きょうの五野井隆史さんの講義は「キリシタン大名」についてでした。1563(永禄6)年に肥前横瀬浦でドン・バルトロメウの名で洗礼をで受けた大村純忠が日本最初のキリシタン大名で、1578(天正6)にはドン・フランシスコの大友宗麟、1582(天正!0)にドン・プロタジオの有馬晴信と続いたのは少年使節がらみで背景やエピソードのいくつかを私も知っています。
きょうの講義はいわばキリシタン大名入門編でキリシタン大名というネーミングの由来、あるいはザビエルをはじめ来日宣教師が武家社会の階層をポルトガル語やスペイン語でどう表記したかというような内容が主体でした。
たしかに大名といってもピンからがキリまであるわけですから慣れない日本で宣教師たちがヨーロッパでの階層を参考にしながら必死で序列をあらわす呼称を考えたことは想像にかたくありません。
黒田官兵衛の洗礼名がドン・シメオンだったこと、高山右近の手引きで1584(天正12)年に受洗したことがよく知られていますが、彼も播磨時代は4万石、秀吉の九州平定後は12万石ですからキリシタン大名の一人といっていいでしょう。3年後には嫡男の長政がダミアン、弟の直之もミゲルとして洗礼を受けています。たしかルイス・フロイスの『日本史』に長政が豊後に着陣している官兵衛を訪ねてふたりで修道士から聴聞を受ける記述があったと思います。
問題はほかのキリシタン大名と同じく秀吉がバテレン追放令を出したときの対応でした。秀吉から棄教を命じられなかったのは官兵衛ひとりだったという言い伝えもありますが、キリシタン故に九州平定の際の勲功で与えられる領地が減らされたのですから信用できません。
ただ、心ならずも棄教させられたものの1604(慶長9)京都伏見で亡くなるまでキリシタンとしての心はもちつづけたとされ、葬儀は京都で仏式で、博多では教会でされたといいます。このへんのところは去年のNHKの大河には出ていなかったと思いますが。