれたとしても、その後に、リストラなどが待ち受けていることも、もはや普通の風景となっているのにです。学歴など手に入れようとも安心などもう手には出来ません。
だけれども、「大学」はそういう大事なことを教えてはくれません。むしろ、「うちに来れば就職は間違いないですよ」とばかりに、自学の就職率が高いことをことさら強調して宣伝を行います。
現在の大学は、その先の就職市場と一本化されているからです。短大と4大をあわせると、進学率は50%にものぼります。国民の多くが大学まで行き、その後、就職するモデルです。
新雅史は『大学の専門学校化と衰退する「知」』と題する論考のなかで、ある種の就職専門学校と化した大学のあり方に疑問を唱えています(「論座」二〇〇八年六月号)。こんなものはもう大学とは呼べないんじゃない?、といったところでしょうか。
こういうわけで、客集めに必死の大学は、よその大学にではなく、一人でも自学に呼びこむために見栄えをできるだけよくしようと努めます。数字いじりと思えることさえあるようです。
それは、地方単科大学などのHPで公表されている就職率をちょいとのぞいてみれば、すぐに気がつくレベルです。限りなく100%に近い数値がいくらでも目に出来ます。でも、それっておかしくないですか? こんな就職大不況のご時世に、実感としてありえますか? 全国平均にしても、90%台で公表されています。そんなに就職してたら「就職氷河期」なんて言葉はでてこないはずです。
母数のとり方にマジックがあるようです。卒業生全員ではなく「就職希望者」だけをここに入れているというわけです。わけあってフリーターとかすることになった人は、「就職する気がなかった」とされるのですね。つまり、就職する気があったもののうちの何割が就職できたのかを示しただけですが、こうなってくるといくらでも母数はいじれます(『最高学府はバカだらけ』光文社新書、石渡嶺司)。こういうのって一般社会でいえば○装のレベルに近いんでは?
同じように、大学院修了者の就職率もかなり怪しいと考えねばなりません(拙書『アカデミア・サバイバル』中公新書ラクレ)。たとえば、博士課程修了者の就職率は全国平均で60%台ですが、現場にいる博士の誰もが違和感を感じるはずです。旧帝大であっても、就職できてない人(非正規雇用)のほうが多い状況で、なぜ全国平均のほうが過半数以上になっているのでしょう?
2010年5月11日付の読売新聞「東大は出たけれど…理学博士の任期付き雇用3割」によれば、東大で理学博士号を取得して7年後の30台半ばになっても、任期付きなどの非正規雇用に甘んじている者が約三割とあります。博士号とって、そろそろ十年が見えてくるほどの期間キャリアを積んでも、アカデミアでは平社員どころか派遣あたりの身分なのですね。東大であってもこうです。ちなみに、08年度の新卒博士(東大理学部)はどうだったかといえば、大学・研究所の終身職は5%。終わってます。
さて、管首相が大事にされようとなさる教育における「安心」のキーワードですが、安心と信頼は表裏一体の関係ではないでしょうか。公表される数値がいじられているようなことがまかりとおる高等教育界にあって、信頼などどこから得られるのかな、と心配になります。それもこれも、国が高等教育に予算を投じないことが遠因となっていることは明らかです。金がなければ、悪知恵もでてくるでしょう。貧すれば鈍する、ですよ。このへん、政治課題だと思いますが、いかがでしょう。
どんなに厳しい数字でも、大学側が進んで学生たちに現実を教えることができる環境づくりが急がれます。ちなみに、この春の大卒者の就職率は、まともに計算すると約50%程度に落ち着くようですよ。これだと実感どおりですね、うん。
社会保障をきちんとやる必要性に触れるなかで、「従来は社会保障というと何か負担、負担という形で、経済の成長の足を引っ張るんではないかと、こういう考え方が主流でありました。しかし、そうでしょうか。スウェーデンなどの多くの国では、社会保障を充実させることの中に雇用を見いだし、そして若い人たちも安心して勉強や研究に励むことができる」と説いています。
今、我が国で、若い人たちがなぜ勉強をするのかといえば「不安」だからではないでしょうか? 生活に将来に展望が見えづらいから、どうしようもなく不安になり、それを解消するには「学歴を身につけるしかない」と信じ込み、親も子もいい大学を目指し、あるいは大学院などで高度専門技能を身につけるためにひたすら走っている。
大学生の場合は〝厳しい就活戦に勝ち抜くための勉強〟に必死のようにも見えます。講義をしていると、最近の学生さんは本当に熱心です。Aをとるレポートのコツなどを紹介すると、一段と目が輝きます。
先行きの不安は膨れあがっていますから、その恐怖感は当事者たちには決して小さくないはずです。彼らは、よく勉強しますが、決して「安心して」やっているわけではないはずです。「安心が欲しくて」やっているのが本当のところでしょう。
そうやって頑張った先によい大学に入って、就職先に恵まれたとしても、その後に、リストラなどが待ち受けていることも、もはや普通の風景となっているのにです。学歴など手に入れようとも安心などもう手には出来ません。
だけれども、「大学」はそういう大事なことを教えてはくれません。むしろ、「うちに来れば就職は間違いないですよ」とばかりに、自学の就職率が高いことをことさら強調して宣伝を行います。
現在の大学は、その先の就職市場と一本化されているからです。短大と4大をあわせると、進学率は50%にものぼります。国民の多くが大学まで行き、その後、就職するモデルです。
新雅史は『大学の専門学校化と衰退する「知」』と題する論考のなかで、ある種の就職専門学校と化した大学のあり方に疑問を唱えています(「論座」二〇〇八年六月号)。こんなものはもう大学とは呼べないんじゃない?、といったところでしょうか。
こういうわけで、客集めに必死の大学は、よその大学にではなく、一人でも自学に呼びこむために見栄えをできるだけよくしようと努めます。数字いじりと思えることさえあるようです。
それは、地方単科大学などのHPで公表されている就職率をちょいとのぞいてみれば、すぐに気がつくレベルです。限りなく100%に近い数値がいくらでも目に出来ます。でも、それっておかしくないですか? こんな就職大不況のご時世に、実感としてありえますか? 全国平均にしても、90%台で公表されています。そんなに就職してたら「就職氷河期」なんて言葉はでてこないはずです。
母数のとり方にマジックがあるようです。卒業生全員ではなく「就職希望者」だけをここに入れているというわけです。わけあってフリーターとかすることになった人は、「就職する気がなかった」とされるのですね。つまり、就職する気があったもののうちの何割が就職できたのかを示しただけですが、こうなってくるといくらでも母数はいじれます(『最高学府はバカだらけ』光文社新書、石渡嶺司)。こういうのって一般社会でいえば○装のレベルに近いんでは?
同じように、大学院修了者の就職率もかなり怪しいと考えねばなりません(拙書『アカデミア・サバイバル』中公新書ラクレ)。たとえば、博士課程修了者の就職率は全国平均で60%台ですが、現場にいる博士の誰もが違和感を感じるはずです。旧帝大であっても、就職できてない人(非正規雇用)のほうが多い状況で、なぜ全国平均のほうが過半数以上になっているのでしょう?
2010年5月11日付の読売新聞「東大は出たけれど…理学博士の任期付き雇用3割」によれば、東大で理学博士号を取得して7年後の30台半ばになっても、任期付きなどの非正規雇用に甘んじている者が約三割とあります。博士号とって、そろそろ十年が見えてくるほどの期間キャリアを積んでも、アカデミアでは平社員どころか派遣あたりの身分なのですね。東大であってもこうです。ちなみに、08年度の新卒博士(東大理学部)はどうだったかといえば、大学・研究所の終身職は5%。終わってます。
さて、管首相が大事にされようとなさる教育における「安心」のキーワードですが、安心と信頼は表裏一体の関係ではないでしょうか。公表される数値がいじられているようなことがまかりとおる高等教育界にあって、信頼などどこから得られるのかな、と心配になります。それもこれも、国が高等教育に予算を投じないことが遠因となっていることは明らかです。金がなければ、悪知恵もでてくるでしょう。貧すれば鈍する、ですよ。このへん、政治課題だと思いますが、いかがでしょう。
どんなに厳しい数字でも、大学側が進んで学生たちに現実を教えることができる環境づくりが急がれます。ちなみに、この春の大卒者の就職率は、まともに計算すると約50%程度に落ち着くようですよ。これだと実感どおりですね、うん。