ブックマークさせていただいている「あおぞらブログ7」の本日の記事は、
「あなたの介護はどのくらい未来をみている?」 というものでした。
この記事のキーワードは、「予後予測」。
そして、この記事をもとに、裸王田中さんが、twitterで答えてくださった言葉が、
★(介護の専門性をだすためには)「予後予測」を含めた「未来を見る目」がないと「誰(素人)でもまじめにやればできる」から抜けれないと思います
★・・・専門性が世間に認められない理由のひとつに「予後予測」の弱さはあると思います
★予後予測のためには根拠と評価だと思っています
と寄せてくださいました。私も、まったく同感です。
また、記事の中には、
本人が「やりたいと言っている」だからそれを「意欲を削ぎたくないから」という理由だけで継続していただいているのならば、これははっきり言えば「専門性の放棄」以外ないと思います。
という指摘をされています。
これも、うん、うん、とうなずいてしまいます。
それは、何も、利用者さんや家族が、今、行われている介護を否定しなさい、いっているのではありません。
利用者さんや家族も、「なんとか、今、頑張ってリハビリをしてもらいたい。
そうすることで、いつまでも自分で歩けて、自分らしい生活が送れるだろう」と一生懸命に取り組んでいらっしゃいます。
しかし、そのやり方が適切な方法でないとすれば、いつかは、どこかで、無理が来ます。
それは、即ち、自分らしい生活が送れなくなる、ということでもあります。
そこで、必要となってくるのが、「根拠」と「評価」です。
「どういったことから、そう思ったのか」
「それを続けるとどうなるか。それは何故か」
等といったことを考え、では、そうならないためには、何をどうアプローチするのか。
そこが、素人ではない、リハならリハ、看護なら看護、そして、介護なら介護としての見立てであり、
利用者さんの生活の中に、専門職がかかわるという一つの意義を見いだすことができるのだろうと思います。
介護支援専門員に立場を変えると、ケアプランを作成する過程で、
「もし、このままの状態で、利用者さんが生活すると、どうなるでしょう?」、という質問を投げかけることがあります。
そうすると、実に様々な答えがかえってきます。
「転んじゃうかもしれない」「閉じこもりがちな生活になるかもしれない」
そして、もっと、もっと極端になると、「虐待するかも」「離婚するかも」等々、今の時点で、そこまで想像しますか~?といった意見も出てきます。
利用者さんや家族ときちんと向き合い、その人の望む暮らしとはどういった生活なのか、
それを実現させるためには、どういう方法がより望ましいのか。
それを、利用者さんや家族からの面接を通じ、過去を想像し、未来を創造してくなかで、
できるだけ現実的に将来、起こりうることを予測し、
何かしらのリスクは最小限に、喜びは最大限に引き出すことができるような支援が求められていきます。
介護に関する予後というのは、もしかしたら、医療の世界よりも、もっと予測しにくいものかもしれません。
また、相談援助の世界では、「プロセスが大事」ということも、よくいわれます。
しかし、それらは、結果を軽視してよい、ということはいうまでもありません。
よい結果が得られてこそ、そのプロセスが良かったのだと評価されます。
そのためにも、絶えず予後を予測し、それに対し、今、望ましい専門職としての関わりができているのか。
自らの関わりを振り返ってみる必要があるように思います。
因みに、「予後予測」という言葉は、介護の世界では、比較的新しい言葉ではないかと思います。
予後」という言葉は、病気や手術などについて、その経過や回復時期の見込みをいう、医療的な言葉でもあります。
「病院の言葉」をわかりやすくする提案」の10番目に「予後」という言葉が出てきます。
とここで、また引っかかり。最初の問いに戻ってしまいそうだけど・・・
「介護の専門性」ってなんだろう?
たとえば「食事を介助します」っていったとき、
姿勢や食べる動作をみるのは、理学療法士さんや作業療法士さん。
飲み込みや咀嚼については、言語療法士さんや歯科衛生士さん。
栄養がとれているかや、食べやすいかは、栄養士さんや調理師さん。
あれ?じゃぁ、介護って、何の役割?
これって、「看護の専門性」を考える時にも考えたこと。
その時は、介助するのは介護職さんに任せているし、じゃぁ、看護は何をするの?と思ったことがあります。
さて、「介護の専門性」って何でしょう?
第507回 専門性を追求しない資格~ラヒホイタヤ という記事も書きました。
このときに「専門性」と用いた言葉と、今「専門性」と用いている「専門性」とは、同じか否か?
そこからも、考えてもいかなくては・・・と、ふと思いました。
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なんだか根拠のないような感じですが。
私自身が論理的思考の訓練をあまりしてこなかったことで纏まりのない文章になりすいません。
実は、記事を書きながら、
終わりのほうは、こんがらがってきてしまったのですが・・・。
高齢者介護の中で、
「あなたが言うのなら」という安心感は、
私も大事にしてることの一つです。
ただ、「関わり」という視点から考えると、
社会福祉士さんも「関わり」なんですね。
それを、
介護福祉士さんは「生活面から」
社会福祉士さんは「社会システムの面から」
といってしまっていいのかどうか・・・。
「生活」という言葉は広いですからね。
もしかしたら、そこから考えて行かなくては、
答えは見つかっていかないかも・・・と
思いつつあります。
支援者側にいて、
寄り添ってケアをしています、といいつつ、
おっしゃられている
「自分の人生観、経験則から逸脱」が
如何に出来ていないかと思います。
寄り添うとはなにか。
いったい何に寄り添うのか。
専門性を探る一つのキーワードではないか、
と思います。
先日の当方のセミナーでもこの予後予測の話が出た(自分で出した)のですが、いろいろ見なくてはならないことはありますが、介護専門職では「廃用症候群は知っているが誤用・過用症候群については知らないし考えたことがない人が多い」ということはよく分かりました。
専門職として廃用だけでなく「誤用・過用症候群」の理解が重要なキーワードになりそうな気がします。
「廃用性症候群」という言葉は、
随分と、一般的になってきたようにおもいますね。
しかし、「誤用・過用症候群」という言葉は、
まだまだ、極一部の人達のことばですね。
それに「廃用性症候群」という中身も、
まだまだ、四肢等の見える部分にのみに
着目しているようにも思います。
(循環器障害や消化器障害、褥瘡、肺炎、
精神機能の低下なども廃用性症候群の一つだよ、
というと、へぇ~というケアマネ、介護職が
多く強います)
専門職であれば、
そういう言葉の中身に対しても正しい理解をし、
共通言語を一つでも多くしていく必要がありますね。